とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

野際陽子さん

皆さんご存じの野際陽子さんが亡くなりました。

私は「キイハンター」というテレビドラマで最初に見たのですが、これを書くと歳が分かってしまいます。

とてもきれいで才色兼備の人でした。

当時人気の千葉真一さんと結婚され、頭脳と体力の結婚みたいに言われていました。

それも長く続かず離婚されています。

ちょっと前では、「ずっと貴方が好きだった」の冬彦さんのお母さん役をやっておられました。最近では「トリック」の仲間由紀恵さんのお母さん役ですね。

いずれにしても最後まで立派な女優さんでしたね。

有名人が亡くなるとその死を悼み、惜別の念を思い起こします。

そして追悼番組などがされ、故人を偲びますが暫くすると忘れて日々の生活に埋没していきます。

そういう一日を積み重ねていくことに本当の意味があるのかと考える暇もなく生活に追われる毎日です。

有名人の死は、その一瞬でも生老病死を思います。のんきにテレビを見ながらご飯をぱくぱく食べて、それらのニュースを見ています。

それがずうっと続くと思い込んでいます。

そんな生活をしている私にいつ悟りを開く修行が出来るのか。

出来るわけはないですね。

まして、南無阿弥陀仏のお心と言われても「あ~、そうですね」くらいにしか思っていません。

それよりも自分の煩悩を喜ばせることに一生懸命です。

だから私の回りに何度も何度も死の便りが届くのでしょう。そして南無阿弥陀仏が響き渡っているのでしょう。

お前の後生は大丈夫か?と問われ続けているのでしょう。

そして今、頭の中に響き渡っている御念仏を聞かずして一体何を聞くと言うのか。

 

・・・・訳が分かろうが分かるまいが、お前を必ず助ける証拠が南無阿弥陀仏だ、称えておくれ、そのまま、落ちるそのまま来い・・・・

 

阿弥陀様がおられなかったら大変な事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

阿難陀

阿難陀尊者は、お釈迦様のお父様、浄飯王の弟で甘露飯王の子供だそうです。

お釈迦様にとっては従兄弟に当たるわけですが、歳はかなり離れていました。

お釈迦様が出家されたあたりに生まれられたと言われていますので、35歳くらいの差になります。

また、55歳まで侍者であったと言われていますので、20歳代の時から25年間お釈迦様が亡くなるまで従われたことになります。

 

実はお釈迦様の侍者は阿難陀以外にもおられたのですが、どうもイマイチで何人か交代になられているようです。

その中の一人はお釈迦様の荷物を盗まれたり、盗賊に頭を張り倒されたりした者がいたようで、お弟子達がこれでは大変ということで阿難陀を説得したそうです。

 

しかし、阿難陀は何度も断って最後には、条件を付けて侍者になられたそうです。

その条件とは、

1 釈尊の新着の衣服または食べ物は頂かないこと。

2 釈尊が在家に請待されるときは必ずしも御随い申さないこと。

3 いつでも釈尊に見えてお給侍が出来ること。

だそうです。

 

よく理解できないことがあります。

1番と2番はなんとなく理解できるのですが、3番が私にはよく分かりません。

そこまで阿難陀はお釈迦様のおそばに本当はいたかったのか・・・?

もし分かる方がおられるなら教えていただきたいと思います。

また、この時27歳くらいと言う説もあります。

 

阿難陀の女難については、いろいろありますが個人的に一番印象に残っているのは比丘尼が阿難陀に恋をし、自分が病気であるから見舞いに来て欲しいと家に呼んで、阿難陀が来たときはあられもない姿で阿難陀を迎えたことです。

私なら・・・・してしまいますが、さすが阿難陀です。

また、阿難陀がどれだけの美男子だったかこれだけでも想像出来ます。

 

そして、阿難陀は比丘尼に言います。

「妹よ、穢れた食べ物で身を養ってはならない。

驕慢の心をもって心を養ってはならない。

淫欲をもって心を養ってはならない。

・・・・」

他にも沢山書かれていますが、自分ではとても想像出来ない差があります。

 

