とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

宗教法人法

宗教法人法という法律があります。

所管は文部科学省又は文化庁ですが、高森顕徹会の所管は富山県庁です。

また、宗教法人は登記簿に登記する必要が有りますので高森顕徹会の登記簿は富山市にある法務局に行けば、宗教法人法に基づく代表役員や責任役員が分かります。

その際、財産目録や宗法などの重要事項なども決められていますのである程度の高森顕徹会の組織が理解できます。

また、高森顕徹会の本部に備え付けてありますので利害関係人なら閲覧する権利があります。

 

真生会富山病院は医療法人ですのでさらに別組織として登記されているため組織を調べようとしたら申請は厚生労働省の所管ですが地域の病院扱いになりますから、これも富山県庁が所管です。

 

宗教法人も医療法人も毎年、決算報告をしなければなりませんので公認会計士による監査等しなければなりません。また、決算資料を所管する県庁に届け出をし審査を受けなければなりません。これも同様に閲覧する権利は利害関係人にありますが、まず高森顕徹会の事務にまともに申請しても拒否されるでしょうが、いくらでも開示させる方法はあります。

また、従業員の扱いについても明記することになっていますので、社会保障が必要な場合は労働基準監督署の検査対象になります。

 聞くところによると専任講師は委任契約ですので委任内容が終了すれば契約解除となり無職となります。

以前は給料を支払っていましたので雇用契約していたのでしょうが、確か平成12、3年頃(間違っていたら済みません)に高森会長と同じように専任講師も一人一人で頑張るといった時点で皆首切って放り出されたはずです。

ですので会のなかに居るときは先生と呼ばれますが、一歩社会に出ると何の保証もありませんので車一つ買うのも大変です。身分は季節労働者とほとんど同等といっていいと思います。

ですからマンション購入など不可能に近いでしょう。

ということは専任講師は皆国民年金だけで雇用による社会保険等の年金はありませんので将来はさぞかし不安なことと思います。

たた、一部の幹部講師には高額な報酬を支払っていますので、辞める気にはならないでしょう。

 

また、高森顕徹会は一般的な宗教法人にある総代会等が決められていませんので、専任講師や会員には何の権限も無くただ搾取されるだけの存在となります。

その辺りのことをいち早く知った専任講師は既に別の道を探っているのでしょうね。

だから高森氏のお孫さんたちは一人残らす専任講師などにはならずに一般的な社会人になっています。

長男の子供さんたちは皆病院の事務員です。以前、真生会の理事長は高森さんの長女だったはずです。

 専任講師のお子さんたちも専任講師になったとは聞いたことがありません。子供の将来を考えたら本当は自分達が一番分かっているのでしょうが、分かったときには自分の将来は手遅れな状態だったんでしょう。

 

さて組織の重要事項は責任役員達で勝手に決めることができます。例えば財産処分や宗法の改正などです。

宗教法人法上は最低限、代表役員を含む三人で組織を運営できますので、現在は代表役員は高森顕徹氏、責任役員が高森光晴氏、もう一人が高森玲子氏、他に2、3人位に変わっていると思います。

組織の黎明期は深松氏と菊地氏が責任役員だったでしょうが高森顕徹氏の意見を通すために役員の3分の2以上を家族にしていると思います。

そして専任講師が委任契約になった頃から次から次にしょうもない計画を立ち上げます。

これは委任契約内容が毎回同じだと専任講師が継続的雇用と見なされ労働基準監督署から指摘される可能性があるため契約内容を変更していると思われます。

下手をすると小堀弁護士も責任役員の中の一人に取り込まれてがんじがらめになっているかもしれません。高森顕徹会がおかしいと思っても辞めるに辞められない状態なのかもしれません。組織の維持を目的に高森会長の言われるまま、あらゆる手を使っていますが、飼い殺しにされているような気がします。弁護士としてオーム心理教の青山弁護士のように成らないことを祈ります。

 

最近の高森顕徹会の状況を見ますと内にこもって首を引っ込めた亀のようです。内々でおかしなことをやり続けているわけですが、高森顕徹会のおかしな行動を止めさせ、会員の後生を守るためには法律的な動きをしないと変えることは難しいでしょうかね。

 

親鸞会被害者の会を結成して集団訴訟するとかもあります。個人的にはやる気は有りませんが、民事なら十分やっていけると思いますがどうでしょうか。

 

また、嶋田さんが専任講師が誰も立ち上がらないことを嘆いていましたが、専任講師が立ち上がって組合運動でも始めると良いんですけど。例えば、雇用契約がおかしいとか。

大体、専任講師になる誓約書なんて社会的に全く通用しない私文書なんですから、無視したって何ら法律的な違反行為ではないんですが、専任講師にはハードルが高いのかもしれませんね。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

