とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

ご信心は凡夫が頂くのです。

ご信心を頂いたと思っても何も私自身は変わりません。

つまり、元のままで、凡夫なのです。

いただいたと思う人の中には、すべて分かったと勘違いする人もいます。

あるいは自分が悟りを開いたのではないかとも。

でも、お聖経にあるとおり三悪道に落ちる者がお目当ての本願なのです。

死ぬが死ぬまで何一つ変わらない、全くの凡夫なのです。

ですから、親鸞聖人も以下のように言われています。

 

 「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。」( 一念多念文意)

 

たとえご信心を頂いても人それぞれの脳みそのレベルでご法話を頂きますので、その受け止め方は千差万別億差兆別です。

中には間違った解釈もあると思います。それに歳を経れば頭もぼけてきます。

記憶力も低下します。間違いも起こします。

ご信心を頂いた人かもしれないと思っても勉強されていない人は何も変わりませんし、ご信心が無くても勉強されている人は素晴らしいのです。

 

『一枚起請文』に、

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚禿の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべしと示されています。

また、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と末燈鈔に法然上人のお言葉としてあります。

心しなければなりませんね。ご信心を頂いていると勝手に思っている「とくよしみね」でした。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

病気になると死ぬんじゃないかと思う。

体調不良になったり健康診断でひっかかたりして、悪い病気にかかったんじゃないのかと不安に思うことがあります。

いくら御念仏を称えても心は安らかにならないし、なんともなりません。

結局なるようにしかならないと腹をくくるのですが、今生の世界は名残惜しく少しでも長くいたいと思っています。

本当に困ったもので、これで大丈夫ですかと言われてもなんとも言えない自分がいるのです。

歎異抄第9条にはそのことがありありと説かれています。

これを読ませていただくとなんとも有り難い気持ちにさせていただきます。

自分にあるのは燃えさかる煩悩のみ。

どこかの妙好人が言われていましたが、煩悩があって良かったと。

煩悩具足の凡夫だから喜べるのですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

歎異抄第9条 現代語訳

念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。

 この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。

喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

 また、浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです。

果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けれきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。

どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。

はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。

このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。

 おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われることでしょう。

 このように聖人は仰せになりました。

 

原文

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

信心決定はハッキリするのか?!

阿弥陀仏からのご信心を頂くとハッキリするのかしないのか、よくネットの中でも議論になっています。
特に、高森顕徹会長は、信心決定したら火に触ったよりもハッキリするとか、驚天動地の世界があるとか、大安心大満足の世界に出るとか、「現生十種の益」を生きている今受けるとか、とんでもない言葉が沢山並んでいます。
生きて良し、死んでよし、死をも恐れぬ心境になるなどとも言われます。
ところがご本人は以下のように体験記を発表しています。

あちらこちらのネットに流れていますので引用します。

・・・・・・・・・・・
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、M君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏

今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

・・・・・・・・・・・・

○○会発行の機関誌です。勝手に引用していますのでご容赦を。
・・・・・・・・・・・・

では、本当はどうなのか。

親鸞聖人は、教行信証に「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)などとおっしゃっておられます。

「疑いが無い、これを信楽の信心と言う」と。

 本願あるいは仏説に対する疑いがなくなった、または、そう理解したという意味に取れます。また、蓮如上人は以下のように言われています。

かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章5帖目12通)

「ご信心は私が起こすものでなく阿弥陀様からだった」と。

 

阿弥陀様に今あえた。

仏様の言われる通りだった、そのままだった。
地獄行きの私を救う本願だった。
自力無功だった。
信じる心も念じる心も求める心も無かった。
全分他力だった。
南無阿弥陀仏が本当だった。
今私を呼んでいる。
そういうことだったのか。

・・・・などなど御信心が知らされた場合のいろんな言い方があります。

 

これらは夫々の受け止め方です。
その人その人それぞれの気づき方や目覚め方、慶び方があります。大事なのは廃立がなされたかどうかです。
では、自他力廃立または自力無功となったらどうなるのか。

後生の解決について私の力は一切間に合わないことが知らされます。
個人的には、なんとか後生の一大事解決したいだとか、わからない、どうしたら救われるのかという感情が全くなくなります。

何故ならご本願はそのまま救う教えですので人によっては即御本願を受け取る人もいます。いずれにしても救われれば必ず分かります。

これを無疑心と言います。

 

