とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

善導大師の二河譬について

 善導大師の二河譬について個人的な感想です。

善導様がどうして二河譬を著されたのか。

当時の仏教は当たり前ですが、聖道門、それも天台の智顗が亡くなって暫くして善導様が生まれられています。

つまり、善導様が生まれたときはバリバリの聖道門の世界です。

ちょっと後には印度まで行った玄奘三蔵様もいらっしゃるのです。

そんな中、道綽善師を訪ね浄土門にはいります。それまであちこちを遍歴していたようです。

また、善導様はご存じの通り布団を敷いて寝たことがないくらい経典の研究などをされています。

その中で浄土門を唱えた善導様は聖道門と今の浄土門の中間を行くような存在だったのではないかと思うのです。

念仏行を行いながら三昧の行も行う。

また、善導様のご教化がすさまじく、法然上人と同じように一般ピープルにもお念仏を勧め、中には善導大師の教えのすばらしさのあまり自殺するものまで現れました。

どうしてそうなったのかはよく分かりませんが史実として残っています。

阿弥陀仏を体得せられ思い残すことは無いと自殺されたという話も聞いたことがあります。

ですから聖道諸衆から非難もされたことでしょう。

それでも長安の都にお念仏が響き渡っていたと言われますから相当広まっていたのでしょう。

余談ですが映画「少林寺」の中でも修行しながらお念仏を称えるシーンがありますからお念仏は中国でも一般的なのかもしれません。

そんな中、善導様は人々を導くために譬えを持ってお示し下されたのが二河譬ではないのかと思います。

お念仏に救われたなら死んではいけない、あっという間の人生、そのままお念仏を称えながら人生を全うせよと。

信心の行者はお念仏を唱えながら生きよと。

また、聖道諸衆に対しては、二河譬の真意をくみ取ってくれと願われたのではないか。

阿弥陀仏は諸々の仏様の内のお一人という考えが当たり前の時代です。

たぶん、善導様の時代でもある程度の悟りを開かれた方は沢山いらっしゃったと思います。

そういう方を誹るでも無く、根機の劣ったものを救う為の教えを広めるための二河譬ではなかったのではないでしょうか。

そう思うといろいろなとらえ方が出来ると思いますが、善導様の御本心は専修念仏しかありません。

そして、そこは三定死を通して阿弥陀様にまかせよと自他力廃立をお示し下さったとしか思えないのです。

そこを読み取ってくれと私には聞こえます。

 

あくまで、私の勝手な味わいです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

覚悟の力(本当の行)

「覚悟の力」

宮本祖豊師が書かれた「覚悟の力」という本を読みました。

  宮本祖豊師 十二年籠山行満行者 比叡山延暦寺円龍院住職、比叡山寺居士林所長

22歳より比叡山で修行を始め、その後30歳近くで好相行(仏を見るための行)を行います。
三千の仏様の名前を称え五体投地を行い讃談することを仏様が見えるまで行を行う。
普通は3ヶ月で満行になると言われるところ、2回のドクターストップを経て三回目にして阿弥陀如来と見(まみ)えます。
光り輝く阿弥陀如来が目を開けても、閉じても自分の前に生きてましますのです。
それまで3年の時間が過ぎています。

これを読んだとき、既に大乗の教えを通り越しているのではないかと思いました。
韋提希夫人と同じじゃないか。
目の前に阿弥陀如来が現れたのです。

この行は一日15時間ほどかかるそうです。そして、行の間は眠ってはいけないそうです。とにかく行を行い続けるのです。
阿弥陀様の御本願に説かれている第19願の行はこういう行なのかもしれません。命がけの行です。

それから籠山行と言われる12年にわたる行を行います。
詳しくは書けませんが最澄師のお世話をするのです。比叡山では最澄師は今も魂というか精神というか、心が今も生きて比叡山におられると考えられています。
浄土院というお堂に籠もり一切の世俗とのつながりを絶ち、命がけで行います。
それを13年間行います。本来12年で満行なのですが後継者が現れないと、いつまでも続けることになります。
当たり前ですが365日、一切休みはありません。
倒れたときが休むときです。
目的は、ひたすら自分の精神レベルを向上させるためにです。
千日回峰行は籠山行から生まれた行の一つだそうです。
興味がある人は是非読んでみてください。