洗脳

「洗脳」という本を読みました。

X-japanのToshiがホームオブハートのMasayaこと倉渕透と守谷香に徹底的にマインドコントロールされた経緯が淡々と書かれています。
彼らは10数億円のお金を騙し取り、未だにヒーリングの音楽を売っています。
守谷香はToshi を騙してお金を取るために夫婦にまでなっています。
実質的にはMasaya の愛人でToshi から奪ったお金で豪華な生活をしているのです。
Toshi のような純粋な人は簡単に洗脳されます。
まさか、自分の妻が騙すとは思ってもみなかったでしょう。

一方でなぜ守谷香がそんな人間になったのか。
Masaya はいつから人を騙すようになったのか、
そこのところは良く分かっていません。どこかでセミナーを受けたと言っていますが何処でマインドコントロールのスキルを手に入れたのか詳細は不明です。

翻って高森顕徹会長は何処で洗脳技術を手にしたのか。
知り合いに言わせると持って生まれたものだと言います。
個人的には戦争時代の経験が大きいと思います。
暴力(暴言と恐怖)と恩賞(選民意識とユートピア思想)によって正しいことをしていると植え付けていくのです。
一年も経てば立派な洗脳者の出来上がりです。
専任講師が良い例です。
後は搾取するだけです。

また、騙されても後悔がなければ問題はないと安易に言うことは出来ません。
法然上人にすかされても後悔がないと言われた親鸞人とは全く異なる状況なのですが、これも安易に高森顕徹会では使いますので注意が必要です。
何が違うかと言えば、親鸞聖人は法然上人のお陰で阿弥陀さまの救いにあずかっているからです。
高森顕徹会の人はほとんど誰も阿弥陀さまの救いにあずかっていないからです。幸せになれると言われながらどんどん貧乏になっていくのです。
おなじ言葉でも詐欺師が使えば騙しの道具になります。
宿縁とは言え真実の教えに出逢うのは本当に大変なことと思います。

最近、夕顔さんのブログ(夕顔の日記)がとても面白いです。
指摘されている専任講師たちの姿が思い浮かびます。
夕顔さんのブログを読んで思うのは幹部講師のほとんどは確信犯だということです。
信心決定なんてどうでもいい、それより会の中での地位が一番大事だと思っているようです。
まして会員の後生など。

純粋な会員や末端の講師たちは命令通りに動く駒です。
彼らはほとんど救われることなく死んでいきます。
自力かなわで流転せりです。
白骨のお文のとおり哀れと言うも愚かなりです。
一人でも多くの人が阿弥陀さまの今の救いに気がつかれることを願ってやみません。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

臨終間際にお念仏を称えたら本当に往生できるのか?

みそみそさんからご質問を頂きました。

 

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みそみそ

以前、瓜生崇さんの法話を聞いて 下下凡の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できると聞きました 今際の際に南無阿弥陀仏と唱えるだけでホントに浄土に往生できるものなのでしょうか?
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みそみそさんが苦しまれていることはよく分かります。
どうしてもハッキリしない。信じ切れない。信心頂いた感じがしない・・・。
ならば、臨終に念仏を称えれば何とかなるのかと思うのも無理ないことです。
「下品下生の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できる」は観無量寿経に説かれていますので間違いないことです。
しかし、いつ臨終になるか分かりませんし、臨終の時頭がハッキリしているとも限りません。
 
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
 
ここでは、阿弥陀様の光にあったものは有無の見から離れることになると言われています。言い換えれば、お浄土がある、無い、の考えをはなれると言うことです。
あろうが無かろうが問題では無いところにお浄土があると大峰顕先生も言われています。
 
個人的には、そうかもしれないな~くらいです。
この間風邪を引いた夜、鼻が詰まって息苦しくなって目が覚めたとき、このまま息が出来なければ死んでいくのかと思ったら行き先が真っ暗でどうしようかと思いました。阿弥陀様はどこにおられるのか一生懸命探しましたが、ああ、お念仏かと思い出したぐらいです。
私には何も無いのだとあらためて思いました。
「そんなんで本当に信心決定していると言えるのか」とおしかりの声が聞こえてきます。
済みません、こんな程度で。
死にたくない、苦しいのは嫌だと思いました。
しかし、このまま死んで行くだけなんだと受け入れざるを得ない自分がいました。
結局、苦しいのは嫌なので死ぬならぽっくり死にたいと思ったのですが、これも煩悩かもしれません。
死は生と裏腹で常に表裏一体、生死一如です。
「そんなこと知っている」と言われるでしょうが、やはり私は忘れっぱなしです。
まして、お浄土など考えも及びません。
 
