とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

行信教校

「学仏大悲心」

行信教校の一枚看板です。

・・・仏様の大悲のお心を学ぶ・・・

賢い坊さんで無く、有り難い坊さんを育てる所と言われています。

大阪の高槻市にある真宗僧侶の為の学校ですが、私にとっては梯実圓師の出身校として畏れ多いところと思っています。

数年前、私のたまたま知り合った人がそこに入学しました。

最初は信心を獲られず悩んでいましたが、最後は南無阿弥陀仏しか無いと言われ自信を持って行信教校に行かれました。

まだ若い方だったので、これから梯先生みたいな人になって欲しいと願っていました。

今は全くどうなっているのか分かりませんが、きっとすばらしいお坊さんになっていると思います。

そして、行信教校そこは間違いなく行と信を学ぶところなのでしょう。

南無阿弥陀仏の教えを徹底させて頂ける場所としては、個人的には最高の場所ではないかと思います。

 

行信教校の行信は奥深い名前だなと思います。

行は当然「南無阿弥陀仏」のことです。

阿弥陀経を始め、善導大師の六字釈、法然上人の念仏為本および親鸞聖人の信心正因称名報恩など行についていろいろな解説がなされています。

行には称名と名号の二つの解釈がありますが、とりあえず南無阿弥陀仏と称えることが行とします。

また、行は大行とも言われ、最高の善でありこれ以上の行は無いと言われます。

一声称えるごとに罪が消えていくとも書かれています。

 

信は「南無阿弥陀仏のお心」と言うことになります。

阿弥陀様のお心とは、仏願の生起本末ですから南無阿弥陀仏のおいわれであり、第18願を中心としたお心と言うことになります。

さらに信は行と一体ですので信を離れた行も無く、行の離れた信もありません。

ですから信は「南無阿弥陀仏」そのものと言うことになります。

 

余談ですが、信心には空華派と石泉派がありますが、最近はごちゃ混ぜになっているようだと聞きました。

本願寺派はどちらかというと空華派が主流であると言われています。

行信教校は空華の流れをくんでいます。

三業惑乱で有名な安芸の大瀛は石泉派です。

空華派は絶対他力を基本として我が身は凡夫であると言われます。

石泉派は、称名に重きを置き、ご信心を頂けば心は清浄になると言っています。

実際はもっと複雑ですが、この違いが正直言うとよく分からないな~と言うところで、あまり首を突っ込まないようにしています。よく分かる方がいらっしゃったら解説お願いします。

いずれにしても信心を頂いたか頂かないかは自分と阿弥陀様の関係であり、それが三業にどう現れようが人それぞれかなと思います。

 

ついでに、三業惑乱にしても三業帰命説がすべてでは無く、そういう人もいるかもと言っていれば何の問題も無かったのですが、功存上人の願生帰命弁の一部を智洞がさらに本山中心に進めた結果混乱を極めたと書かれています。願生帰命弁はもともと無帰命安心を批判したものでしたので、それを利用して自分の勢力拡大をしたのかなとも思いますが今となっては何がなにやらさっぱりです。

三業惑乱を通して個人的に思うのは、三業帰命説的なのが高森顕徹会長の主張する信心(信ずる心一つと言いながらハッキリした体験が必要と強調する)であり、それは一念覚知の異安心的ではあるものの、それをすべて否定するのは本願ぼこり的でありどちらも違うなと感じます。(参考1)

 また、宗教的体験は人それぞれにあり、それが上記のような考えに当てはまる場合もあるでしょう。そうすると右だ左だという議論になっていくのでしょうか。

その議論に答えを出すのが行信教校のような所ではないかと思っています。

まあ、議論されるのはどっちでもいいんですけど、現在、ただ今、落ちるそのままのお救い、南無阿弥陀仏阿弥陀様の呼び声は変わりませんので私はそれで良いかなと思っています。

