とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

スターウォーズ ローグ・ワン

今回も公開の翌日に見てきました。

スターウォーズのローグ・ワンです。

いやー、やはり楽しかったですが、ちょっともの悲しい感じがしました。

ネタバレになるので書きませんが興味のあるかたは是非ご覧下さい。

スターウォーズスペースオペラと言われる人もいるくらい壮大な物語ですので、なかなかはまるひとは多いのではないかと思います。

ところで、今回の出演者の中で目の不自由な戦士が出てきます。

その戦士が戦いの中で「フォース ビー ウィズ アス(Force be with us)」=「フォースと共に」と何度も何度も称えながら出てきます。私には 「force be with you」と聞こえていましたが・・・。

そのたびに「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」と称えているように聞こえていたのは私だけかもしれませんが一人でありがたがっていました。

フォースは希望である。

なんか、良いじゃないですか。

南無阿弥陀仏は希望である。

一人で悦に入っています。

しかし、こんなしょうもない記事を書けるのも自分が今死ぬなどと思っていないからで、無常観のかけらも無い本当に煩悩具足の凡夫の姿をさらしているなと内心思うのです。

映画の中のヒーロー達は自分の命をかけて戦っているのは何が原動力なのか。

映画を見た後、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗で戦った先達達の思いはいかほどあったかと思いました。一向一揆にはいろんな面がありますがとりあえず南無阿弥陀仏の為に戦ったわけですので大変な事だと思います。

命がけで仏教を求めたのか、命がけで御法を守ったのか、いずれにしても私に無い心を教えてくださいました。

先人のおかげとはいえ、搾取しかしない自分によくぞ南無阿弥陀仏が届いたものよ。

また、年末に際してこの一年を振り返り、一年間多くの命を頂きました。

ありがとうございました。

明日はどうなるか分かりませんが、今を一生懸命御念仏と共に生きるべきだなと思った次第です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

Rogue One(ならず者の一人)、 Force(作中における概念で、銀河の万物を包んで満たしており、ジェダイの騎士シスの暗黒卿が用いる超常的な能力の源となっている。)

南無阿弥陀仏を考える

  • 「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
  • 阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」の「はかることのできない(無量)」というアミタ(amita-)のみを音写したもの。

すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

・・・wikiより

南無阿弥陀仏の意味としては上記の通りです。

ところで無量の光明と無量の寿命を阿弥陀と名付けたわけですので、阿弥陀仏の本質は、無量の光明であり無量の寿命と言うことになります。

ここを少し掘り下げてみたいと思います。

 

まず、無量とは永遠と言ってもいいでしょう。始まりの無い過去から終わりの無い未来に向かって果てしなく続くということです。

 無量の寿命とは死なないということです。死なないというのはずっと有り続けることであり、無くならないと言うことです。命がずっと有り続け死ぬと言うことが無い。

無量の光明とは光に限りがないということです。光のあたらないところは無い。すべてが光に包まれているということです。

この二つをどう考えたらいいのか。

 

寿命無量とは慈悲の事と言われます。私に対して命をつなぎ続ける働きです。その働きにより私は生死を繰り返しながらも今、人間界に生まれさせていただき、無量ということを考えさせられている、命を私に与え続ける働きは仏様の無量の命から頂いている、それが仏の慈悲の心ではないかと思います。また、慈悲には抜苦与楽の意味もあります。苦しんでいる私を何とか楽にさせてやりたいと思う心です。

光明無量とは智慧の事と言われます。常に私に知らせようと光を当て続ているのです。何を知らせようとしているかというと、私は実は迷いの塊であり、迷いのまっただ中の人間界という世界にいる、そのことを気づかせるための智慧が光明だと思います。

阿弥陀仏の十二光のなかに智慧光がありますので、衆生の迷いを打ち破る働きが阿弥陀仏の智慧光です。智慧光は私の迷いを打ち破って下さいます。

もう一つ考えてみます。

 