江戸時代、臨済宗に仙厓義梵和尚という高僧がいらっしゃいました。
亡くなる間際に檀信徒や弟子たちから、辞世の言葉を求められたので、すると仙和尚は「死にとうない」という一言だったのです。
名僧の最期の言葉がこれでは困ると思い、弟子たちがもう一度うながすと、やはり「死にとうない」という言葉が返ってきます。
あわてた弟子たちが、「いえ、ご冗談ではなく、どうか本当のお言葉を......」と、さらにしつこく念を押すと、仙和尚は、繰り返し「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言ったという逸話が残されております。
 
これが本当に死にたくないと恐怖で言っているのか、それとも、分かった上で言っているのかは分かりませんが、死の縁無量です。どんな死に方をするか分かりませんが、個人的感想ですが自分の行き先を分かった上で言われていると私は思います。
嶋田さんは「思い残すことは無い」と言われて亡くなっていきました。
それでも臨終はどうだったのか分かりません。
その時は死にたくないと思われたかもしれません。
行き先とは別に、死苦は逃れられない苦しみの一つなのです。
 
死に際して、自分がどうなるかなんて全く分かりません。自分の意思で生まれてきたという自覚はありません。まして、いつ死ぬかも分かりません。
だからこそ阿弥陀様が今私に呼びかけておられるのです。
自分には信じる心も、念じる心も、求める心さえ無いのです。
その私が何の御因縁かお念仏を称えさせていただいています。
お念仏は捕まえようと思っても捕まえることは出来ません。
なにせお浄土から届いているのですから。
お念仏にお任せしたら、そのままお浄土行き決定、正定聚不退の身となります。
お浄土行きの一番近道はお念仏です。
お任せするしか有りませんね。
 
 
 
 
 
 
 

皆既月食

一月三十一日、ライブで皆既月食を見ました。

次は三年後と言われていますが、天候によるので見ることができるかどうか分かりません。

今生最後の月かもしれません。

こんなにまじまじと月を見たのは初めてかもしれませんが、きれいな月でした。

とても大きくまるで落ちてくるのではないかと思いました。

寒かったので足踏みしながら見ていましたが、あまりの寒さに最後は部屋の中でライブ映像をみていました。

一説によるとスーパームーンブルームーン、ブラッドムーンの三つが重なったため百年後とか二百数十年年後にしか見られないそうです。

 

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月

詠み人知らず

 

今この瞬間に見る月、

今見ている月が今の月なのです。

味わい深い歌だと思います。

 

現代はテレビやラジオ、それにスマホなどがあり、ゆっくり月を見ると言うことはあまりないのかもしれませんが、月見はなんだか気持ちが和らぎます。

昔の人も月を見て楽しんでいたのでしょう。

月を見ながら何を思うのか、私はろくな事は思っていませんが不思議な気持ちにはなります。

なんだか月を見ながら日本酒をゆっくり飲みたくなるものです。

 

そういう日もあって良いのかなと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

嶋田久義元講師を偲んで

今月9日に嶋田久義さんが亡くなりました。大変残念に思います。

役割を終えてお浄土へ帰って行かれました。

最後は「何も思い残すことは無い」と言われたそうです。

この世に生まれたからには必ず死なねばならないのが定めです。

だからこそ何のために生まれてきたのか、何をすべきなのか非常に大事なこととなります。

私の知り合いがガンの手術を終えて復帰し、暫くして一緒に食事をしたときに「人生に思い残すことはないか」と聞かれたときがありました。

すでに阿弥陀様のご縁に遇わせていただいていたので「何も無い」と言い切ってしまって、「しまった」と思ったことがあります。

仏法者同士なら問題ないですが、世間一般の人との会話ではちょっと相手との関係を悪くしてしまう可能性があります。

それでもうまく会話がつながっているときなら良いのですが、唐突にこの言葉を聞くと迷ってしまう人がほとんどかもしれません。

その後、しばらくしてその知り合いは亡くなり私の「しまった」を挽回することは出来ませんでした。

 

高森顕徹会に所属しているときに「今生、何も思い残すことはない」と聞いたらそれこそ尊敬と共にその理由を聞きたくなります。

嶋田さんの場合は、親鸞会の人をターゲットに「私の白道」、「あなたの白道」によって多くの人を阿弥陀様へ導かれました。

私もその中の一人です。本当に「私の白道」を読まなかったらと思うと怖ろしく思います。大変な恩人です。

今も読んではいるが仏法を求める気にならない方や、今だ会を離れることが出来ない人が沢山おられることと思います。

一人でも多くの方が早く阿弥陀さまのもとに向かわれることを願ってやみません。

 