我が身のお粗末なこと、穴があったら入りたいくらいです。

とにかくすさまじい修行です。
修行の間、色々な不思議を感得します。
何キロか先の音が聞こえたりもします。
色々な幻覚も沢山現れてきます。
オーム真理教などなまっちょろい修行です。
本当の行とはこういうものなのだと驚きました。
本人は命がけで今の瞬間を生きています。
そして、行を行って一切の後悔は無いと言い切ります。
行を行い自分が宇宙と一体になる体験もします。
ありとあらゆる体験をしながら、少しも悟りに近づいたとは思っていない、とにかく死ぬまで修行といわれ喜々とされています。
今時、このような方がおられたのかと思います。

そして、自分が何が出来るのか今も考えておられます。
人のために何が出来るのかと。
さらに、自分という者は何なのかを問い続けているのです。

親鸞聖人始め先達方はこれらの行を当たり前のように行ってこられたのでしょう。
それでも悟りを得ることが出来なかったのはどういうことなのか。
考えるにもっともっと深いところの自分と対峙しておられたのでしょう。
だから、愚痴の法然坊とか愚禿親鸞とかの言葉が何も違和感なく出てこられたのだと思います。
とても聖人方のお心を知ることは出来ません。
あらためて先達方のご修行を知りたいと思いました。

一方、私は何を知ったのか。
あほか、間抜け、何にも分かっていない。
人間界の事もさっぱり分かりません。
無智蒙昧と言っていいでしょう。

浄土真宗という教えは本当に凡夫のための教えであり、それ以外では絶対に救われない私の為の教えですね。

今の瞬間も行をされている方が比叡山におられることを思うとすごいことです。
阿弥陀如来の本願、19願とはこういう行を言うのであって、高森顕徹会でいう19願とは全く異なります。
知らないとは言え仏教の教えをもてあそぶカルトな団体と言えます。
残念なことです。

今、現に南無阿弥陀仏が私に届いてきて頂きありがとうございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

枠を壊す

枠を壊すとよく言われます。
意味は自分の考え方や物(者)の見方、あるいは行動を変えてみることです。

朝起きて必ずすることの一つを変えることでも大変です。
たとえば、朝、顔を洗って、朝食を食べた後、歯磨きをするとします。
その順番を変えてみたり、散歩を加えてみたりすることです。
そんな些細なことでさえなかなか変えることが出来ません。
一度染みついた習慣はその人の人格の一部でもあります。
無くて七癖と言われるように人にはそれぞれの行動においての個性があります。

まして、行動だけで無く考えていることや考え方を変えるとなるとこれは本当に大変だと思います。

人には自己保身の本能があります。
責められると必ず防御態勢に入ります。
最近は子供の頃から周りに気を遣って生きて行かなければなりません。
KY(空気読めない)などどレッテルを貼られたら大変です。
そんなレッテルを貼られると子供なら死にたくなるでしょう。
だから周りから責められないように気を遣ってほとんどの人が生きています。

人口のほとんどが農業に従事していた時代なら多少性格や行動が変わっていようが関係ありません。
しかし、現代の環境で大人になるには、心臓を鍛えるか、うまく立ち回るか、目立たないようにするかを選択していかなければなりません。
そうやって自分を守るために自分に枠を造っていきます。

ですから、行動や考え方の枠を壊すのは本当はとんでもなく難しいことなのだと思います。

個人的な話ですが、私も自分のある枠(考え)を壊すことがなかなか出来ませんでした。
今でも難しいなあと思っています。
あるとき、親から言われた言葉にズーッと捕らわれて、それが原因で腰痛が起きたことがありました。
結構長く腰痛が続き仕事にも支障が出るほどでした。
ところが、ある本を読んで目から鱗が落ちる気がしたことがありました。
ある本とは「ドクターサーノのヒーリングバックペイン」という本です。
簡単に言えば、腰痛の原因は骨の異常では無いということが中心に書かれている本です。
興味がある方は読んで見てください。
腰痛の原因は骨の異常だと思っていたが、骨の異常では無い、痛みを学習する脳が原因なんだと書かれた本を読んで、
その時、初めて「腰痛の原因は骨ではなく、ストレスが原因だったんだ」ということに気付かされたのです。
一般的に腰痛は骨の異常が原因と言われます。
しかし、腰痛の原因がストレスから来るなどとは思ってもいなかったのです。
そういう意味でも私は、腰痛の原因は人類が二足歩行をしたときからついてまわる運命であると思い込んでいました。
腰痛について自分で枠を作っていたのです。
ところがそうではないと書かれていたのです。

