とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

空しいとは

今回はこの言葉にこだわってみたいと思います。

一般的に空しいとは以下のように使います。

むなし‐い

【空しい・虚しい】

《形容詞》

1 からっぽだ。内容がない。 「―弁舌」

2 むだだ。かいがない。役に立たない。 「―努力」

3 頼りにならず、はかない。 「人生、何事も―」

4 ―・くなる死ぬ。                                                   

しかし自分が空しいと思うときはどういう時かと考えてみると、どうもはかない人生とかよりも自分の欲望が満たされないとき、そしてそれがどうしようもないときに「あ~空しいな~」と思っていたように思います。    
本当に人生何も残らない、すべてが無駄ではないかという思いもあるでしょうが、どちらかというと自分の夢が破れたり自分の思うとおりに周りが動かなかったりする時、怒りを通り越した後に空しいと思うのはやはり欲望が満たされなかった事により出てくる感情ではないでしょうか。                          
いやそんなことは無い、自殺したくなる人は人生何一つ当てにならずはかなく空しいと思っているのではないかと言われるかもしれませんが、自殺の原因はそんなことより死んだ方が楽になると思ってされる人の方が多いように思うのです。 私感ですがニュースやブログなど読んでいるとそう思うのです。

結局自分の思いが通らない、満足できない、死んだ方が楽と間違った考えに陥っているような状態ではないのかと。
一方、そうじゃない方も沢山いるでしょう。

いずれにしても空しいというのは、この世の人生に満足できていないことやどうしようもない感情により自分を抑えることが出来ないものでしょう。
                                                                                                                                             
鸞聖人は御和讃で以下のように言われています。                                                             

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし                      

高僧和讃
                                                                                                
曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし                          

高僧和讃


親鸞聖人は仏教に出会えなければ、阿弥陀様の御本願に出会えなければすべては空しい人生となってしまうと言われています。仏教に出会い阿弥陀様とのご縁を結ぶことは本当に有り難いことであり、その事によって人生は大きく変わることは間違いありません。

逆に言えば阿弥陀様の御本願に遇わせていただいたなら空しいことは何もないということになります。
どんな人の人生も全く空しくないということになるのです。お金持ちであろうが貧乏人であろうが、いかなる人の人生も全く空しくないのです。                   
私はこの世に生きている人はすべて阿弥陀様の御本願に願われて人たちであり、その人生がどうであれすべては阿弥陀様の本願に遇わせていただくための人生なのですから空しいなどと言うことは無いと思うのです。      
だから自分の幸せを願っていろんな迷いを重ねても、いつかは仏様のご縁に遇わせていただけるのではないかと思います。そう思いたいのかもしれませんが、そう思います。

阿弥陀様は光明無量、寿命無量なのです。連続無窮の働きをされるわけです。でなければ私が今阿弥陀様とのご縁を結べるわけがありません。

だからこそ阿弥陀様とのご縁があった以上、大いに御念仏を称えさせていただかなければいけないと思うのです。 そこには空しいという言葉は存在しないと思うのです。

                                           
今回はちょっと言い切ってみます。どんな生活であろうがこの世は空しくないのです。一番空しいのは仏様、阿弥陀様とのご縁を結ばずに人生を終わることです。
                                                                   
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

実感

人間は命を頂かないと生きていけません。

命のあるものを体に取り込まないと生命力を維持できません。

タンパク質を生成し続けていかないと有機体を保つことが出来ません。

とにかく命と呼ばれる物を毎日毎日死ぬまで体に取り込んでいます。

赤ん坊を見ているとものすごい生命力を感じます。自分の環境を常に最高に保とうと泣いたりわめいたりあらゆる手段を駆使して生きています。

そこには感覚とかでなくとにかく生きているという圧倒的な実感をこちらに与えてくれます。あ~、生きている、間違いなく生きていると赤ん坊を見ていると思います。

私が生きていることの実感よりも赤ん坊を通して私が生きていると思わされることの方が大きいような気がします。

 

では、阿弥陀様の救いはどうでしょうか。

 

私に実感があるのか、無いのか。

 

実感というと生きている実感、愛されている実感、嫌われている実感、恐れている実感、怒っている実感、憎んでいる実感、欲している実感などなど感情と呼ばれるものに心はころころと動いていることが分かります。