そもそも真如の世界を知ったお釈迦様の教えを聞いた弟子達は、悟りを開いた後「すべてを悟った、もうこの世界に戻ってくることは無い」と言われています。中村元先生の本にはこの言葉が結構出てきます。

そこで知らされることは、阿弥陀様を通して知らされることと同じなのか分かりませんが、仏様が言われるようにこの世と異なる世界があるとします。

あるとしますではなく、仏語に虚妄無しですので間違いなくあるのですが、その世界は真如と呼ばれる世界であり、そちらからこちらを見通す世界だとすると、こちらの世界に向かってあらゆる手立ての働きがあるとします。

それが永遠の命であり光であるとすれば、そして、その世界を聖者ではなく、知恵の無い凡夫の私に知らせるメッセージ、誦文として南無阿弥陀仏という言葉にすべての意味を込められたとしたらどうでしょう。

南無阿弥陀仏が分かろうが分かるまいが私に何かを知らせるメッセージだったんだと気がつきませんか。南無阿弥陀仏の言われを善知識と呼ばれる先生から聞き、その誦文の意味を考えてみたとき何か真理に近づいたような気がしませんか。

永遠の命と光、真如の世界からの呼びかけの言葉が南無阿弥陀仏なのです。たとえばラジオの電波のようにずーっと私に届いているのです。今、呼びかけられているのですから答えるしかないですね、南無阿弥陀仏と。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

これで良しと思いたい

分かった、そうだったのか、知らなかった、だだ今の救いだった、この身このまま落ちるままだった、地獄しか行き場が無い私がお目当てだったとは、南無阿弥陀仏が私にいる、今呼ばれている、ああ有り難い、・・・・。

ご信心を頂いたと思われる方には、それぞれの味わいがあると思います。

ですがこれで良いのかな、本当に大丈夫だろうかと疑心が起こってきます。

さあ、大変。

有り難い、南無阿弥陀仏一つで何もいらないと思うけど、本当に大丈夫だろうか。

蓮如上人も言われています。

 

御一代記聞書に

心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たなり。

と書かれています。

 

個人的には阿弥陀様のお慈悲に触れたなら、それ以上どうのこうのと言うことはもうなくなりますが、これで良しとは絶対に思えません。

なぜなら廻心と言うことは一度だけですが、信仰は深まるからです。

聞けば聞くほど深まっていくのが信仰ですが、廻心はただ一度です。

 

歎異抄には廻心については以下のようにあります。

一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。

 

「本の心をひきかえて、本願をたのみまいらする」これが廻心です。

元の自力に頼る気持ちを変えて、阿弥陀仏様の本願のほうをあてちからにするということです。

繰り返しになりますが、廻心がされてそれでO.Kかというとそこからが本当の聞法の始まりだと思います。

 

赤尾の道宗が21箇条の第1条に書かれています。

第1条 後生の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事。

油断大敵ですね。

これで良しとする心は煩悩の心かまたは自力の執心です。自分が良しになることなどありません。

命のある限り聞法はすべきですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

東京ラブストーリー

最近、東京ラブストーリーが二十五周年でなんとなく静かなブームになっているようです。

リアルタイムで見た人も多いでしょうが、私は見ていません。

とりあえずニュースになったので youtube でダイジェストを見て、だいたいのストーリーは理解しました。

そこで番組のテーマソング「ラブ・ストーリーは突然に」をあらためて聞いてみてびっくりしました。

当時はなんとなく曲は知っていたのですが、なんとも甘ったるいしょうもない曲だなと思っていました。だいたいオフコースとか小田和正だとかほとんど聞いたことはありませんでした。

ところがあらためて聞いてみてなんというか本当に有り難い曲だなと思いました。

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あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら

僕らはいつまでも見知らぬ人のまま

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確かに恋愛の歌なのですが、これをそのまま阿弥陀様に置き換えてみたら、偶然は不思議なご縁に変わり、必然の出会いとなっていく。

