とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

大音響流十方

大音響流十方のお言葉は大無量寿経の中にあり、浄土真宗では讃仏偈として讃えられています。

そこには、正覚大音響流十方(正覚の大音、響き十方に流る)と法蔵菩薩様が世自在王仏様を讃え、新たに誓うのです。

仏様の悟りのお声は、十方微塵の世界に響き渡っています。

そして衆生を救わんと無限の仏様方が活躍をされているのです。

 

南無阿弥陀仏」は大音で十方微塵世界に響き渡っています。

 

それは今も、今からもずっとです。

光明無量、寿命無量がその南無阿弥陀仏に込められています。

だから私が救われるのです。

私が手を出す必要が無いのです。

 

私の手垢の付かない南無阿弥陀仏は、私の本性をあぶり出し、その私をそのままお浄土に連れて行くぞの呼び声なのです。

どれだけ否定しようが阿弥陀様は私を救わずにおれないのです。

どうか救わせてくれと手を付いて私にお願いされるのです。

このボンクラの私に。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

十二因縁

お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をされたとき、この十二因縁を行い悟りを開いたと言われます。まず、順観を行い次に逆観を行って仏の悟りを開かれたと阿含経にあるそうです。

また、十二因縁を物質面から見た外縁起と心の面から見た内縁起があります。

以下に簡単に意味を書いていきます。

無明:明かりが無い、真っ暗で無智な状態。

行:行為。業。

識:識別する。分別。

名色:物質世界や精神世界。心の働き。

六処:六覚(目、耳、鼻、舌、身、意識)

触:感覚器官に基づき認識すること。

受:感情。感受作用。六処、触による感受。

愛:渇愛

取:執着。

有:存在、生存。

生:生きること。

老死:老いて死ぬこと。

これを人間に例えて簡単に言う場合には以下のような言い方があります。

無明の闇が何かと縁を結び結果を招き新たな世界に生まれる状態になる。

それがぼんやりとした形になり、胎児となって人間の形になる。

それから生まれて感覚器官が成長し、意識が芽生え、母親を欲しがり、心が成長し様々なものを吸収し、さらに成長し執着の心が強くなり、あらゆるものを取り込み、そこから苦しみを生み出し、老いて死んでいく。

簡単に言うとこんな感じです。参考に以下のサイトがありますので興味のある方は見てください。

http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/hodou/jyuniinnen.html

http://www.geocities.jp/kongou_koji/houwa/12engui.html

また、他にもいろいろなサイトでいろいろな言い方をされていますので自分に納得できる表現があると思います。

これを今、順観で言ってみたのですが、さて、逆観をやって果たして私は仏の悟りを得ることが出来るかといったら出来ません。

当たり前ですが言葉上の理解しかしていないのです。

ここが問題です。

言葉では理解できるが、仏の悟りは開けていない。

つまり、全く理解していないということです。

テストで丸はもらえても、その本質というか深い意味を全く分かっていない。

生きることと死ぬこと、この二つでさえ全く分かっていないのです。

簡単に言えば智慧が無い、無智だと言うことです。それは現在ただ今のことです。

なぜかと言えば、生きることと死ぬことは「空」の思想からすれば波のような変化でしか無いのに、そうは全く思えません。

おわかりでしょうか。

仏語を操るのは本当はとてつもないことなのにネットには私を含めさも分かったような解説が沢山あります。

きっとほとんど正しい解説なのでしょう。

でも、お釈迦様以外誰も仏の悟りを開いた人はいません。

南無阿弥陀仏のことば一つ、真に単純な言葉なのにこれを理解できると思いますか。

蓮如上人は、無上尽尽の功徳利益が広大だと言われています。

阿弥陀経には、仏の名を称えることは大功徳があると言われています。

本当にその功徳が分かっているのかと言えばさっぱりです。

分かるか、分からないか、そのことにこだわったら死ぬまで分かりません。

ここに仏語をそのまま受ける大きな問題があるかもしれません。

それは間違いなく私の問題なのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

断捨離

家族から教えてもらったのですが最近「断捨離」がはやっているようです。

「やましたひでこ」さんという方が「断捨離」という本を書かれたのが最初だそうです。

wikiには以下のように書かれています。

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断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。

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著者は「断捨離」によって身の回りをかたづけていく方法として利用しています。