親からなんとかしてくれと頼まれ、なんとかしようとしました。
当たり前なのですが、他人から言われたことなら無視できますが、親から言われたこととなると無い知恵絞って何とかしようとします。
何ともならないことを親から言われたのです。それを何とかしようとしていましたが、やはり何ともならないことは何ともならない。
駄目なものは駄目なんですね。
他人から見たら、さっさと諦めれば良いのにと思うようなことでも、親から言われたことは必死で守ろうとしていた自分に気がついたとき、
自分で自分に枠を作っていたなと思いました。それがストレスの原因となり、腰痛を引き起こしていました。
その枠が外れたとき、腰痛が無くなりました。

まあ、私の場合の話ですので皆さんはもっと簡単にいろんな問題をクリアーしているかもしれません。
しかし、自分でいったん作った枠は、枠と意識せずに生きているため、その枠に縛られてがんじがらめになっている人が多いような気もします。

最近読んだのですが、夫婦二人で自転車に乗って世界一周をしたブログがあります。「二人四輪」というブログです。
読んでいると一緒に世界を一周している気になります。
とても楽しい記事なのですが、行く先々でいろいろなトラブルに巻き込まれながらも世界一周を成しどけます。
すごいことだなと思うのですが、かれらが世界一周をして「ものの見方が広がった」と言われています。
他にも沢山、チャリダー(自転車旅行者)のブログがあるのですが、同様に「ものの見方が広がった」と言われている人がいます。
これは「枠を壊す」と同じだなと思いました。

また、「ものの見方が広がった」と言うのは言葉にすれば簡単な意味でしょうが、一種の目覚めでもあるなと思いました。
どの程度広がっているか分かりませんが、やはり深い言葉だなと思います。

「枠を壊す」のは本当に難しいことです。
しかし、仏教の教え、南無阿弥陀仏は根底から私の考え、枠をぶち壊してくれます。
どえらいものに出会わせて頂いたものです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

映画「マトリックス」と「アントマン」

マトリックス」と「アントマン」という映画があります。

マトリックスという映画は、1999年の映画です。

知る人ぞ知る有名な映画です。

内容は簡単に説明しますと、人間はコンピューターに支配され発電機として人工的に養殖されています。人間の生体エネルギーが発電をし世界を維持しています。

一人一人繭状のカプセルの液体の中で培養されて生かされています。

そして、意識を操作してバーチャルな世界(簡単に言えばテレビの世界)に生きています。

しかし、そのバーチャルな世界の違和感に気付く事により本当の自分の姿に気がつきます。気付いたとき、目が覚めたときバーチャルな世界では生きていけなくなってしまいます。

目が覚めた人は、もう元の世界に戻れない。

そして、コンピューターと戦います。

今の自分は本当の自分なのか、本当の自分はどこにいるのか。

本当の自分は今の自分とは違う。

まるで仏教の空(くう)に目覚めた人のように思います。

迷っていることに気付き自分の世界が異なって見えてきます。

 

 「アントマン」は2015年の映画で、身体が大きくなったり小さくなったりすることが出来る映画です。

小さくなってアリを操りいろいろな問題を解決していきます。

その中で、ある女性のアントウーマンが小さくなり続けることになります。

どんどん小さくなっていく、それも際限なく。

これは果てが無い世界です。

これ以上小さくなることが出来ない世界があるのか、無いのか、物理学の問題ですが答えはありません。

反対に宇宙には果てがありません。

小さい世界に果てが無く大きい世界に果てが無い。

 

さて、我々の生きている世界はどういう世界なんでしょう。

三次元に時間軸を加えて4次元の世界に住んでいますが、時間をさかのぼることは出来ません。そして、常に変化しています。

その世界において物質はどういうものなんでしょうか。

物質の根源は分かっていません。

当然、命についても分かっていません。

一つ分かっているのは、私は生まれて必ず死んで行くことです。

そして、お釈迦様のお言葉どおりとすれば、次の世界に生まれていくと言うことです。

 

今の自分の生きている世界は、どういう世界なのか全く分かりません。

この世のことは何も分からないと言うことに気付いたとき、なんと不安定な世界に生きているのかが分かります。

そして、すべての現象が映画のように流れ去っていきます。

不思議な感じがすることがないでしょうか。

果てしの無い世界に生き、今の自分の満足の為に生きた先には何があるのか。

考えてみるととんでもない世界に生まれてきたなと思うのは自分だけでしょうか。

仏様から見たこの世界はどのような世界なのか。

すべてはつながって縁起によって変化し続けていると言われます。

生死一如、生も死も無いとも言われますが、さっぱり分かりません。

 