阿弥陀様に出会えなかったら、私はどうなっていただろう。

どこかでいじけてふてくされていつも不平不満を言いながら、すべて人のせいにして生きているのではないか。

それともどこかでデタラメをして牢獄にいるかもしれない。

そして、どうしてこんな事になってしまったのかと後悔をしているのではないだろうか。

阿弥陀様とのご縁を頂いた人、その人とのご縁が無ければ阿弥陀様には遇えなかった。

阿弥陀様との出会いを演出してくれたその人がいなければ今の自分は無いのです。

ひとそれぞれ阿弥陀様と出会われいると思います。

それこそ千差万別億差兆別だと思いますが、それだけのお手回しを阿弥陀様がなされているのです。

「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」のお言葉が身にしみます。

 

ところでドラマでの鈴木保奈美さんはかわいいですね。結構女性の方はリカ(鈴木保奈美)の方の人気が高かったとか。当時、さとみ役のかたに脅迫状も届いたとのこと。どうでも良いことですが男の私からすると「ふ~ん」という感じですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

大音響流十方

大音響流十方のお言葉は大無量寿経の中にあり、浄土真宗では讃仏偈として讃えられています。

そこには、正覚大音響流十方(正覚の大音、響き十方に流る)と法蔵菩薩様が世自在王仏様を讃え、新たに誓うのです。

仏様の悟りのお声は、十方微塵の世界に響き渡っています。

そして衆生を救わんと無限の仏様方が活躍をされているのです。

 

南無阿弥陀仏」は大音で十方微塵世界に響き渡っています。

 

それは今も、今からもずっとです。

光明無量、寿命無量がその南無阿弥陀仏に込められています。

だから私が救われるのです。

私が手を出す必要が無いのです。

 

私の手垢の付かない南無阿弥陀仏は、私の本性をあぶり出し、その私をそのままお浄土に連れて行くぞの呼び声なのです。

どれだけ否定しようが阿弥陀様は私を救わずにおれないのです。

どうか救わせてくれと手を付いて私にお願いされるのです。

このボンクラの私に。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

十二因縁

お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をされたとき、この十二因縁を行い悟りを開いたと言われます。まず、順観を行い次に逆観を行って仏の悟りを開かれたと阿含経にあるそうです。

また、十二因縁を物質面から見た外縁起と心の面から見た内縁起があります。

以下に簡単に意味を書いていきます。

無明:明かりが無い、真っ暗で無智な状態。

行:行為。業。

識:識別する。分別。

名色:物質世界や精神世界。心の働き。

六処:六覚(目、耳、鼻、舌、身、意識)

触:感覚器官に基づき認識すること。

受:感情。感受作用。六処、触による感受。

愛:渇愛

取:執着。

有:存在、生存。

生:生きること。

老死:老いて死ぬこと。

これを人間に例えて簡単に言う場合には以下のような言い方があります。

無明の闇が何かと縁を結び結果を招き新たな世界に生まれる状態になる。

それがぼんやりとした形になり、胎児となって人間の形になる。

それから生まれて感覚器官が成長し、意識が芽生え、母親を欲しがり、心が成長し様々なものを吸収し、さらに成長し執着の心が強くなり、あらゆるものを取り込み、そこから苦しみを生み出し、老いて死んでいく。

