とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

中央仏教学院長

中央仏教学院とは、浄土真宗本願寺派の僧侶になるための学院です。
高森顕徹会は同じような名前で講師学院というのを昭和六〇年頃に作られましたが、
前者の方がずっと歴史は古いので詳細をお知りになりたければ中央仏教学院を検索してみてください。とんでもなく奥が深くびっくりします。
ところで今回は、この中央仏教学院の学院長お言葉を勝手に引用します。
たまたま、中央仏教学院の冊子から情報を得ることが出来たのですが、この言葉に感心したので皆様にもお知らせしたいなと思い今回の記事に引用します。
私自身は中央仏教学院長のことも何も知らないのですが、本願寺の懐の深さに驚いています。
とりあえず以下に私に響いてきたお言葉を記します。
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中央仏教学院長 北塔光昇師


  スマートフォンで「宗教」について検索しますと、検索対象候補として「宗教団体」、「宗教活動」、「宗教芸能人」などの言葉が出てきます。それぞれにアクセスしてみますと、「新興宗教の団体」、「新興宗教の勧誘」、「新興宗教と芸能人」と、新興宗教関係の記事や意見が出てきます。多くの人にとっての宗教への関心事は、新興宗教のようです。
  また、新聞やテレビの報道番組などの宗教への関心事はイスラム教やキリスト教が中心であって、教養番組を除いては仏教はないようです。
  しかし、私達中央仏教学院で学ぶ宗教とは、仏教が主であって、その他の宗教ではありません。たとえ、科目としてそれらを学ぶことがあっても、仏教との違い、真宗との違いを学ぶのであって、興味からも、教養からも、まして、自らそれらの信者になるために学ぶというのではありません。
  親鸞聖人がお勧めくださる浄土真宗こそが真実の教えであり、私が仏に成ることのできる唯一の教えであることを学ぶのです。・・・以下省略
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私は驚きました。
最後の二行について、ここまでハッキリ言われる方が本願寺におられるのに心が躍りました。
嬉しいことです。
これが本願寺だ、これこそが親鸞聖人、蓮如上人を引き継ぐ方達の姿だと感動せずにはおれませんでした。
この後にもいろいろ書かれていますが最後は阿弥陀様のお慈悲について書かれているのです。
個人的にはこの方に頭が下がりました。
「おっしゃるとおりです、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」と心の中で叫んでいました。
浄土真宗の奥深さ、侮ってはいけません。
まして、高森顕徹会など歯牙にもかけない存在です。
本願寺、恐るべし。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

勉強会の感想

今回は、山も山さんにお願いして勉強会を開催しました。
沢山の方に参加していただき、また、和やかな雰囲気で非常に良かったと思っております。
さらに飛雲さんも後で参加していただきました。
これもありがたいご縁でした。

ご法話の内容については、正信偈を通して阿弥陀様の御本願を詳しく話していただきました。
ご法話の感想で阿弥陀様が近くに感じられるようになったと言われる人もありました。
ご法話の後に懇親会も開催しましたが、皆さん楽しそうでした。

また、皆さんお一人お一人が自分の事として聞かせていただく、そこには自由な発言が大事だと思います。
そのため質疑の時間も十分取って頂きました。

私個人の感想としては、阿弥陀様と私の関係において、理解するだけではない、ただ、それはお一人お一人で受け止め方は違うものの、理解することとは異なるものがあることを強調されたことに本当にそうだなと思いました。

先手の阿弥陀様、後手は私。聞くだけと言いながらも、疑いなく聞くというところも詳しく話して頂きました。
高森顕徹会的ピカドン信心が信心では無いとは思っておられても、知った、覚えたとは違うことをいろいろな譬えをもって何度も何度も教えて頂きました。
御念仏の重要性も説いて頂きました。

詳しく教えて頂いたことを書きたいのですが長くなるので一つだけ。自分の努力では分かるものでは無いと言うことです。これこれしたら、あれをしたら、こうなったら、と言うのは間違いだということです。また分別して理解するものではなく、無分別の世界だと言うことです。う~ん、やはり分かりにくいでしょうがこうしか書けませんね。

今回、参加者は退会者がほとんどで高森顕徹会の間違いを確認する意味では非常に有り難いご縁でした。

次回はいつになるか分かりませんが、また行いたいと思います。
皆さん、ご参加ありがとうございました。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ようこそ、ようこそ