また、阿難陀の身体にできものが出来たとき、阿難陀が聞法中にできものを取り去ったということがありました。後で阿難陀はその事を言われても気がつかなかったそうです。聞法とはそういう気持ちで聞かせてもらうものだと書かれています。

 

その後、25年にわたってお釈迦様に随われますが、阿羅漢の悟りがどうしても開くことが出来ません。

お釈迦様が亡くなられる直前、暫くしたら悟りを開くであろうと予言されています。

しかし、お釈迦様が亡くなられても阿難陀は悟りが開かれません。そして、お釈迦様が亡くなられて悲嘆に暮れます。

 

しばらくして、安居の時期に金剛子と一緒に群衆に説法しているとき、金剛子は阿羅漢の悟りを開いていない阿難陀が説法しているのは問題だと思われそのことを阿難陀に伝えたのでした。

阿難は言葉を覚えていてもそのお心の深いところが分かっていないのではないかと金剛子は思われたのでしょう。

阿難陀はそれから悶々とします。

 

それから第一結集の時が来ますが、まだ阿羅漢の悟りが開けません。

そして、極めつけは迦葉尊者から結集には阿難陀は出席できないと告げられます。

迦葉尊者は、お釈迦様のお言葉を後世に伝えるこの大事な時に阿羅漢の悟りを開いていない者の意見を入れるわけにはいかなかったのです。

 

苦しむ阿難陀。

お釈迦様のご説法が頭を駆け巡ります。

 

この時、阿難陀は外に向いていた自分の目が、内側に向いたと書かれています。

そして夜を徹して我が心と対峙されます。

翌朝、阿難陀は晴れて阿羅漢の悟りをいただき、結集に間に合います。

その時の阿難陀は雲間から朝日が差すように晴れ晴れしていたと書かれています。

 

こののち20数年後、阿難陀は説法をし続け、最後は争う国に流れる河の真ん中で涅槃に入られます。

それぞれの国の王が阿難陀を尊敬していたのです。

どちらにつくこともなく釈尊と同じ中道を行かれたのかなと勝手に思っています。

 

知れば知るほど、すごい人だったんだと思います。

戒律も守りお釈迦様の侍者を25年にわたり仕えられ、超人的な神通力や記憶力によって多くの人々を導き、今なお阿難陀の存在を輝かせているこの事実は、間違いなく菩薩様であり、また、仏様の生まれ変わりでありましょう。

 

この話をどこまで信じられるかはその人その人のご縁です。

アホかと思われる方もおられるでしょう。

実際、お釈迦様の時代でもお釈迦様を慕った人が1/3、反発した人が1/3、全く縁の無かった人が1/3と言われています。

 

自惚れかもしれませんが、今、このブログを読まれている方達はお釈迦様の時代、直接ご説法を聞かれたご縁のあった方たちかもしれません。

 

有り難い事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

出典:仏弟子

 

宿善とは

高森顕徹会の方は、宿善になるからと言われて必死に財施と会員勧誘を頑張った方は多いと思います。

確かに人を仏教の教えに導くことは大変尊い事だと思います。

しかし、その方法については色々なご意見があると思います。

また、導く先が間違っていては何にもなりません。

今思い返してみて個人的に思うのは、比叡山阿闍梨酒井雄哉師です。

とても尊敬できます。

書かれた著書の題名を見ただけでも「違うな~」と思います。

 

「がんばらなくていいんだよ」、「ムダなことなどひとつもない」、「一日一生」、「今できることをやればいい」、「そのままの自分を出せばいい」など。

 

ただ、ご縁がなかったことが今の私には良かったと思います。

もし、ご縁がが強かったら大変です。

同じように比叡山で修行していたかもしれません。

これを宿縁と言います。

 

親鸞聖人は今、浄土真宗浄土教の教えに出会って南無阿弥陀仏とのご縁のある人は「遠く宿縁を慶べ」と言われました。

 