では、いつ成るのかですが、それについては以下のお言葉があります。

極促とはいへども一瞬一弾指刹那の時にはあらず、唯事究竟の速なるを時尅の極促とのたまふなり。又、実時とは時尅の極促とは実際に信心の治定するのは時尅分秒を以ていふべからざる程の短促中の至極なりという。
(鈴木法琛師(すずきほうちん)明治時代の本願寺勧学)

カミソリで瞬間に切られても、その瞬間は痛いとも思いません。あるいは紙に触れて切れることもあります。
あとで切れているのが分かり痛いと思います。
 「時尅の極促」は切られたことさえ分からない早さと言うことです。
ということは、切られてもしばらく経たないと分からない人もいるということです。
しかし、切られたと言うことは分かります。
それが自力が廃ったということで
花の開き方も蓮の花のようにぱっと咲く花と、菊の花のように段々咲く花がありますが、ともに咲いたという時があります。
それが信楽になったということです。

 

何がわかるのか。
簡単に言えば、仏様の教えが本当で私は何も分からないと言うことだけです。
これも二種深信なのです。

 

阿弥陀様の叫び、南無阿弥陀仏を聞いて下さい。そのまま聞いて下さい。
阿弥陀様は必ず助けると言われているのです。
現在、ただ今、落ちるそのままのお助けです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

鳩摩羅什(クマラジュー)様

鳩摩羅什(クマラジュー)様は西暦三四〇年代の方で、亀茲国(きじこく、中国 新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)県)の生まれです。

キジル石窟の広場に最近建てられた銅像がありますが、頭脳明晰はもちろん大変な男前だったようで後秦の姚興(ヨウコウ)皇帝に自分の国に留め置くために無理矢理、女犯(ニョボン)させられ還俗されたと言われています。

 

鳩摩羅什様は阿弥陀経などの経典を翻訳され、その後、西遊記で有名な玄奘様が現れますが、鳩摩羅什様を最初のいわゆる三蔵法師と言われます。

三蔵法師とは、仏教の経蔵(経典の内容)・律蔵(戒律などの戒め)・論蔵(経典につて解釈された論)の三蔵に精通した僧侶(法師)のことを言われます。

 

私は以前、このキジル石窟に行ったことがあります。

そこで鳩摩羅什様とお目にかかることが出来ました。中国の中でも本当に北の方で砂漠を越えたとんでもないところでした。

昔は沢山の日本人が訪れていたようで、敦煌のホテルの壁には竹下元首相が訪れた写真がありました。しかし最近は、日中関係が悪化したりウイグル族への圧政のせいで少なくなっていると現地の通訳が言っていました。

私はシルクロードのオアシスとして栄えた敦煌莫高窟に行きたくて行ったのですが、そこを中心としたツアーの中にキジル石窟がありました。

中の仏像や壁画は素晴らしいものでしたが、残念なことに二〇世紀初頭のドイツの探検家によってほとんどの仏像や壁画(はがして)を持ち去られたとのことで無残な石窟が沢山ありました。

中国で仏教が衰退しイスラム教などに変わったり、共産主義が跋扈したことにより仏教美術などは残念な結果になっていますが、最近中国は外貨獲得のためこれらの遺跡を発掘し整備を進めているようです。

 

旅行ガイドはこれくらいにして、鳩摩羅什様の人生を教えて頂いたとき、とんでもないなと思いました。

中国からインドに渡り原始仏典を集め、中国に持ち帰りそれを翻訳する一生なのです。だいたい、中国からインドに行くのにどうやって行ったのかその行程を調べたらとんでもない冒険なのですから。インドに行く途中でお供の者がいなくなったり、崖から落ちたりで尋常な旅ではありません。

本当によくやられたものだと感心せずにおれません。また、その後翻訳が終わるとすぐに命が終わられるのですから、何のために生まれられたのかと言えば仏教を中国に伝えんが為に生まれられた一生だったのです。そして、そのおかげで今私達が仏教浄土真宗に出会うことが出来ているのです。

これ以上のお陰様はありません。もし、地球上にお釈迦様がお生まれになられなかったら、その後の高僧達がお生まれになられなかったら、私が救われる教えは絶対にありません。

何のために生まれ、何のために生きるのかを知らずに、ただ、生きて死ぬ犬や猫と同じなのです。

お陰様(ご縁)、これは本当に有り難い事で、ようこそようこそ私に届いてくださいました。

南無阿弥陀仏阿弥陀経に沢山書かれています。顕彰隠密、阿弥陀経にも一八願のお心がしっかりと流れていることを親鸞聖人から教えて頂いています。

鳩摩羅什様のお陰で私が今、阿弥陀仏様と出会うことが出来るのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