つぶやきです。

最近いろんな方の生き方について考えています。成功している人、底辺で働いている人、様々な職業、考え方、生き方、趣味・・・。

そして、外国で迫害を受けなければならない人生を強いられている人たち。

その中で何が正しくて何が間違いなのか分からなくなります。

芸術家は自分の中から出る衝動に突き動かされて生きています。犯罪者は迷いを深めてどんどん転げ落ちていきます。一般の人は我慢しながら生きるために働いています。

そこで何が分かるのか。

人生苦なりは当たり前ですが、そんな一言で片付けられない様々な思いが私の中で渦巻きます。まるで台風のようにあらゆる考えや妄想が渦巻いて私を悩ませます。

親鸞会で未だに頑張っている人はそのまま親鸞会会員で死んでいく人も多いかもしれません。今更他に行っても何も変わらないと思い込んでいるのかもしれません。

中にはこれが本当だと思い込んで生きている人もいるでしょう。

私は有り難い事にその世界から別の世界に出させていただきました。

 

そして、私は私の世界で限られた人たちとのご縁を結びながら、流れにまかせながら生きています。今更新しい世界で生きて行こうとも思いませんが、他の道もあるのかもしれません。

輪廻転生はたぶんするでしょうが過去のことは知りませんし、未来のことはなおさら何も分かりません。ただ、生まれてきて自分が幸せを感じられるものに引きつけられ、そうして生きてきただけです。

だから、これから先もどうなるのかさっぱりですが、間違いなく他の人がどう思おうと自分が幸せと感じられる生き方を選択するでしょう。

ところがその私に何故か仏教とのご縁があり、そこに引きつけられ離れられずにこだわりながら、これが本当だと本物を知る智慧もないくせに勝手に思い込んで(思いこまされているのかもしれません)、そこで説かれる幸せを目指して生きています。

それも南無阿弥陀仏というあり得ないような教えを本気で信じています。

本当にここに幸福があるのか、いや、今幸福なのか、ハッキリ言って南無阿弥陀仏で満足なのか、私の心を探してみたらさっぱり分かりません。

しかし、何とも言えない圧倒的な力に、南無阿弥陀仏を否定できない自分がいます。

 

では、もう少し突っ込んで、お前の後生は大丈夫か?

さっぱり分かりません。死にたくありません。

でも、死んでいくことは頭では理解しています。

そして、私の人生はそれしかないことも。

では、その先どうなるか分からないのだから、そんなことより、今、どうしたいのか。

 

ただ、南無阿弥陀仏の教えを深めていきたいだけと思う一方で自分の幸せ、世間的な幸福をたらふく欲しいと思っています。

それを、南無阿弥陀仏を利用して死ぬまで生きて行けたらそれで良い、そんな心しかありません。

御念仏は私に理解できるものではありませんが、圧倒的な力で私を突き動かします。私をとらえて離さない力があります。そして称える気のない私の口を押し開けて南無阿弥陀仏を称えさせられます。

 

仏教との出会い、これが無かったら私の人生は本当に満足したものになっただろうか。

釈尊がお出になられたこの世に生まれることがあって、釈尊のみ教え、そして親鸞聖人のみ教えに遇わせていただいて良かったです。

ようこそ、ようこそ

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

朝の連続ドラマ

朝の連続ドラマと言えば、全世界的に有名になったNHKの「おしん」があります。

おしん」が流行っていたときは全く見ていません。
何度も再放送がされていたように記憶しています。
その後ようやく見るようになったドラマは本当に最近なのです。
一番感動してしまったのが「てっぱん」です。
広島のお好み焼き屋のお話です。
何に感動したかほとんど忘れてしまっていますが、とにかく出演者が皆菩薩様のように慈悲深いのです。
あり得ない設定が多かったのですがドラマとはそういうものなのでしょう。
今は「ひよっこ」が9月までやる予定です。
このドラマはちょうど団塊の世代のドラマです。戦後復興から高度成長期にかけて日本が飛躍していく時代は見ていて面白いです。視聴率も結構高いようです。


それにしても、なぜこんな朝ドラに自分の心が反応しているのか、「お前、暇だろ。」と内なる声が聞こえますがやはり見てしまいます。
実話であれフィクションであれ、しばらくの間別の世界に浸ることが出来る点に於いては映画と同じかもしれません。
それでも「ひよっこ」は見ていて楽しいので許します。