では、高森顕徹会では宿善をどう解釈していたのか。

「宿善は宿世の善根ということで、過去に行った善行の事です。ですから今生でも信心決定の為に宿善になることを行いましょう。」

財施は宿善になります、法施も同じです。聴聞破邪顕正は宿善になります。」

「宿善が開発したら信心決定します。ちょうどどんぶりに水を入れてあふれたときが宿善開発です。そこまで宿善を積みましょう。」

以上のように教えられてきました。

 

ところが実際の宿善とは、簡単に書きますと以下の事です。

「過去世においての阿弥陀仏とのご縁のこと。」

ということは、今生に於いて何が出来るのか。

もちろん、財施も法施も大事ですが、それが宿善になる訳ではありません。

また、財施や法施も誰に出すかが一番問題です。

生かすも殺すも相手次第です。

福田に財施や法施をせよと高森顕徹会で言われていましたが、これも実際には下記に書いた内容ですので高森顕徹会の教えとは異なります。

たとえば敬田を仏様と言っていますが、実際には仏法僧です。

やはり、正しい浄土真宗を教えて頂くところが一番ですね。

 

そして、今、南無阿弥陀仏とご縁のある方、浄土真宗のご法話を聞かれている方、もっと言えば高森顕徹会の会員は皆、宿善のある方です。

ですから今生でもっと宿善を積まなければならないとか、自分は宿善が薄いとか思う必要は一切ありません。

 

繰り返しになりますが、宿善とは「過去世においての阿弥陀仏とのご縁のこと。」であり、現在、阿弥陀様とご縁のある方は皆宿善のある方です。

 

後は、南無阿弥陀仏に任せるのかどうかだけです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

宿善の「宿」は本来「自覚以前」という意味です。つまり「気がつく前」ということで、弥陀のご本願は私が気がつく前にすでに起こされていたのであります。気がついた時はすでに手遅れなのであります。

その意味からすれば、気がついた時は、たとえ私が今までに行ったとしても、私のものではなかったのであります。また「宿」の中にはただ今までの過去のすべてが入り、善とは法性にかなう浄業のことであります。

そうした浄業は如来のなさしめ給うはたらきのほかにはないわけであります。だから宿善とはどこまでも、信の上の反省と言わねばなりません。

信を通さないと宿善は出てきません。

そこには永い間、聞かせていただきながらはねつけていた私が出てまいります。お与えものをはばんでいました。邪魔をしていました。深い恵みが与えられていました。如来から計らわれていた私であります。

自分のすべてが如来のはたらきかけの中にいたのであります。たとえ無駄をしたようでも、無駄ではなかったのであります。ともかく、現在の信の反省において、如来の計らいであったといただくのが、遇い難くして今遇うことのできたこの身いっぱいの喜びであります。

今素直に掌を合わさせていただく幸せであります。

要するに、宿世の善根というほどの善は私には有ることが無いわけで、宿善は如来から私たちへのはたらきかけの善ということになります。

わが後生の問題に大事にかかってきたのがすでに宿善到来したしるしであります。

 

親鸞の世界 -信の領解-」(加茂仰順師)

 

  • 敬田 ‐ 仏法僧
  • 恩田 ‐ 父母祖先など、恩に報いるべきもの
  • 悲田 ‐ 貧者や病人など哀れむべきもの

 

脱北者

最近、高森顕徹会を退会された方達に会う機会がありました。

私は知らなかった方達でしたが、どこかで何度も見かけていたかもしれません。

私も退会した当初、おっかなびっくりでどこのご法話を聞きに言っても「もう、騙されないぞ」と警戒ばかりしていました。

未だに高森顕徹会にいた当時のことを思い出しては、パニックまではなりませんが、なんとも言えない気持ちになります。

怒りというか、後悔というか、そんな感情が渦巻きます。それでもそこで過ごした時間は紛れもなく私の人生の一部なのです。

浄土真宗というものを知ったのも会に入ったからで間違いありません。

そのことは否定できるものではありませんが、自慢できるかというとちょっと世間様に大手を振って言えるものでもありません。

退会者は、ちょうど北朝鮮から帰ってきた人たちとよく似ているのかもしれません。

 