後は面々の御計らいです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考1

「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」と本山の解釈もあります。(鮮妙師:意業非意業之論)

大瀛師・道隠師の所論には信一念は非意業(離三業)であるとの主張がみられ、以後は大体これに倣って、信一念は非意業で不覚であるとの説がなされている。(紅楳英顕師)

 

 

 

 

 

 

 

無常観と罪悪感

時間という概念はいつから人間の世界にあるのか分かりませんが、とにかく自分の回りがすごい勢いで生死を繰り返しているのは事実です。

早く感じることも遅く感じることもありますが、とにかくすべてが過ぎ去っていきます。

そして次から次へと新しいこと、あるいは同じ事がやってきます。

 

世界では、シリアが反体制組織にサリン攻撃をして子供が化学兵器によって死んでいます。その報復をアメリカがトマホークミサイルでシリアの軍事基地の攻撃を行ったと報道されています。

そうかというと数日前に日本海に向けてミサイルを発射している北朝鮮があり、いつか日本を始めどこかの国を攻撃するのではないかと、中国とアメリカが北朝鮮の対応などについて協議をしています。

そういうことがめまぐるしいスピードで次から次に起こっては過ぎていきます。

それを繰り返しているのですが、そうしているうちにいつか自分の死がやってくるのは間違いなのですが、全く死ぬとは思えません。

 

「全く、なんてこった。」

 

お釈迦様の時代も同じように大国がせめぎ合って、戦争が常に起き、結局、釈迦族もお釈迦様の存命中に滅ぼされています。

今では歴史の一ページにしかすぎません。

無常は感じなくても感じても事実として無常です。

また、罪悪を感じたら戦争など出来ません。

ましてや肉や魚や貝(アサリが好きなのですが最近不漁で食べられません)をたべることは出来ません。

すべては事実として自分から起きています。

 

無常観と罪悪感をとりつめて阿弥陀様の救いの生起の所を知ることはある意味大事でしょう。

仏教の教えから言えば自分の身は無常であり罪悪の塊と言われれば、その通りです。

しかし、そのことを突き詰めなくても今世の中でおきていることを見れば無常や罪悪は分かることだと思います。私自身はさほど感じていませんが、自分が意識するしないにかかわらず私は無常であり罪悪を作っています。

仏様の目からご覧になれば日々の生活はそれこそ無常と罪悪の連続でしょう。

 

阿弥陀様の救いは、そこを相手にするよりも信心をとれ、本願を聞けと言われているのです。

蓮如上人も言われています。

「罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、・・・」

(御一代記聞書) 

 

さらには、こんな日常にいてどうして解脱(仏)に成ることが出来ましょうか。

どう考えたって仏に成るための修行というものを私を含めほとんどの人がしていないのだから。

 仏に成るための修行は何かと言えば八正道です。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。

基本は、正見。

仏教の基本、四諦を明らかに見る、そこを基本に八つの正しい行いをしていくのです。この正しい行いを正しく行うために決められたことが戒律や六波羅蜜なのですが、いずれにしても八正道を行えば涅槃が得られるのです。

ところがそんなことは出来るわけがありません。

そもそも四諦についても言葉は理解できてもその本当のところを体得しているかと言えばさっぱりです。

ハッキリ言って私は何も分かっていません。

四諦の最初、苦諦にしたって確かに生老病死と聞けば「人生苦しみだよな。」とは思いますが、暫くすれば忘れて「何か美味しいものが食べたい。」と思ってそれに従った行動をします。

煩悩を満足させることは「楽しい」、「幸せ」と自分の細胞から慶びがわき出てきます。身も心も楽しいことはあるじゃないですか。

それをいちいち難しい顔をして苦しもうとしたところで嘘としか思えません。

自分の心なんてそんなものなのですからとても仏教で言われる修行など出来るとは思えません。

 