後生の一大事の解決を済まされた上での嶋田さんは、いつも自信一杯でした。

増井悟朗師を本当に尊敬され、浄土真宗の教義をいつも勉強されていました。私にもいろんな本や先生を教えてくださいました。

最後、病床でも分厚い六字釈の本を読んでおられたと聞きました。

 

一方で、高森顕徹会以外の方はどのように阿弥陀様とのご縁を結んでいるのか、それこそ千差万別です。個人的に思うのは阿弥陀様のなされるやりかたはそれこそ億差兆別で、私に理解できる方法とは限りません。むしろ「えーっ!!」と思う方法の方が多いかもしれません。

私は残念なことに高森顕徹会を経由しないと阿弥陀様とお遭いできない宿業を持っていたのでしょうが、世の中にはきっと沢山の方がいろいろな形で阿弥陀様とのご縁を結んでおられることでしょう。

そのことは西本願寺の出版している「大乗」などに沢山紹介されています。

 

それにつけても今の高森顕徹会長は、浄土真宗の教義からかけ離れたことばかり行っています。それに気付かれ一人でも多くの人を導いた嶋田さんの行動力には頭が下がります。これも嶋田さんの宿業かもしれません。

最初に「私の白道」を書いたとき、「誰かに殺されるかもしれない」と思ったそうです。それでも書かなければと思って書き上げたと聞きました。

 

求道中、身体の調子が悪い中、身体を引きずってご法座に参加された姿は一緒にいた人が見ていても悲壮だったそうです。そのかたは「今日、この人は死ぬな」と思ったくらいだったと言われていました。

実際、その日に迷いの根切れをされたと聞きました。

 

嶋田さんが、阿弥陀様に引きずられ「助けずにはおかない、必ず助ける」の御念力に押し出されたお陰で、南無阿弥陀仏が今の私まで届いているのです。

後生の解決は一人一人とは言われますが、先に行った者が後の者を導くように、大声で行くべき道を教えてくださいました。

 

西本願寺の中央仏教学院に学んで僧侶になることを夢見ておられたのに、それが実現せずに終わったことは少し残念に思いますが、後に続く者に沢山ご縁を与えたのは僧侶にならなくても非常に大きな仕事をされたと思います。

それこそ、思い残すことがない人生を生きられたと思います。

とにかく浄土真宗の今の時代のあだ花、高森顕徹会から一刻も早く抜け出して、阿弥陀様に遇っていただきたい、それが嶋田さんの願いでもあります。

 

今度は何処の世界でお会いすることが出来るか分かりませんが、嶋田さん、またお会いしましょう。ありがとうございました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

YOUは、この世に何しに来た?

新しい年を迎えることが出来ました。

このブログも3年を過ぎ、我ながらよく続いていると思っています。

いつ止めるかわかりませんが、皆様、また暫くおつきあいください。

 

最近よく思うことで、内なる声といいますか「お前は、この世に何しに来た?」と聞こえてきます。

自分は何をしにこの世の中に生まれてきたのか、正月を何度も何度も繰り返して楽しく飲んで騒いで皆の健康を祈りながら、それでも時間は確実に流れ、時は移ろっていきます。

子供の頃いた叔父さんや叔母さんはどんどん亡くなっていきます。

一方で新しい命が生まれています。

自分も歳を重ねどんどん老化していきます。止めることは出来ません。

小野小町じゃないけれど花の色が移り変わっていくように人生も移り変わっていくのが定めであり事実です。

今という瞬間しかなく、過ぎ去った過去を繰り返すことは出来ません。

 

とにかく生まれてきてしまったのですから生きるしかないのですが、生きている間にいろいろ考えるようになってきます。

成長と共に周りを見ながら成功や幸福をどうしたら得られるのかそれだけを一生懸命考えるようになります。

自分の煩悩を満足させるためにと考えるのですが、どもうそれで満足出来るとは思えないと思ってしまう自分と向き合うことになります。

本当にこの人生、皆がしているような生き方で良いのか、悩んでしまいます。

悩まない人の方が本当は多いのかもしれませんが、私は壊れない幸福というものを求めてしまいました。

 

子供の頃は大人になれば完成された人間になると思っていました。

心の平安、何ものにも動じないそんな心をもった人間になれると思っていました。

その心を手に入れれば強くたくましく生きられるのではないか。

今考えてみると、何ものにも動じない心は死んでいるか、それとも悟っているかのどちらかでしょう。

とにかくそう思わされるのも宿縁なのでしょうね。

出家する人であれ在家でいる人であれこの世が苦しい世界だと思った時点で、仏というか何か普遍的な力によって気づかされているのかもしれません。

無常を無常とも思わない生活の繰り返しで、やはり無常を感じずにはおられないように仕向けられている世界が人間界なのでしょう。

 