将軍様は絶対で逆らうなんてあり得ない。

まして、裏切るなんて死刑になっても不思議ではない。

これを会に当てはめれば、

会長先生に逆らうなんて絶対あり得ない。

会長先生を裏切ったらもう今生で救われる術はなくなり、地獄一定である。

 

ところが何かのきっかけで真実を知らされ、我が身のしてきたことに愕然とします。騙されていた、なんと言うことか、自分を責めてしまうこともあるでしょう。

それでも後生の解決、何とかしたいと会を退会しても幸せを探し回る姿は、脱北者に似ていると思います。

 

本来、宗教は自由であるはずで、己の技量に合わせた求め方があるはずなのです。お釈迦様は対機説法をされています。当たり前ですが、修行の出来ない人に修行をせよというのは単なるいじめであり、そんな宗教家はインチキとしか言いようがありません。

 

お金をお布施してくださいと言われても人それぞれの財産状態があります。それを無視して一人幾ら以上お願いしますなどと言われたとたん、ちょっと引いてしまいます。

ましてや相続で財産が入ったんだから沢山お布施しなさいなどと言われた人がいましたが、無茶苦茶です。

それでも宿善になるならと、宿善の本当の意味も分からずとにかく布施は良いことだと言われその通りにお金を出す、教えを利用してお金をむしり取るのは詐欺に近いでしょう。

いや、少なくとも真実をしっかり説かれるならまだしも、将軍様は世間の白を黒と言っているが世間が間違いで白は黒なんだと、浄土真宗の教えも適当に自分の都合の良いようにねじ曲げて会員に伝えているのです。真実は高森会長しか説く人はいないとマインドコントロールされているのですから、やはり北朝鮮と同じでしょうね。

 

人のことばかり言ってますが私も脱北組ですので同じなんですけどね。

その上で、高森顕徹会から本願寺などの教えに握り替えるだけでなく、どんな教えなのか、阿弥陀様の御本願はどういうものなのか、仏願の「生起」は高森顕徹会で嫌というほど聞かれたはずですので、「本末」の方をしっかり聞かせて頂きたいものです。

 

現在、ただ今、落ちるそのまま、阿弥陀様は待って、待って、待ち続けています。

まだか、まだか、早く来い、早く来い、どうかお願いだから、迷いの世界を出てこい、間違いはない、必ず助ける、欲と怒りの心で苦しみの世界に落ちるのは自性、それをそっくりそのまま救ってやるから、早く来い、早く来い、そのまま来い、・・・・。

御念仏は証拠だ、南無阿弥陀仏が信心だ、南無阿弥陀仏を称えよ、必ず救う。

血の涙を流されているのは阿弥陀様、こちらはボンクラです。

それでもこのボンクラが大好きだと言われるのです。申し訳ありませんね。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

行信教校

「学仏大悲心」

行信教校の一枚看板です。

・・・仏様の大悲のお心を学ぶ・・・

賢い坊さんで無く、有り難い坊さんを育てる所と言われています。

大阪の高槻市にある真宗僧侶の為の学校ですが、私にとっては梯実圓師の出身校として畏れ多いところと思っています。

数年前、私のたまたま知り合った人がそこに入学しました。

最初は信心を獲られず悩んでいましたが、最後は南無阿弥陀仏しか無いと言われ自信を持って行信教校に行かれました。

まだ若い方だったので、これから梯先生みたいな人になって欲しいと願っていました。

今は全くどうなっているのか分かりませんが、きっとすばらしいお坊さんになっていると思います。

そして、行信教校そこは間違いなく行と信を学ぶところなのでしょう。

南無阿弥陀仏の教えを徹底させて頂ける場所としては、個人的には最高の場所ではないかと思います。

 