そんなんであっという間に時間が過ぎていくなかで私が仏に成るなどあり得ないのですが、奇特なことに阿弥陀様と言われる仏様が私の本当の姿を見られて、救わずにおれないと立ち上がってくださったのです。

願も行も成就して、救いの源、南無阿弥陀仏を完成され、すでに私に届けてくださっているのです。現に今私の口から南無阿弥陀仏が出てくださっています。

夢物語かきちがいの話かさっぱり分かりませんが、私を救ってくれるというのだから任せたらいいんです。こちらがきちがいで阿弥陀様が本当なのかもしれないんだから。

どうせ一回の人生、騙されたと思って任せれば良いんです。

 

人の言葉にはすぐ騙され、オレオレ詐欺に引っかかったりします。あるいは投資に騙されることもあります。ひどい場合は友達や家族にも騙されることがあります。

それどころか高森顕徹会にも騙されたのです。

その結果は「しまった」です。

でも、阿弥陀様に騙されるのは「しまった」も無いのですから。だって、こちらにはそもそも信ずる心も念ずる心も求める心も何も無い、すべて頂き物なのですから。

私が阿弥陀様が本当だと思えようが思えまいがそのまま救ってくれると言われるのです。

 

人間は嘘をつきますが、仏様は嘘をつかないのです。

「後生」の問題は阿弥陀様に任せておけば良いのです。

 

時間はあっという間に過ぎていきます。自分の思いなど無視して「後生」は現在、ただ今、落ちるそのまま、御念仏にお任せしましょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

逃げるものを捕まえる

信心を求めていろいろなブログを通して、最後にぶち当たるのが「どうして救われないのか、ただ今の救いが分からない、阿弥陀様が分からない」あたりではないかと思います。

阿弥陀様は現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと言われているのに、

どうして今の私は救われていないのか、又、救われていないと思うのか。

 簡単に言えば救いの手の中にいながら、そのことを拒絶しているのです。

よく言われることですが、妙好人庄松同行にある人が摂取不捨とはどういうことかと聞かれたときです。

以下は、有名な話です。

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庄松さんがあるお寺に泊まっていたとき、住職が「摂取不捨ということばがあるが、あれはどういうこころじゃ」とたずねると、庄松さんはいきなり立ち上がり、「それは、こういうことじゃ」とさけぶと、両の手を広げて、住職につかみかかろうとしたそうです。
 ビックリした住職は、あまりにもむつかしいことをたずねたので、庄松さんがのぼせたと思い、その場を逃げ出したそうです。
 しかし庄松さんは両手を広げたまんま、そのあとを追いかけます。
 本堂から後堂へ、後堂から庫裡(くり)へ、逃げても逃げても庄松さんは追いかけてくるので、いよいよ気味が悪くなって、とうとう一番奥の行灯部屋(あんどんべや)へ逃げ込み、戸を閉めてかくれていました。

ところが後を追ってきた庄松さんがそれに気づき、戸を引きあけるなり、部屋一杯になるほど両の手を広げると、逃げ場を失って、小さくなっている住職に「もう逃げ場はないぞ。摂取不捨とはこれなり」といったと聞きます。
 そのとき初めて住職は、逃げて逃げて、逃げまくるわたしを、ついに追い詰め逃がしたまわぬのが「摂取して捨てず」とおおせられたことかときづいて、大いによろこび、庄松にあつくお礼をいったということです。

妙好人のことば」梯實圓師著 法蔵館

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ようするに自分では法を求めていると思っているのに、実は逃げている。

簡単なのが「どうして自分が救われないのか。」とか、「なんとか成らないのか。」とか、「どうしても分からない。」とか・・・。

これらはすべて阿弥陀様の救いを疑っている姿そのもので、自力の心一杯の状態です。

自力一杯の状態は、自分の心をなんとか変えようとしている状態です。

たとえば、法を聞いて何とかするとか、お念仏を称えて何とかするとか、あるいは心静かに黙想をして仏を思うとか、なんとかすればなんとか成るだろうと思って行う行為すべてです。