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分からないことは分からないと受け止める

宇宙の果てはあるのかと言われて、分かろうとしても分からないのですが、そのことを世界中の人が研究しています。

物質のもと(根源)を探ろうとしてもいつまで経っても分かりませんが、これも世界中の人が研究しています。

当然、その研究によって世の中の生活に役立つことがあるかもしれませんので大いに研究はすべきことだと思いますが、間違いなく果てしない世界が広がっているだけだと思います。

この世の中のことで私が自分の力で分かることなどまずありえません。すべて、教えてもらって記憶しているだけです。

そこそこの高校や大学を卒業すると自分は世の中のすべてを分かったような気になり、他者を馬鹿にし出す人が結構多く見られます。新聞や雑誌などのメディアにその傾向の人が結構います。

いわゆる評論家と呼ばれる人たちです。ところがこれらの人たちが世の中では幅をきかせているように思います。確かに普通の人より多くの事を知っており、また、相当な記憶力も備え、通常の人より遙かに優れた情報処理能力を駆使してあらゆる言葉の意味を理解し、人々に解釈してみせる人は本当に尊敬されるべき人でしょう。

しかし、その人が宇宙の果てや物質の根源などを間違いなく解明することはできません。命の仕組みを解明することも出来ません。自分がいつどうなるかもわかりません。

それでも、分からないことを分からないと自分で言う人は少なく思います。

テレビを見ても評論家やコメンテーターと呼ばれる人たちはこちらが正しいと自分の道を示します。それが本当に正しいのかどうか全く分からないのにもかかわらずです。何の根拠があるのか不思議に思うことがあります。

自分も自分の考えはいつもほぼ正しいという固定観念にとらわれてものごとを見てきました。特にS会時代はそれが顕著でした。また、S会を退会した今でもそういう感覚で見ていることはあるのかもしれません。分かっていなくても分かったふりをする、あるいはそれが正しいと思い込んで自分が正しいと思うことを主張するなど。

反論されるとそれに対していろんな頭の中にしか無い一部の情報や感情をもって反論します。

分からないことを分からないと正直に言うことは、まずありません。

一方で、聞いた言葉を立体的な思考を持って考える事は得意ではありません。

話を聞けば大抵のことは理解できると思っているのですが、ところが本当に理解しているかというと一面しか見ていないことがよくあります。この頭というのは多面的、立体的な思考は苦手なのです。

時間が経ってゆっくり考えてみると理解が間違っていたり、全く違った面があったりということがあります。

結局分かったつもりでいても分かっていないのです。当然、なぜ分かっていないのか、なぜ理解できていないのかその理由は探っていく必要があります。また、間違った解釈をしている場合も沢山ありますので、他の人に尋ねることも大事なことだと思います。

それでも、分からないことを分からないことと受け止めること、これは出来そうでなかなか出来ないことではないかと思います。

特に仏教の話、お釈迦様の言葉にはそういうことが多くあると思います。

阿弥陀様も同じように自分の頭で理解し体得出来るものではなく、南無阿弥陀仏をご縁として感じることしか出来ない存在なのかもしれません。

蓮如上人が御文章第5条に言われる通りです。

南無阿弥陀仏は、「無上甚深の功徳利益の広大なること、その極まりなきもの」なのです。また、現世利益和讃には沢山のお言葉がありますが、以下のお言葉を例にあげます。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまうなり」
十方諸仏が守ってくださるのですが私には本当に分かりません。   

すべてを理解し体得する力、分かる力が自分にはありません。私は無力なのです。

阿弥陀様は私にそう教えてくださっています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

スターウォーズ ローグ・ワン

今回も公開の翌日に見てきました。

スターウォーズのローグ・ワンです。

いやー、やはり楽しかったですが、ちょっともの悲しい感じがしました。

ネタバレになるので書きませんが興味のあるかたは是非ご覧下さい。

スターウォーズスペースオペラと言われる人もいるくらい壮大な物語ですので、なかなかはまるひとは多いのではないかと思います。

ところで、今回の出演者の中で目の不自由な戦士が出てきます。

その戦士が戦いの中で「フォース ビー ウィズ アス(Force be with us)」=「フォースと共に」と何度も何度も称えながら出てきます。私には 「force be with you」と聞こえていましたが・・・。

そのたびに「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」と称えているように聞こえていたのは私だけかもしれませんが一人でありがたがっていました。