行信教校の行信は奥深い名前だなと思います。

行は当然「南無阿弥陀仏」のことです。

阿弥陀経を始め、善導大師の六字釈、法然上人の念仏為本および親鸞聖人の信心正因称名報恩など行についていろいろな解説がなされています。

行には称名と名号の二つの解釈がありますが、とりあえず南無阿弥陀仏と称えることが行とします。

また、行は大行とも言われ、最高の善でありこれ以上の行は無いと言われます。

一声称えるごとに罪が消えていくとも書かれています。

 

信は「南無阿弥陀仏のお心」と言うことになります。

阿弥陀様のお心とは、仏願の生起本末ですから南無阿弥陀仏のおいわれであり、第18願を中心としたお心と言うことになります。

さらに信は行と一体ですので信を離れた行も無く、行の離れた信もありません。

ですから信は「南無阿弥陀仏」そのものと言うことになります。

 

余談ですが、信心には空華派と石泉派がありますが、最近はごちゃ混ぜになっているようだと聞きました。

本願寺派はどちらかというと空華派が主流であると言われています。

行信教校は空華の流れをくんでいます。

三業惑乱で有名な安芸の大瀛は石泉派です。

空華派は絶対他力を基本として我が身は凡夫であると言われます。

石泉派は、称名に重きを置き、ご信心を頂けば心は清浄になると言っています。

実際はもっと複雑ですが、この違いが正直言うとよく分からないな~と言うところで、あまり首を突っ込まないようにしています。よく分かる方がいらっしゃったら解説お願いします。

いずれにしても信心を頂いたか頂かないかは自分と阿弥陀様の関係であり、それが三業にどう現れようが人それぞれかなと思います。

 

ついでに、三業惑乱にしても三業帰命説がすべてでは無く、そういう人もいるかもと言っていれば何の問題も無かったのですが、功存上人の願生帰命弁の一部を智洞がさらに本山中心に進めた結果混乱を極めたと書かれています。願生帰命弁はもともと無帰命安心を批判したものでしたので、それを利用して自分の勢力拡大をしたのかなとも思いますが今となっては何がなにやらさっぱりです。

三業惑乱を通して個人的に思うのは、三業帰命説的なのが高森顕徹会長の主張する信心(信ずる心一つと言いながらハッキリした体験が必要と強調する)であり、それは一念覚知の異安心的ではあるものの、それをすべて否定するのは本願ぼこり的でありどちらも違うなと感じます。(参考1)

 また、宗教的体験は人それぞれにあり、それが上記のような考えに当てはまる場合もあるでしょう。そうすると右だ左だという議論になっていくのでしょうか。

その議論に答えを出すのが行信教校のような所ではないかと思っています。

まあ、議論されるのはどっちでもいいんですけど、現在、ただ今、落ちるそのままのお救い、南無阿弥陀仏阿弥陀様の呼び声は変わりませんので私はそれで良いかなと思っています。

後は面々の御計らいです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考1

「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」と本山の解釈もあります。(鮮妙師:意業非意業之論)

大瀛師・道隠師の所論には信一念は非意業(離三業)であるとの主張がみられ、以後は大体これに倣って、信一念は非意業で不覚であるとの説がなされている。(紅楳英顕師)

 

 

 

 

 

 

 

無常観と罪悪感

時間という概念はいつから人間の世界にあるのか分かりませんが、とにかく自分の回りがすごい勢いで生死を繰り返しているのは事実です。

早く感じることも遅く感じることもありますが、とにかくすべてが過ぎ去っていきます。

そして次から次へと新しいこと、あるいは同じ事がやってきます。

 

世界では、シリアが反体制組織にサリン攻撃をして子供が化学兵器によって死んでいます。その報復をアメリカがトマホークミサイルでシリアの軍事基地の攻撃を行ったと報道されています。

そうかというと数日前に日本海に向けてミサイルを発射している北朝鮮があり、いつか日本を始めどこかの国を攻撃するのではないかと、中国とアメリカが北朝鮮の対応などについて協議をしています。