これは、20願の状態とも言えます。

18願に対して、20願の状態でどれだけぶつかったとしても得られるものは、20願で誓われたものです。しかし、その20願もどこまですれば20願で得られる状態まで行けるのかどうか分かりません。

20願は化土往生出来ると言われていますが、正念往生あるいは臨終来迎が条件だと

言われています。つまり死んでみなければ分からないということです。

それでもやはりこの心何とかしたいという思いは消えません。

いろいろな思いが出ては消え、出ては消えを繰り返し結局何も変わっていないではないかと振り出しに戻るのですが、そもそも自他力廃立が要なのですからそこは全く変わらないのです。

何か変わるかと思ったら私は何も変わらなかったと言うことです。

仏法を知る前と知った後の私は何も変わらず、ずーっと凡夫のままなのです。

人は成長はしますが凡夫の本性は変わりません。そのことを阿弥陀様から教えて頂いています。

その何も変わらない凡夫の私がお目当てなのです。

だから、落ちるそのまま、と言うのですが、・・・・・・・。

それでも分からないと言う、その姿が逃げていると言われると「は?」と成るのでしょうね。

阿弥陀様は今も現在ただ今落ちるそのままの私を救うと呼んでおられます。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

五戒をたもてる功力

静かにおもんみれば、それ、人間界の生をうくることは、まことに五戒を
たもてる功力によってなり。これおおきにまれなることぞかし。

御文章二帖目第七通

 

今、私は人間に生まれています。

蓮如上人の御文章によれば前生において五戒を保ったお陰で今人間に生まれていると言われます。

では、私は前生において五戒を本当に保ったのか考えてみたいと思います。

まず、五戒とは何か、wikiより引用します。

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五戒(ごかい)とは、仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと。
不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を故意に殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを故意に盗んではいけない。
不邪婬戒(ふじゃいんかい) - 不道徳な性行為を行ってはならない。
不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい)   - などを飲んではいけない。

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これらを保つことにより人間界に生まれたとすると六道の内でこれを保つ世界はどこにあるのか。

上から順番に考えてみます。

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天道 

天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。

・・・

天人は悟りを開いてはおらず、煩悩から解放されていない。悟りを開いたものは仏陀であり、輪廻から解放され六道に属さない涅槃(浄土、極楽)へと行くと言われていますので、五戒を保てる人もいるかもしれませんが、ほとんど保てないない世界だと思います。また、仏教の教えが無い世界ですので五戒とは無縁の世界でしょう。

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人間道

人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。

・・・

人間界はご存じのように悟りを開くことが出来る世界ですので、五戒を保つことは出来る世界と考える事が出来ます。ただし、ほとんどの人が五戒を保てない世界でしょう。

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修羅道

修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

・・・

修羅道は言葉の通り争う世界ですので、殺生は間違いなくあるでしょうから、この世界では五戒は保てません。

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畜生道

畜生道は牛馬など畜生の世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。他から畜養(蓄養)されるもの、すなわち畜生である。

・・・

この世界は、五戒を保つと言うよりは、五戒をすることがない世界だと思います。

ようするに保つでは無く、五戒をしない世界、結果的に五戒を保ったことになる世界だと思います。

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餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。

・・・

この世界も食べ物のために殺生や偸盗をするかもしれない世界と言えますので五戒を保つことは出来ないかもしれません。

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地獄道

地獄道は罪を償わせるための世界である。

苦しみに責め立てられる世界。

・・・

苦しみに責め立てられる訳ですので、五戒を間接的に保つことが出来ることになります。要するに苦しくて五戒とは関係ない世界と言えるでしょう。

・・・・・・

 

以上から推察するに、私は人間道、畜生道地獄道にいた可能性がありますが、人間道に仮にいたとしても、今でも五戒を保っていないのに以前は保っていたなどと思うのは大きな自惚れでしょう。

個人的には、やはり畜生道地獄道から今回人間道に生まれさせていただいたのかなと思います。

そして、今生でも五戒を保っていませんので次に生まれる世界は人間道以外になりますが、阿弥陀様のお陰で、さあ、どこに生まれさせていただけるでしょうか?