この感情の動きに関しては十分に実感があります。

そういうものには非常に敏感に反応するのですが、南無阿弥陀仏とか阿弥陀様と言われると「はて????」と考え込んでしまいます。

ところがこの仏様、私にあらゆる手段を使って何かを感じさせようとしてきます。

私の場合は、「死ぬのが嫌だ、人生何のために生きているのか」、などの命題を私に与え、この世の中の迷いの状態を知らせてきます。それに答えるように、また、何かに引きずられるようにボンクラな頭はいろんな物に興味を示し、自分が楽になれるものを掴もうと動き回らせられます。

そこでまた自分が楽になる世界を探し、示され、求めていきます。

そうこうしているうちに何処にも私の中に私を楽にさせる種がないことに気づかされ、手放しで自分を阿弥陀と呼ばれる仏様にお任せさせられます。

そこには自分から何かした実感は全く有りません。

しかし何かされた実感と言うよりも納得するなどという感覚に近い反応に気づかされます。

それでももっとハッキリした実感があるのではないかといろんな事をやってみたり思ってみるのですが、どうも無駄であることにまた気づきます。これは実感というのかどうか分かりませんが、気づきます。

たとえば彼女になぜ振られたのか分からなかったことが、あるとき「あ~、あれでは振られて当然だ。」と気づかされたようなものです。

さて、実感とは真にいい加減で有りながら普段無意識に感じていることかもしれません。

愛しているとか愛されている実感も実はいい加減な思い込みなのかもしれません。

そうすると実感とは一体何なのか、よく分からない感じしか残らないと思います。

そんな心の動きに一喜一憂することなく自分が今すべきことを冷静に考え行動できたらいいのにな~と思いますが、無理ですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

気持ちは言わなければ伝わらないが・・・。

自分が思っていることを相手に理解してもらおうと思って言葉を尽くして伝えようとしてもなかなか伝わらないことが多いと思います。面と向かって相手の顔を見て話をしても伝わらないときは伝わりません。当然、メールやlineでは十分ではありません。

ですから仕事をしているときでも家庭でも、そのうち面倒くさくなってどうでもいいやと思うこともしばしばあります。

私だけかもしれませんが、そうして放っておくと後でしまったと思うこともあります。人間と動物の違いは、言葉を操り自分の今の思いとか感じていることを伝えることが出来るかどうかと言うことと、自分の存在意義について考えることがあることではないかと思います。

お釈迦様は人々を救おうと立ち上がり法を説かれました。そして、お弟子の中から悟る者が沢山出てきました。原始仏教では声聞、縁覚と言われ、菩薩ともほぼ同等の扱いだそうです。それが大乗仏教が言われるようになってから、声聞、縁覚と菩薩は扱いが変わってきたそうです。

釈尊の法を聞いて悟る、あるいは自ら十二因縁を体得して悟る人を声聞、縁覚と言われるようになりました。これらの方はお釈迦様の教えを沢山聞かれているので、教えについて語ることは出来るのですが、そのお心というか気持ちを伝えることが出来ないと言われています。

声聞、縁覚とは、別名二乗と言われ自力で阿羅漢果の悟りを得た方達です。自分の力で煩悩を断絶し、悟りを得られた方ですが、仏様ではありませんので、慈悲が無いと言われています。慈悲が無いと言うことは、我利我利亡者かというとそうではなくで、まず、我が身の煩悩を断絶することを優先した結果、大慈悲心を起こすことが無いと言われています。

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大智度論』では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。

大乗仏教では、「二乗の者は地獄にさえ堕ちない」と言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないという意味で、二乗は仏になれないと非難されているのである。・・・・wikiより

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大乗仏教の教えからすれば、自分だけでなく他の人の幸せも念じることが慈悲の心であると言われます。自分にあるか、無いかは別として慈悲の心は私にかかっているのでしょう。仏様の気持ちは私に直接言葉で伝わってきていないと思っていましたが、実はいろいろな形で私を呼びかけていることを教えてくださいます。

私の周りに仏様のお力は目に見えない形で働いておられます。それは人それぞれに感じられるでしょう。感じられない人は、こう思ってください。命、今、生きていることに阿弥陀様のお力がかかっている、だから、生きていることは阿弥陀様のお力が働いているからだと。