そういうことがめまぐるしいスピードで次から次に起こっては過ぎていきます。

それを繰り返しているのですが、そうしているうちにいつか自分の死がやってくるのは間違いなのですが、全く死ぬとは思えません。

 

「全く、なんてこった。」

 

お釈迦様の時代も同じように大国がせめぎ合って、戦争が常に起き、結局、釈迦族もお釈迦様の存命中に滅ぼされています。

今では歴史の一ページにしかすぎません。

無常は感じなくても感じても事実として無常です。

また、罪悪を感じたら戦争など出来ません。

ましてや肉や魚や貝(アサリが好きなのですが最近不漁で食べられません)をたべることは出来ません。

すべては事実として自分から起きています。

 

無常観と罪悪感をとりつめて阿弥陀様の救いの生起の所を知ることはある意味大事でしょう。

仏教の教えから言えば自分の身は無常であり罪悪の塊と言われれば、その通りです。

しかし、そのことを突き詰めなくても今世の中でおきていることを見れば無常や罪悪は分かることだと思います。私自身はさほど感じていませんが、自分が意識するしないにかかわらず私は無常であり罪悪を作っています。

仏様の目からご覧になれば日々の生活はそれこそ無常と罪悪の連続でしょう。

 

阿弥陀様の救いは、そこを相手にするよりも信心をとれ、本願を聞けと言われているのです。

蓮如上人も言われています。

「罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、・・・」

(御一代記聞書) 

 

さらには、こんな日常にいてどうして解脱(仏)に成ることが出来ましょうか。

どう考えたって仏に成るための修行というものを私を含めほとんどの人がしていないのだから。

 仏に成るための修行は何かと言えば八正道です。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。

基本は、正見。

仏教の基本、四諦を明らかに見る、そこを基本に八つの正しい行いをしていくのです。この正しい行いを正しく行うために決められたことが戒律や六波羅蜜なのですが、いずれにしても八正道を行えば涅槃が得られるのです。

ところがそんなことは出来るわけがありません。

そもそも四諦についても言葉は理解できてもその本当のところを体得しているかと言えばさっぱりです。

ハッキリ言って私は何も分かっていません。

四諦の最初、苦諦にしたって確かに生老病死と聞けば「人生苦しみだよな。」とは思いますが、暫くすれば忘れて「何か美味しいものが食べたい。」と思ってそれに従った行動をします。

煩悩を満足させることは「楽しい」、「幸せ」と自分の細胞から慶びがわき出てきます。身も心も楽しいことはあるじゃないですか。

それをいちいち難しい顔をして苦しもうとしたところで嘘としか思えません。

自分の心なんてそんなものなのですからとても仏教で言われる修行など出来るとは思えません。

 

そんなんであっという間に時間が過ぎていくなかで私が仏に成るなどあり得ないのですが、奇特なことに阿弥陀様と言われる仏様が私の本当の姿を見られて、救わずにおれないと立ち上がってくださったのです。

願も行も成就して、救いの源、南無阿弥陀仏を完成され、すでに私に届けてくださっているのです。現に今私の口から南無阿弥陀仏が出てくださっています。

夢物語かきちがいの話かさっぱり分かりませんが、私を救ってくれるというのだから任せたらいいんです。こちらがきちがいで阿弥陀様が本当なのかもしれないんだから。

どうせ一回の人生、騙されたと思って任せれば良いんです。

 

人の言葉にはすぐ騙され、オレオレ詐欺に引っかかったりします。あるいは投資に騙されることもあります。ひどい場合は友達や家族にも騙されることがあります。

それどころか高森顕徹会にも騙されたのです。

その結果は「しまった」です。

でも、阿弥陀様に騙されるのは「しまった」も無いのですから。だって、こちらにはそもそも信ずる心も念ずる心も求める心も何も無い、すべて頂き物なのですから。

私が阿弥陀様が本当だと思えようが思えまいがそのまま救ってくれると言われるのです。

 