しかし個人的感想で「しょうもない」テレビ番組は沢山あります。
最近は見ていませんが「サンデーモーニング」という番組もそう思います。
あの番組を見ているとせっかくの日曜日が朝から気分悪くなってしまいます。
いろいろ問題があるのでこれ以上書きませんが、テレビを見ているときの人間の脳はほとんど停止しているそうです。クイズ番組でも同じだそうです。
テレビを見て喜んでいても怒っていても同じとはちょっと不思議です。
北品川病院院長 築山節医師は、テレビをだらだら見るのとネットサーフィンは同じように「脳が働いていない」と言います。
これは昔流行った「一億総白痴化」(社会評論家の故・大宅壮一さんの言葉)を証明していると思います。「テレビばかり見ていると、人間の想像力や思想力が低下してしまう」という意味ですがその通りです。
ラジオは良いそうです。特に落語などは想像力を働かせるのでラジオを聞きながら仕事をするのは良さそうです。
まあ、それでも本当に大事なことを考えるときは雑音となるかもしれませんね。


それではご法話はどうでしょうか。
聞いていると嫌になってきて止めてしまうことがありませんか。
もういいやと思ってしまったり、だいたい分かったと思っていませんか。
自分がそうだから人も同じと思っているのではないかと思われるかもしれませんが、他の人と話をしていても内心はそう思ってしまう自分があることに気がつかせられます。
嫌いなんですね。
仏教の話は。
自分と向き合いたくないのが本音かもしれません。どこどこまでも自分勝手な聞き方しか出来ないのかもしれません。


「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」と云々


現代語訳「わずか一句の御教化、一言の御言葉を聴聞するにも、とかく人はただ自分に都合のよいように聞くものである。それゆえ、いちずによく聞き、聞いて心に受け取ったままを申し述べて、仲間と互いに話し合うべきである」(蓮如上人御一代記聞書)

この条と同じ内容のことが119条にあります。

 

「前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人のご兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合せよ、必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」の由、仰せられ候。」

 

こういうことです。自分勝手に聞いてしまうのでお同行とお話しすることが大事ですよと言われています。
テレビの朝ドラは喜んでみるのに、仏法は本当に聞くのが大変ですね。
良い意味での談合をお同行とするべきでしょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

社会学者

nornsaffectioさんからコメントを頂き不適切な表現が多々あると思いましたので修正します。おかげで社会学をもう一度調べ直す機会を頂きました。

それでもやはり宮台真司氏は好きになれませんね。

簡単に言えば言葉にリアリティーが感じられないのです。

本当にカルトや性やサブカル以外の世界で働く人たちを観察したのか疑ってしまう。

宿業の一言で片付けたくは無いのですが、残念です。

nornsaffectioさん、ありがとう。

追加 調べたサイト

二村ヒトシ氏との対談 宮ボット あさくらさんのサイト(note) voboさんのサイト

bookメーター 僕はいかにして宮台真司に感染したか yamatake'S psychology site

福音の村(対談) などなど

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社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問である。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問である。

 

分かりにくいかもしれませんが個人的に興味のある社会学者と呼ばれる人が二人います。一人は宮台真司氏でもう一人は鈴木涼美氏です。

 

宮台真司氏は1990年代、オーム真理教やブルセラなどの社会現象についていろいろテレビでコメントしていたことを何となく覚えています。

また、彼に影響されて自殺する若者がいました当時多発しました。

簡単に言えば生きる目的など無いと言い、まったりと生きれば良いと言っていたように記憶しています。

 

鈴木涼美氏は中学生時代に宮台真司氏の影響を受け、ブルセラ女子高生からAV女優になり、その後東大大学院を卒業し新聞社に勤めますがAV女優だったことがバレ会社を辞めます。

本人はバレたから会社を辞めたのでは無いと言っていますが・・・・。

 

社会学者は倫理や規範、あるいは常識などについて頭から否定する傾向がありますしてかかります。

宗教に関しても簡単な言葉でカテゴライズしようとします。

 

個人的な感想ですが、自分が宗教に関わることによって失われるであろう地位や財産を怖れているのが何となく分かります。

それでいて出歯亀根性丸出しのことを書き連ねています

 