この世の中に真実と呼べるものがあるのか、無いのか、そんなことを考えても仕方が無いのですが、考えずにおられないそういう自分はおかしいのではないのか、などなどいろんな人が人生に悩んでいらっしゃるのは事実です。

私はあまり好きではないですが椎名林檎の歌の歌詞は、そのことを強く感じさせます。

そして、それでも真実と呼べる教えを探そうとするのは目に見えない力が働いているからとしか思えないのです。

 

阿弥陀様は、光明無量、寿命無量の働きによって私を救おうとされています。

光明と寿命の無量の働きを「阿弥陀」と名付けられたと言われます。

たまたま、その働きに「阿弥陀」と名前を付けただけかもしれません。

なぜ「阿弥陀」なのか、その音にどんな意味があるのか、アミターバあるいはアミターユスというサンスクリット語の音にどんなことが隠されているのか。

アミターバ、アミターユスは光明無量、寿命無量の意味があるそうですが、その意味ではなく「音」にどんな力が隠されているのか、なぜアミターバなのか不思議としか言いようがありません。

別にアミターバではなく、バババーとかドドドーとかガーンとかそういう音でも良かったのになぜアミターバという音なのか分かりませんが、お釈迦様がそう言われたのですからアミターバ、アミターユスが「阿弥陀」さまでありそれが事実です。

そしてその「阿弥陀」という仏に二つの力があると教えてくださいます。

 

そのひとつ、「光明」は光です。光はものを明るく照らし出し、そのものの姿を明らかにします。

言い方を変えれば分からないものを正しく見えさせると言えます。

もう一つ、「寿命」は続くと言うことです。

ずっと続くと言うことは、果てしがないということで、働き続けるということです。

切れ目無く働き続くということにより私に何かを知らせようとされる力があると言うことです。

この二つのお力により私が南無阿弥陀仏と出会うことが出来るのです。

また、仮に自然の力を「阿弥陀」としたならば、この宇宙全体が「阿弥陀」と言えないこともありません。

この宇宙は光が至る所にあり、また、永遠に続いています。

ひょっとかするとこの世界を動かしている元、永遠を司っている力が「阿弥陀」かもしれないと思うことがあります。

 

また、その「阿弥陀」の力が南無阿弥陀仏の六字の御名号となって私を呼んでいます。

そうお釈迦様が教えてくださったから南無阿弥陀仏を知ることが出来たのですが、しかし、一方でこの南無阿弥陀仏に今遇わせて頂いている人と、そうで無い人がいるのが事実です。ただ、この事実は実は私の頭で考えた事実であって本当かどうかはまた、闇の中です。

これまでの人生経験から出会いがあった場合と無かった場合の経験を元に判断しているだけです。

 

今の私にはこの南無阿弥陀仏があって良かったとしか思えないのですが、お釈迦様は私の能力を見通してこの南無阿弥陀仏があることを教えてくださったのかもしれません。

これしか、南無阿弥陀仏にしか私に「真実」と向き合わせる力は無いと判断されたのでしょう。

そして、あらゆる出会いや経験によって、それを何度も何度も、何生も何生も繰り返し、待って、待って、待ち続けておられるのが阿弥陀様なのかもしれません。

やっと南無阿弥陀仏と出会うことが出来たと思っていても、先手の阿弥陀様のお力が無ければ出会うことが無かったことでしょう。

この出会いが「真実」との出会いなのかどうなのかさえ私の力で判断できないのにも関わらずです。

 

 

YOUは、(お前は)この世に何しに来た?

 

 

 

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あなたの白道(更新)

お知らせです。

あなたの白道 の本が出来たそうです。

全部読んでいませんがブログとは多少内容が変わっているようです。

欲しいかたは あなたの白道 のサイトにある嶋田さんのメールアドレスに連絡してください。

よろしくお願いします。

 

追記

一冊800円、送料込みで1000円です。

内容は、ブログのあなたの白道とは異なります。

基本的に仏教と浄土真宗の正しい教えを書かれています。

興味のある方は是非読まれると良いと思います。

正しい真宗の教えはこういうものだったのだとあらためて思います。

 

連絡先は以下の通りです。

住所  〒 918-8134
        
福井県 福井市 下莇生田町 27-1-32 


                  嶋田 久義
メール アドレス
                s.yukimi_33123(アットマーク)docomo.ne.jp 

 

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