フォースは希望である。

なんか、良いじゃないですか。

南無阿弥陀仏は希望である。

一人で悦に入っています。

しかし、こんなしょうもない記事を書けるのも自分が今死ぬなどと思っていないからで、無常観のかけらも無い本当に煩悩具足の凡夫の姿をさらしているなと内心思うのです。

映画の中のヒーロー達は自分の命をかけて戦っているのは何が原動力なのか。

映画を見た後、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗で戦った先達達の思いはいかほどあったかと思いました。一向一揆にはいろんな面がありますがとりあえず南無阿弥陀仏の為に戦ったわけですので大変な事だと思います。

命がけで仏教を求めたのか、命がけで御法を守ったのか、いずれにしても私に無い心を教えてくださいました。

先人のおかげとはいえ、搾取しかしない自分によくぞ南無阿弥陀仏が届いたものよ。

また、年末に際してこの一年を振り返り、一年間多くの命を頂きました。

ありがとうございました。

明日はどうなるか分かりませんが、今を一生懸命御念仏と共に生きるべきだなと思った次第です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

Rogue One(ならず者の一人)、 Force(作中における概念で、銀河の万物を包んで満たしており、ジェダイの騎士シスの暗黒卿が用いる超常的な能力の源となっている。)

南無阿弥陀仏を考える

  • 「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
  • 阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」の「はかることのできない(無量)」というアミタ(amita-)のみを音写したもの。

すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

・・・wikiより

南無阿弥陀仏の意味としては上記の通りです。

ところで無量の光明と無量の寿命を阿弥陀と名付けたわけですので、阿弥陀仏の本質は、無量の光明であり無量の寿命と言うことになります。

ここを少し掘り下げてみたいと思います。

 

まず、無量とは永遠と言ってもいいでしょう。始まりの無い過去から終わりの無い未来に向かって果てしなく続くということです。

 無量の寿命とは死なないということです。死なないというのはずっと有り続けることであり、無くならないと言うことです。命がずっと有り続け死ぬと言うことが無い。

無量の光明とは光に限りがないということです。光のあたらないところは無い。すべてが光に包まれているということです。

この二つをどう考えたらいいのか。

 

寿命無量とは慈悲の事と言われます。私に対して命をつなぎ続ける働きです。その働きにより私は生死を繰り返しながらも今、人間界に生まれさせていただき、無量ということを考えさせられている、命を私に与え続ける働きは仏様の無量の命から頂いている、それが仏の慈悲の心ではないかと思います。また、慈悲には抜苦与楽の意味もあります。苦しんでいる私を何とか楽にさせてやりたいと思う心です。

光明無量とは智慧の事と言われます。常に私に知らせようと光を当て続ているのです。何を知らせようとしているかというと、私は実は迷いの塊であり、迷いのまっただ中の人間界という世界にいる、そのことを気づかせるための智慧が光明だと思います。

阿弥陀仏の十二光のなかに智慧光がありますので、衆生の迷いを打ち破る働きが阿弥陀仏の智慧光です。智慧光は私の迷いを打ち破って下さいます。

もう一つ考えてみます。

 

そもそも真如の世界を知ったお釈迦様の教えを聞いた弟子達は、悟りを開いた後「すべてを悟った、もうこの世界に戻ってくることは無い」と言われています。中村元先生の本にはこの言葉が結構出てきます。

そこで知らされることは、阿弥陀様を通して知らされることと同じなのか分かりませんが、仏様が言われるようにこの世と異なる世界があるとします。

あるとしますではなく、仏語に虚妄無しですので間違いなくあるのですが、その世界は真如と呼ばれる世界であり、そちらからこちらを見通す世界だとすると、こちらの世界に向かってあらゆる手立ての働きがあるとします。

それが永遠の命であり光であるとすれば、そして、その世界を聖者ではなく、知恵の無い凡夫の私に知らせるメッセージ、誦文として南無阿弥陀仏という言葉にすべての意味を込められたとしたらどうでしょう。

南無阿弥陀仏が分かろうが分かるまいが私に何かを知らせるメッセージだったんだと気がつきませんか。南無阿弥陀仏の言われを善知識と呼ばれる先生から聞き、その誦文の意味を考えてみたとき何か真理に近づいたような気がしませんか。

永遠の命と光、真如の世界からの呼びかけの言葉が南無阿弥陀仏なのです。たとえばラジオの電波のようにずーっと私に届いているのです。今、呼びかけられているのですから答えるしかないですね、南無阿弥陀仏と。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