簡単に言うとこんな感じです。参考に以下のサイトがありますので興味のある方は見てください。

http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/hodou/jyuniinnen.html

http://www.geocities.jp/kongou_koji/houwa/12engui.html

また、他にもいろいろなサイトでいろいろな言い方をされていますので自分に納得できる表現があると思います。

これを今、順観で言ってみたのですが、さて、逆観をやって果たして私は仏の悟りを得ることが出来るかといったら出来ません。

当たり前ですが言葉上の理解しかしていないのです。

ここが問題です。

言葉では理解できるが、仏の悟りは開けていない。

つまり、全く理解していないということです。

テストで丸はもらえても、その本質というか深い意味を全く分かっていない。

生きることと死ぬこと、この二つでさえ全く分かっていないのです。

簡単に言えば智慧が無い、無智だと言うことです。それは現在ただ今のことです。

なぜかと言えば、生きることと死ぬことは「空」の思想からすれば波のような変化でしか無いのに、そうは全く思えません。

おわかりでしょうか。

仏語を操るのは本当はとてつもないことなのにネットには私を含めさも分かったような解説が沢山あります。

きっとほとんど正しい解説なのでしょう。

でも、お釈迦様以外誰も仏の悟りを開いた人はいません。

南無阿弥陀仏のことば一つ、真に単純な言葉なのにこれを理解できると思いますか。

蓮如上人は、無上尽尽の功徳利益が広大だと言われています。

阿弥陀経には、仏の名を称えることは大功徳があると言われています。

本当にその功徳が分かっているのかと言えばさっぱりです。

分かるか、分からないか、そのことにこだわったら死ぬまで分かりません。

ここに仏語をそのまま受ける大きな問題があるかもしれません。

それは間違いなく私の問題なのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

断捨離

家族から教えてもらったのですが最近「断捨離」がはやっているようです。

「やましたひでこ」さんという方が「断捨離」という本を書かれたのが最初だそうです。

wikiには以下のように書かれています。

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断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。

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著者は「断捨離」によって身の回りをかたづけていく方法として利用しています。

身の回りの物を毎日一つずつ捨てて行くのです。どんなものでも良いので一つ捨てる。

やってみると結構楽しく最初は出来ます。

私も家にある不要な物を捨てて行きました。これから5年10年と経っても使わないだろうと思われる物はどんどん捨てて行きます。

段々と捨てる物がなくなってくるのですが、そこからがまた紙切れ一枚でも捨てて行くのです。まだまだ捨てる物が沢山あると思うのですが、最近は停滞気味です。

それでも毎日一つは頑張ろうかなと思っているのですが、いつまで続くか分かりませんがとりあえずやっています。

ただ、これを突き詰めていくと最終的に自分と向き合う、自分の人生や生き方も変わってくるような気がするのです。

そして、最後は自分の執着と向き合う怖ろしい教えだなと思います。

怖ろしいと書くと止めた方が良いと思われるかもしれませんが、そうではなくて仏教的な思想が根底にあり、我が身と向き合わされるように出来ているのではないかと思うと結構深い教えではないのかと思うのです。

「やましたひでこ」さんはそこまでは考えていないようなのですが、ヨーガの教えはすべて悟りに直結していますので、そこには仏教思想が入ってきても何も不思議は無いと思うのです。

蓮如上人は御文章で何度も信心決定のためには「雑行雑修自力の心を振り捨てて弥陀をタノメ」と言われていますが、断捨離と同じく捨てることはある程度自分で行うことは可能です。

雑行は基本的に捨てることが出来ますのでまずは雑行を捨てて行くのでしょう。雑修はちょっと難しいかもしれません。なにせ自力の心を交えずに御念仏を称えよと言われるのですからやはりこれは「弥陀をタノム」しかないのでしょう。

最後は「弥陀をタノメ」が一番難しいのですが、やはり「タノメ」と言われるのですから、こちらが出来る最後の行為かもしれません。

阿弥陀様のお任せするのは自分です。断捨離も捨てるのは自分、結局捨てることは自分でしなければならないのかもしれません。

そうでなくても死んで行くときは、すべてを捨てていくのですから。

自分で捨てるというと自力ではないかと言われるかもしれませんが、死んでいく時と同じで捨てることは自分ではどうしようも無いのですが、やはり最後お任せするのは自分ではないかと思うのです。お任せも自分をすべて阿弥陀様にまかせるわけですので、ある意味自分を捨てることと同じではないかと思うのです。

「死ぬ時節には死ぬがよく候」と良寛和上は言われています。

おまかせの心境ですね。

 

断捨離を少しでも実践してみるといろんな事が少しずつ分かってくるかもしれません。本当に大事なことは何なのか。そんなことに気づかされるかもしれません。

やられたことの無い方は一度試してみてください。

でも捨てるのって結構心が引っかかるんですけどね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