アホかと思われるかもしれませんが、そのことに真剣に向き合っているのが比叡山などで聖道門の修行をされている方々ではないかと思います。

比叡山などで自力の修行をされている方は声聞、縁覚の方かもしれません。

浄土真宗は、大乗仏教です。

自分だけの思いから信心決定を目指していると思っていますが、その思いが他の人を導こうと阿弥陀様のお力によって起こさせられいるかもしれません。

そういう意味で親鸞会での顕正活動(中身は別として)は尊いものだったのかもしれないと思うこともあります。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

宗教問題15を読んで

パソコンが使えるようになりましたので再開します。

 

そもそも「宗教問題」などと言う本があることさえ知らなかったのが、そのことを「さよなら親鸞会」や「安心問答」などで知って是非読んで見たいと思いました。

なかなか手に入らないと思ったけど、アマゾンで追加があるかないか分からないうちからとりあえず申し込んでおきました。

まず、手に取ってみて思ったのが週刊金曜日みたいな本だなと思いました。知る人ぞ知る週刊金曜日ですが、知らないということは怖ろしいというか、親鸞会の人たち、高森会長はインタビューを受けるにあたって宗教問題を読んだことがあったのだろうかと思いました。

高森会長だけでなく幹部はその事を知らなかったのか、ちょっとガードが低いな思います。本の題名からして危ないと思わなかったのかと思わずにおれません。

端的に感想を言うと、自信過剰というか問題意識の無い団体だと今なら本当に思います。

中にいると分からないかもしれませんが、マインドコントロールの一言で片付けるには問題が大きすぎですね。

内容についてですが、まず驚いたのが記者が一人ではないということです。記事は8本も有り、ある意味これを読めば親鸞会の今が分かります。さらに私が思いつかない視点からの記事もありました。アニメ「なぜ生きる」のことについてここまで調べたかとびっくりしました。やはり出来の悪いアニメだったんだと思いました。

また、高森会長へのインタビュー記事も正直に書かれており、今の親鸞会をそのまま表していると思いました。ただ、記事の印象は良いのですが結局嘘をついていることが後の記事でばれてしまっていることに残念な思いしかありませんでした。

スローガンは良いのにやっていることがお粗末ということです。スローガン道理の理想を目指す団体になれば良いのに、本当にそうなることが出来る人たちがそろっているのにと思います。

個人的には、この記事が一番大事だなと思うのが、紅楳英顕師の記事と元会員のインタビュー記事です。この二つの記事は本当のことをそのまま語っていることです。

この記事に対して親鸞会は何一つ回答できていません。というかそういう記事はありません。結局、一般読者が読んでうける感想は親鸞会は残念な団体だなとしか思わないでしょう。私個人としても残念です。

過去において何度も組織を改めるチャンスがあったにもかかわらず、結局高森会長の嘘をそのまま信じ行動していることによって社会的な地位を下げてしまっていること、理想を掲げながら理想を実現するためと異なることばかり行っていることが読み取ることが出来ます。

この雑誌を読めば会員に大きな動揺が起き、組織の存在が危ぶまれる事になると思いますが、記事に書かれていることを少しでも改める気があるのか無いのか、そこを注視していきたいと思います。

現役の会員の方には是非読んでもらいたい雑誌ですので、知り合いの現会員に送ってあげようかとも思います。雑誌の最後の方に書かれていましたが親鸞会について読者の会も開かれる予定になっています。9月24日(土)に東京で行われます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

宗教問題15を手に入れました。

しばらくパソコンが使えないので記事の更新が出来ません。

とりあえず宗教問題15を手に入れて読みました。

感想はしばらく後に書きますが、一言、嘘はつけないなあと言うことでしょうか。

今回はこれだけです。

犬や猫に産まれなくてよかった。

私の母親は既に亡くなっていますが、子供の頃よく言われたことがあります。

「犬や猫に産まれてきたらそのへんで、ワンワンと吠えていたり、ニャーニャーと鳴いていたりしてこんな生活出来ないぞ。」と。

その時、私はそうだなと思う一方、でも犬や猫もあれはあれで幸せではないかとも思いました。

勉強もする必要も無く、ご飯もきちんと食べられるわけだし(うちの飼犬について)、ただ鎖につながれて自由じゃないのはつまらないかもしれないが、猫にいたっては自由に遊んでいるわけだからもっと幸せかもと。