身の回りの物を毎日一つずつ捨てて行くのです。どんなものでも良いので一つ捨てる。

やってみると結構楽しく最初は出来ます。

私も家にある不要な物を捨てて行きました。これから5年10年と経っても使わないだろうと思われる物はどんどん捨てて行きます。

段々と捨てる物がなくなってくるのですが、そこからがまた紙切れ一枚でも捨てて行くのです。まだまだ捨てる物が沢山あると思うのですが、最近は停滞気味です。

それでも毎日一つは頑張ろうかなと思っているのですが、いつまで続くか分かりませんがとりあえずやっています。

ただ、これを突き詰めていくと最終的に自分と向き合う、自分の人生や生き方も変わってくるような気がするのです。

そして、最後は自分の執着と向き合う怖ろしい教えだなと思います。

怖ろしいと書くと止めた方が良いと思われるかもしれませんが、そうではなくて仏教的な思想が根底にあり、我が身と向き合わされるように出来ているのではないかと思うと結構深い教えではないのかと思うのです。

「やましたひでこ」さんはそこまでは考えていないようなのですが、ヨーガの教えはすべて悟りに直結していますので、そこには仏教思想が入ってきても何も不思議は無いと思うのです。

蓮如上人は御文章で何度も信心決定のためには「雑行雑修自力の心を振り捨てて弥陀をタノメ」と言われていますが、断捨離と同じく捨てることはある程度自分で行うことは可能です。

雑行は基本的に捨てることが出来ますのでまずは雑行を捨てて行くのでしょう。雑修はちょっと難しいかもしれません。なにせ自力の心を交えずに御念仏を称えよと言われるのですからやはりこれは「弥陀をタノム」しかないのでしょう。

最後は「弥陀をタノメ」が一番難しいのですが、やはり「タノメ」と言われるのですから、こちらが出来る最後の行為かもしれません。

阿弥陀様のお任せするのは自分です。断捨離も捨てるのは自分、結局捨てることは自分でしなければならないのかもしれません。

そうでなくても死んで行くときは、すべてを捨てていくのですから。

自分で捨てるというと自力ではないかと言われるかもしれませんが、死んでいく時と同じで捨てることは自分ではどうしようも無いのですが、やはり最後お任せするのは自分ではないかと思うのです。お任せも自分をすべて阿弥陀様にまかせるわけですので、ある意味自分を捨てることと同じではないかと思うのです。

「死ぬ時節には死ぬがよく候」と良寛和上は言われています。

おまかせの心境ですね。

 

断捨離を少しでも実践してみるといろんな事が少しずつ分かってくるかもしれません。本当に大事なことは何なのか。そんなことに気づかされるかもしれません。

やられたことの無い方は一度試してみてください。

でも捨てるのって結構心が引っかかるんですけどね。

 

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空しいとは

今回はこの言葉にこだわってみたいと思います。

一般的に空しいとは以下のように使います。

むなし‐い

【空しい・虚しい】

《形容詞》

1 からっぽだ。内容がない。 「―弁舌」

2 むだだ。かいがない。役に立たない。 「―努力」

3 頼りにならず、はかない。 「人生、何事も―」

4 ―・くなる死ぬ。                                                   

しかし自分が空しいと思うときはどういう時かと考えてみると、どうもはかない人生とかよりも自分の欲望が満たされないとき、そしてそれがどうしようもないときに「あ~空しいな~」と思っていたように思います。    
本当に人生何も残らない、すべてが無駄ではないかという思いもあるでしょうが、どちらかというと自分の夢が破れたり自分の思うとおりに周りが動かなかったりする時、怒りを通り越した後に空しいと思うのはやはり欲望が満たされなかった事により出てくる感情ではないでしょうか。                          
いやそんなことは無い、自殺したくなる人は人生何一つ当てにならずはかなく空しいと思っているのではないかと言われるかもしれませんが、自殺の原因はそんなことより死んだ方が楽になると思ってされる人の方が多いように思うのです。 私感ですがニュースやブログなど読んでいるとそう思うのです。

結局自分の思いが通らない、満足できない、死んだ方が楽と間違った考えに陥っているような状態ではないのかと。
一方、そうじゃない方も沢山いるでしょう。

いずれにしても空しいというのは、この世の人生に満足できていないことやどうしようもない感情により自分を抑えることが出来ないものでしょう。
                                                                                                                                             
鸞聖人は御和讃で以下のように言われています。                                                             

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし                      

高僧和讃
                                                                                                
曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし                          

高僧和讃


親鸞聖人は仏教に出会えなければ、阿弥陀様の御本願に出会えなければすべては空しい人生となってしまうと言われています。仏教に出会い阿弥陀様とのご縁を結ぶことは本当に有り難いことであり、その事によって人生は大きく変わることは間違いありません。

逆に言えば阿弥陀様の御本願に遇わせていただいたなら空しいことは何もないということになります。
どんな人の人生も全く空しくないということになるのです。お金持ちであろうが貧乏人であろうが、いかなる人の人生も全く空しくないのです。                   
私はこの世に生きている人はすべて阿弥陀様の御本願に願われて人たちであり、その人生がどうであれすべては阿弥陀様の本願に遇わせていただくための人生なのですから空しいなどと言うことは無いと思うのです。      
だから自分の幸せを願っていろんな迷いを重ねても、いつかは仏様のご縁に遇わせていただけるのではないかと思います。そう思いたいのかもしれませんが、そう思います。