人間は嘘をつきますが、仏様は嘘をつかないのです。

「後生」の問題は阿弥陀様に任せておけば良いのです。

 

時間はあっという間に過ぎていきます。自分の思いなど無視して「後生」は現在、ただ今、落ちるそのまま、御念仏にお任せしましょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

逃げるものを捕まえる

信心を求めていろいろなブログを通して、最後にぶち当たるのが「どうして救われないのか、ただ今の救いが分からない、阿弥陀様が分からない」あたりではないかと思います。

阿弥陀様は現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと言われているのに、

どうして今の私は救われていないのか、又、救われていないと思うのか。

 簡単に言えば救いの手の中にいながら、そのことを拒絶しているのです。

よく言われることですが、妙好人庄松同行にある人が摂取不捨とはどういうことかと聞かれたときです。

以下は、有名な話です。

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庄松さんがあるお寺に泊まっていたとき、住職が「摂取不捨ということばがあるが、あれはどういうこころじゃ」とたずねると、庄松さんはいきなり立ち上がり、「それは、こういうことじゃ」とさけぶと、両の手を広げて、住職につかみかかろうとしたそうです。
 ビックリした住職は、あまりにもむつかしいことをたずねたので、庄松さんがのぼせたと思い、その場を逃げ出したそうです。
 しかし庄松さんは両手を広げたまんま、そのあとを追いかけます。
 本堂から後堂へ、後堂から庫裡(くり)へ、逃げても逃げても庄松さんは追いかけてくるので、いよいよ気味が悪くなって、とうとう一番奥の行灯部屋(あんどんべや)へ逃げ込み、戸を閉めてかくれていました。

ところが後を追ってきた庄松さんがそれに気づき、戸を引きあけるなり、部屋一杯になるほど両の手を広げると、逃げ場を失って、小さくなっている住職に「もう逃げ場はないぞ。摂取不捨とはこれなり」といったと聞きます。
 そのとき初めて住職は、逃げて逃げて、逃げまくるわたしを、ついに追い詰め逃がしたまわぬのが「摂取して捨てず」とおおせられたことかときづいて、大いによろこび、庄松にあつくお礼をいったということです。

妙好人のことば」梯實圓師著 法蔵館

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ようするに自分では法を求めていると思っているのに、実は逃げている。

簡単なのが「どうして自分が救われないのか。」とか、「なんとか成らないのか。」とか、「どうしても分からない。」とか・・・。

これらはすべて阿弥陀様の救いを疑っている姿そのもので、自力の心一杯の状態です。

自力一杯の状態は、自分の心をなんとか変えようとしている状態です。

たとえば、法を聞いて何とかするとか、お念仏を称えて何とかするとか、あるいは心静かに黙想をして仏を思うとか、なんとかすればなんとか成るだろうと思って行う行為すべてです。

これは、20願の状態とも言えます。

18願に対して、20願の状態でどれだけぶつかったとしても得られるものは、20願で誓われたものです。しかし、その20願もどこまですれば20願で得られる状態まで行けるのかどうか分かりません。

20願は化土往生出来ると言われていますが、正念往生あるいは臨終来迎が条件だと

言われています。つまり死んでみなければ分からないということです。

それでもやはりこの心何とかしたいという思いは消えません。

いろいろな思いが出ては消え、出ては消えを繰り返し結局何も変わっていないではないかと振り出しに戻るのですが、そもそも自他力廃立が要なのですからそこは全く変わらないのです。

何か変わるかと思ったら私は何も変わらなかったと言うことです。

仏法を知る前と知った後の私は何も変わらず、ずーっと凡夫のままなのです。

人は成長はしますが凡夫の本性は変わりません。そのことを阿弥陀様から教えて頂いています。

その何も変わらない凡夫の私がお目当てなのです。

だから、落ちるそのまま、と言うのですが、・・・・・・・。

それでも分からないと言う、その姿が逃げていると言われると「は?」と成るのでしょうね。

阿弥陀様は今も現在ただ今落ちるそのままの私を救うと呼んでおられます。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