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

所詮、家族も一人、一人

結構ショックなことがありました。

夫婦も家族も一人、一人なんだと思うことがありました。

一人、一人の世界に住んでいて自分中心に回っていると仏教で教えられていましたが、

私の家族は大丈夫だろうと思っていたら・・・。

すごく、ショックでした。

簡単に言えば一切私の言葉を信用していない、全く馬鹿にするとかでなく、聞いていても全く届いていなかったことが分かったのです。

残念でなりませんでした。

何十年も一緒に過ごしてきたのに、俺は何をしてきたのか、何一つ伝わっていなかったではないか。

無力感にこれほど襲われたことはありません。

内容を聞けば、なんだそんなこと と思われるかもしれません。

それでも自分の言葉がここまで届いていなかったのは結構ショックだったのです。

自分も悪いと思います。もっと言葉を尽くして丁寧に話せばよかったと思いますが、そこまで言わなくても分かっているだろうとこちらが勝手に思っていたのです。

結局、何一つ伝わっていなかったことが、また、全く信用されていなかったのかと知らされたことが本当にショックでした。

貴方の言うことも本当かもしれないくらいは言って欲しかったのですが、全く無理でした。

力不足とは言え、あ~あ、こんなもんか、と。

立ち直るまでにしばらく時間がかかりますね。

世間虚仮、唯仏是真

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ご信心は凡夫が頂くのです。

ご信心を頂いたと思っても何も私自身は変わりません。

つまり、元のままで、凡夫なのです。

いただいたと思う人の中には、すべて分かったと勘違いする人もいます。

あるいは自分が悟りを開いたのではないかとも。

でも、お聖経にあるとおり三悪道に落ちる者がお目当ての本願なのです。

死ぬが死ぬまで何一つ変わらない、全くの凡夫なのです。

ですから、親鸞聖人も以下のように言われています。

 

 「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。」( 一念多念文意)

 

たとえご信心を頂いても人それぞれの脳みそのレベルでご法話を頂きますので、その受け止め方は千差万別億差兆別です。

中には間違った解釈もあると思います。それに歳を経れば頭もぼけてきます。

記憶力も低下します。間違いも起こします。

ご信心を頂いた人かもしれないと思っても勉強されていない人は何も変わりませんし、ご信心が無くても勉強されている人は素晴らしいのです。

 

『一枚起請文』に、

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚禿の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべしと示されています。

また、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と末燈鈔に法然上人のお言葉としてあります。

心しなければなりませんね。ご信心を頂いていると勝手に思っている「とくよしみね」でした。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

病気になると死ぬんじゃないかと思う。

体調不良になったり健康診断でひっかかたりして、悪い病気にかかったんじゃないのかと不安に思うことがあります。

いくら御念仏を称えても心は安らかにならないし、なんともなりません。

結局なるようにしかならないと腹をくくるのですが、今生の世界は名残惜しく少しでも長くいたいと思っています。

本当に困ったもので、これで大丈夫ですかと言われてもなんとも言えない自分がいるのです。

歎異抄第9条にはそのことがありありと説かれています。

これを読ませていただくとなんとも有り難い気持ちにさせていただきます。

自分にあるのは燃えさかる煩悩のみ。

どこかの妙好人が言われていましたが、煩悩があって良かったと。

煩悩具足の凡夫だから喜べるのですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

歎異抄第9条 現代語訳

念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。

 この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。

喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

 また、浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです。

果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けれきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。

どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。

はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。

このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。

 おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われることでしょう。

 このように聖人は仰せになりました。

 

原文

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。