鈴木涼美氏の母親は娘の行為を死ぬまで許さなかったそうです。

父親は有名な哲学者であり母親は翻訳者でした。

不出来な娘を悲しんだことが想像出来ます。

 

だからといって二人の社会学者の生き方が間違いとか言うつもりはありません。あくまで個人的な感想ですが、ただ、あまりにも宗教や道徳というのに対して無価値とまでは言わないにしても社会を破壊したい思いを感じられるから個人的にこの人達は社会にとって悪影響な人だと思っています。

本人達にその自覚は全く無いと思いますが、社会のモラルを破っていく行為は今までの歴史を見ればいろんな問題を複雑化する材料でしかないと思います。

純化された価値基準の上に生きているときは表に出なかった問題があらわになることにより人々の生活に不安材料が増えていくのではないかと思っています。

 

 

しかし彼らからすれば宗教などは非常識の塊であり、信じるに足るものでは無いのでしょう。また、そこまで宗教を知ろうとも思っていないでしょう。

また、彼らからすれば宗教はあくまで学問の対象であり、信仰の対象とはしないのでしょう。

まして釈尊の説かれた八正道の世界や十善戒の世界など知識としては入っていても、その本当の所を知ろうとして修行をされることはまずありません。知るよしも無いと思います。

これも個人的な感想ですが彼らのような人間が出てくることが煩悩穢の世界に突入したのかとも思います。

 

彼らの発言を読むに付けお釈迦様のお言葉に磨きがかかります。彼らは私の持っている闇をそのまま表に出しているのかもしれません。本人達は因果の道理や阿弥陀様の御本願とは本当に遠いところにいる人たちだなと思わずにおれません。

不幸な人たちと思うのは間違いでしょうか。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

勉強会のご案内

皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。

今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。

演題は「正信偈」についてです。

 場所はいつもの愛知県です。
 日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
 時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
 ご縁があれば是非ご参加ください。

 詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
 折り返しお知らせいたします。
 私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
 個人情報を漏らすようなことはいたしません。

よろしくお願いします。

 

まかせるとは

阿弥陀様におまかせと言われてもどうしたらよいかさっぱり分かりません。

かといって自力かなわで流転せりとなるのも嫌です。

でも、やっぱり分からない、どうしたら・・・、このどうしたらが何ともなりません。

 

ひとつの譬えです。

あくまで譬えなので100%ではありませんが、譬えの奥を考えてもらいたいです。

まかせるとは、たとえば以下のようなものです。

 

船で航海中に海に投げ出されて始めて泳いだ人がどうしていいか分からずに海の中でもがき続けています。

時間が来れば間違いなくおぼれて死んでしまいます。

ところがどこからか「身体の力を抜け」と何度も声がかかります。

誰かは分かりませんが、何度も何度も声がかかります。

それでも「おぼれてしまう、沈んでしまう、嫌だ、嫌だ」ともがき、さらに苦しくなってきます。.

「死んじゃう、死んじゃう、嫌だ、嫌だ。」

それでもどこからか「力を抜け、海に身をまかせよ」と何度も何度も声がかかります。

「海に身をまかせたら沈んでしまう、嫌だ、嫌だ、嫌だ~!!」

それでもどこからか「まかせよ、まかせよ、間違いないからまかせよ」と声が届きます。

「もう、駄目だ、もう、駄目だ、もう、死んじゃう」

 

そして、なぜかしらふっと身をまかせたら、最初は沈んでいきますが、後でぽっかり浮かんで自分の目の前に青空が広がっています。

沈むそのままが、浮かぶのです。

沈むは自性、ところが沈ませてなるものかと海が貴方を支えているのです。

 

何を例えているのか分かると思います。

南無阿弥陀仏はそのまま来いなのです。落ちるそのまま来いなのです。

信心決定など出来る出来ないは問題ではない。

阿弥陀様の思いを、呼び声を聞くか聞かないかの方が問題です。

阿弥陀様の思いは、呼び声は、「お前は落ちる奴だぞ、だからまかせよ、心配するな」と南無阿弥陀仏になって叫び通しなのです。

南無阿弥陀仏が呼び声なのです。

それをそっくりそのまま聞くことが一番大事なのです。

 

まかせる、そのまま、落ちるそのままです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