しかし源信僧都は横川法語で以下のように述べられておられます。

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「横川法語」

それ、一切衆生三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

 

現代語訳
生きとし生けるもの全ての中において、三悪道(地獄の世界・餓鬼の世界・畜生の世界)を避けて、人間に生まれるということは、大変希なことなのです。
社会的な地位は低いと言っても、畜生より劣ると言うことではありません。
家が貧しいと言っても、もがき苦しむ餓鬼ではないのです。

心の中に思うことが実現しないと言っても、地獄の苦しみには比べようもありません。
生活の中での不満は、自分が愛おしいという証拠なのです。
多くの人が、浅ましい心根を持っているということは、本当の幸せ(命の尊さに気づく)を願っていると言う証拠なのです。
人間に生まれたことを喜ぶことが大切です。

信心は浅いかも知れませんが、阿弥陀仏の本願があまりにも深いので、タノメば必ず浄土に往生出来るのです。
念仏を称えるのは気の進まないことでしょうが、唱えれば、必ず来迎(臨終の時に、阿弥陀仏のお使いに迎えに来ていただける)に出会えるのです。
阿弥陀仏の功徳は莫大なのです。
ですから、阿弥陀仏の本願に出遭うことを、大切に喜ぶべきなのです。

また妄念は、本来私たち凡夫に備わったものです。私たちは妄念の外には別の心などないのです。
臨終の時までは、私は妄念の凡夫なのですと自覚して、一向に念仏すれば、来迎に出遭って、蓮の台(うてな)に乗る時にこそ、妄念をひるがえして、さとりの心を持つことなるのです。
妄念を持ったままで称えている念仏は、よごれに浸まない蓮のように、必ず浄土へ往生するのですから、絶対に疑ってはならないのです。
妄念があると言う事実を嫌わないで(妄念あるがままで)、むしろ、真実の信心が浅いのだと嘆いて、心をしっかりと保って、南無阿弥陀仏の名号を唱えることが大切です。

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確かに犬や猫に産まれてきたら御念仏は称えられなかったし、信心について知ることも無かった、生きる意味も分からず、ただ、生死を繰り返していただけだなと思います。

幸せが何かも分からず、空しいとも何も分からず生きていたのでしょう。

やはり人間に生まれ、仏法に出会えて良かったと思います。

ところで源信僧都のお言葉ですが、やはり何処にも後生の解決のために善をせよとはありません。

どこかの先生の教えとは全く異なることがはっきり分かります。

また、なぜ生きて行かなければならないのか、何のために生きるのかも答えが書かれています。そしてどうすれば良いのかも答えられています。

 

御念仏しながら、そのまま聞くだけだなと聞かせていただきます。

臨終来迎のことも書かれていますが、凡夫の私には関係のないことです。妄念妄想のまま称えさせていただくだけなのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

勉強会の感想

勉強会に多くの方がご参加いただきありがとうございました。

嶋田さんはいつもと同じように阿弥陀様のお心を力強く伝えて下さいました。

阿弥陀様のお慈悲、そして私の姿をお聖教を根拠に教えてくれました。

また、いろんな情報も頂き今回はびっくりすることが本当に沢山ありました。

一番驚いたのは飛雲さんのブログに書かれた講師のことです。

びっくり仰天、この世の無常をひしひしと思い知らされました。

真実は人を動かさずにおれない、怖ろしいです。

マインドコントロールを無理矢理はがされた講師は今どうされているのか。

翼をもがれた鳥のようにどこかでうずくまっているのではないか。

しょげないで欲しい、一番阿弥陀様に近いところにおられるのです。

どうか、どうか、あきらめず阿弥陀様の本願を聞いて欲しい。

自分のくだらないプライドなど捨てて退会者の話を一度まじめに聞いて欲しい。

嶋田さん始め多くの退会者が信心を頂いているのです。

本当かどうか自分の足で確かめて欲しい。

絶対に貴方達を捨てはしない。退会者は皆願っているのです。

だれも「ざまーみろ」なんて思っていません。

その証拠に、勉強会で退会された講師の話を聞いたとき皆「よかった、よかった。」と喜んでいたのです。

よかった、よかった、本当によかった。

今生でどうか信を開いてください。

阿弥陀様は今か今かと待っておられるのです。

どうか退会者の声に耳を傾けて欲しい。

 

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