阿弥陀様は光明無量、寿命無量なのです。連続無窮の働きをされるわけです。でなければ私が今阿弥陀様とのご縁を結べるわけがありません。

だからこそ阿弥陀様とのご縁があった以上、大いに御念仏を称えさせていただかなければいけないと思うのです。 そこには空しいという言葉は存在しないと思うのです。

                                           
今回はちょっと言い切ってみます。どんな生活であろうがこの世は空しくないのです。一番空しいのは仏様、阿弥陀様とのご縁を結ばずに人生を終わることです。
                                                                   
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

実感

人間は命を頂かないと生きていけません。

命のあるものを体に取り込まないと生命力を維持できません。

タンパク質を生成し続けていかないと有機体を保つことが出来ません。

とにかく命と呼ばれる物を毎日毎日死ぬまで体に取り込んでいます。

赤ん坊を見ているとものすごい生命力を感じます。自分の環境を常に最高に保とうと泣いたりわめいたりあらゆる手段を駆使して生きています。

そこには感覚とかでなくとにかく生きているという圧倒的な実感をこちらに与えてくれます。あ~、生きている、間違いなく生きていると赤ん坊を見ていると思います。

私が生きていることの実感よりも赤ん坊を通して私が生きていると思わされることの方が大きいような気がします。

 

では、阿弥陀様の救いはどうでしょうか。

 

私に実感があるのか、無いのか。

 

実感というと生きている実感、愛されている実感、嫌われている実感、恐れている実感、怒っている実感、憎んでいる実感、欲している実感などなど感情と呼ばれるものに心はころころと動いていることが分かります。

この感情の動きに関しては十分に実感があります。

そういうものには非常に敏感に反応するのですが、南無阿弥陀仏とか阿弥陀様と言われると「はて????」と考え込んでしまいます。

ところがこの仏様、私にあらゆる手段を使って何かを感じさせようとしてきます。

私の場合は、「死ぬのが嫌だ、人生何のために生きているのか」、などの命題を私に与え、この世の中の迷いの状態を知らせてきます。それに答えるように、また、何かに引きずられるようにボンクラな頭はいろんな物に興味を示し、自分が楽になれるものを掴もうと動き回らせられます。

そこでまた自分が楽になる世界を探し、示され、求めていきます。

そうこうしているうちに何処にも私の中に私を楽にさせる種がないことに気づかされ、手放しで自分を阿弥陀と呼ばれる仏様にお任せさせられます。

そこには自分から何かした実感は全く有りません。

しかし何かされた実感と言うよりも納得するなどという感覚に近い反応に気づかされます。

それでももっとハッキリした実感があるのではないかといろんな事をやってみたり思ってみるのですが、どうも無駄であることにまた気づきます。これは実感というのかどうか分かりませんが、気づきます。

たとえば彼女になぜ振られたのか分からなかったことが、あるとき「あ~、あれでは振られて当然だ。」と気づかされたようなものです。

さて、実感とは真にいい加減で有りながら普段無意識に感じていることかもしれません。

愛しているとか愛されている実感も実はいい加減な思い込みなのかもしれません。

そうすると実感とは一体何なのか、よく分からない感じしか残らないと思います。

そんな心の動きに一喜一憂することなく自分が今すべきことを冷静に考え行動できたらいいのにな~と思いますが、無理ですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

気持ちは言わなければ伝わらないが・・・。

自分が思っていることを相手に理解してもらおうと思って言葉を尽くして伝えようとしてもなかなか伝わらないことが多いと思います。面と向かって相手の顔を見て話をしても伝わらないときは伝わりません。当然、メールやlineでは十分ではありません。

ですから仕事をしているときでも家庭でも、そのうち面倒くさくなってどうでもいいやと思うこともしばしばあります。

私だけかもしれませんが、そうして放っておくと後でしまったと思うこともあります。人間と動物の違いは、言葉を操り自分の今の思いとか感じていることを伝えることが出来るかどうかと言うことと、自分の存在意義について考えることがあることではないかと思います。

お釈迦様は人々を救おうと立ち上がり法を説かれました。そして、お弟子の中から悟る者が沢山出てきました。原始仏教では声聞、縁覚と言われ、菩薩ともほぼ同等の扱いだそうです。それが大乗仏教が言われるようになってから、声聞、縁覚と菩薩は扱いが変わってきたそうです。

釈尊の法を聞いて悟る、あるいは自ら十二因縁を体得して悟る人を声聞、縁覚と言われるようになりました。これらの方はお釈迦様の教えを沢山聞かれているので、教えについて語ることは出来るのですが、そのお心というか気持ちを伝えることが出来ないと言われています。

声聞、縁覚とは、別名二乗と言われ自力で阿羅漢果の悟りを得た方達です。自分の力で煩悩を断絶し、悟りを得られた方ですが、仏様ではありませんので、慈悲が無いと言われています。慈悲が無いと言うことは、我利我利亡者かというとそうではなくで、まず、我が身の煩悩を断絶することを優先した結果、大慈悲心を起こすことが無いと言われています。

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大智度論』では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。

大乗仏教では、「二乗の者は地獄にさえ堕ちない」と言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないという意味で、二乗は仏になれないと非難されているのである。・・・・wikiより

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大乗仏教の教えからすれば、自分だけでなく他の人の幸せも念じることが慈悲の心であると言われます。自分にあるか、無いかは別として慈悲の心は私にかかっているのでしょう。仏様の気持ちは私に直接言葉で伝わってきていないと思っていましたが、実はいろいろな形で私を呼びかけていることを教えてくださいます。

私の周りに仏様のお力は目に見えない形で働いておられます。それは人それぞれに感じられるでしょう。感じられない人は、こう思ってください。命、今、生きていることに阿弥陀様のお力がかかっている、だから、生きていることは阿弥陀様のお力が働いているからだと。

アホかと思われるかもしれませんが、そのことに真剣に向き合っているのが比叡山などで聖道門の修行をされている方々ではないかと思います。

比叡山などで自力の修行をされている方は声聞、縁覚の方かもしれません。

浄土真宗は、大乗仏教です。

自分だけの思いから信心決定を目指していると思っていますが、その思いが他の人を導こうと阿弥陀様のお力によって起こさせられいるかもしれません。

そういう意味で親鸞会での顕正活動(中身は別として)は尊いものだったのかもしれないと思うこともあります。

 

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宗教問題15を読んで

パソコンが使えるようになりましたので再開します。

 

そもそも「宗教問題」などと言う本があることさえ知らなかったのが、そのことを「さよなら親鸞会」や「安心問答」などで知って是非読んで見たいと思いました。

なかなか手に入らないと思ったけど、アマゾンで追加があるかないか分からないうちからとりあえず申し込んでおきました。

まず、手に取ってみて思ったのが週刊金曜日みたいな本だなと思いました。知る人ぞ知る週刊金曜日ですが、知らないということは怖ろしいというか、親鸞会の人たち、高森会長はインタビューを受けるにあたって宗教問題を読んだことがあったのだろうかと思いました。

高森会長だけでなく幹部はその事を知らなかったのか、ちょっとガードが低いな思います。本の題名からして危ないと思わなかったのかと思わずにおれません。

端的に感想を言うと、自信過剰というか問題意識の無い団体だと今なら本当に思います。

中にいると分からないかもしれませんが、マインドコントロールの一言で片付けるには問題が大きすぎですね。

内容についてですが、まず驚いたのが記者が一人ではないということです。記事は8本も有り、ある意味これを読めば親鸞会の今が分かります。さらに私が思いつかない視点からの記事もありました。アニメ「なぜ生きる」のことについてここまで調べたかとびっくりしました。やはり出来の悪いアニメだったんだと思いました。

また、高森会長へのインタビュー記事も正直に書かれており、今の親鸞会をそのまま表していると思いました。ただ、記事の印象は良いのですが結局嘘をついていることが後の記事でばれてしまっていることに残念な思いしかありませんでした。

スローガンは良いのにやっていることがお粗末ということです。スローガン道理の理想を目指す団体になれば良いのに、本当にそうなることが出来る人たちがそろっているのにと思います。

個人的には、この記事が一番大事だなと思うのが、紅楳英顕師の記事と元会員のインタビュー記事です。この二つの記事は本当のことをそのまま語っていることです。

この記事に対して親鸞会は何一つ回答できていません。というかそういう記事はありません。結局、一般読者が読んでうける感想は親鸞会は残念な団体だなとしか思わないでしょう。私個人としても残念です。

過去において何度も組織を改めるチャンスがあったにもかかわらず、結局高森会長の嘘をそのまま信じ行動していることによって社会的な地位を下げてしまっていること、理想を掲げながら理想を実現するためと異なることばかり行っていることが読み取ることが出来ます。

この雑誌を読めば会員に大きな動揺が起き、組織の存在が危ぶまれる事になると思いますが、記事に書かれていることを少しでも改める気があるのか無いのか、そこを注視していきたいと思います。

現役の会員の方には是非読んでもらいたい雑誌ですので、知り合いの現会員に送ってあげようかとも思います。雑誌の最後の方に書かれていましたが親鸞会について読者の会も開かれる予定になっています。9月24日(土)に東京で行われます。

 

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