映画の原作者や脚本家はどれだけ考えているか分かりませんが、自分が生きている世界の分からないことを題材にしていることが結構あると思います。

本人達は意識していないでしょうが、仏様が働いておられるのではないかと思うこともあります。

 

お釈迦様がお生まれになられなかったら、六道を始め悟りや阿弥陀様のことも分からずじまいだったのでしょうね。不思議不思議の他は無し。

 

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信心決定は、下の心(阿頼耶識)が「ハイ」と聞くことなのか。

園児さんからコメントを頂きました。それについて考えてみました。

・・・・(高森顕徹)会長が講演で人形の絵を書いて頭に丸を書いて「上の心」として、お腹の中に丸を書いて「下の心」としたものです。
「上の心」は人間の頭脳で、「下の心」は「逆謗の屍」である本心(阿頼耶識?)であると。
「上の心」である頭ではわかってもこの「下の心」が仏教を聞こうとせず、信心決定が
出来ないというのです。
聴聞の聴は「上の心」が聴くこと、聞は「下の心」が聞くことという説明もありました。
聴聞を重ねていくといつか「下の心」が「ハイ」と聞く瞬間が生涯に一度あってそれが
信心決定の瞬間であるという説明でした。
・・・・・信前にある「〇〇が分かりません」「〇〇と思えません」という心が「ハイ」と返事して分かるようになるものでしょうか?
それとも「〇〇が分かりません」というままで(つまりは「ハイ」という瞬間がなく)救われるのでしょうか?・・・・・

 

まず、最近の高森顕徹会では上の心と下の心と人間の心理を分けて考える話は聞いたことがありません。
園児さんが言われるように30年前は、そのように言われていました。
阿頼耶識がうんともすんとも言わない、これが「ハイ」と聞くのが信心決定と何度も言われていました。
頭で分かっても腹底が納得しなければ駄目だというような言い方もされていました。
また、地獄一定と落ちきったところで阿弥陀仏の呼び声が聞こえるとも言われていました。
ですので古い会員ほど、そう成らなければ救われないと思い込んでいる人が多いと思います。

では、上の心と下の心は何か。
これはご存じの通り唯識から来ています。

唯識は難しいとよくいわれていましたが、唯識の前に倶舎論(因縁果について論じている)を勉強してから唯識を勉強するそうです。倶舎八年、唯識三年と言われるそうです。
安田理深先生は「唯識真宗と二つあるのではない。唯識唯識真宗真宗というものではない」と言われたそうです。
少しずれますが、曽我量深先生は「法蔵菩薩とは阿頼耶識なり」と言われています。
曽我先生は、ちょっと変わっていて異安心扱いをされ、大谷大学を辞めています。


唯識が日本に伝わった元は、中国の三蔵玄奘が、この唯識の原典を読みたいが為に国禁を犯して印度へ行かれ、経典を持ち帰ってきたのが日本に伝わって法相宗となりました。

唯識では、上の心は第六識(五感を通して考えたり感じたりする心)、五蘊により反応する心と言われます。
第七識に末那識がありますが、これは我執の心と言われます。常に自分にこだわる心で煩悩の根本と言われます。三毒の煩悩がこれにあたります。
そして第八識に阿頼耶識があります。この識はすべての業の種子(しゅうじ)をため込んでいるだけで、特にここから何かが出てくるわけではなく縁に催されて新たな業を造っていく為のところです。密教ではさらに第九識(阿摩羅(あまら)識)を加えます。


小乗仏教では、この阿頼耶識が大円鏡智になると言われています。大きな鏡のようにすべてをありのままに映し出す、見たままを見たままに受け取ることが出来る、そういう心に変わると言われています。
末那識は、平等性智となりすべてのもを分け隔てなく見る事が出来るようになります。
意識は、妙観察智となり全てはバラバラに存在していると観察する意識が、全ては根本でつながりながら、仮に分けられる形で、一定期間存在しているのだと観察できる智慧に変わります。
前五識は、成所作智となり全てはバラバラであるという前提で、そのときその場の行動をしてしまう前五識が、水が高い所から低い所に流れるように、そのときその場に最もふさわしいことができるようになる智慧に変わります。
これを四智と言います。
また、この道を行くのが菩薩道でもありますが、菩薩道を歩めないもの、凡夫の為の教えが大乗仏教(念仏道)であります。

親鸞聖人が化身土巻に
「・・・観経の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、善くみづから己が能を思量せよ」となり、知るべし。
にありますように、念仏道しか凡夫にはありません。

仏道は基本的に聞法・称名によります。 

この阿頼耶識は聞法・称名によって薫習はされます。薫習とは香りが付くということですが、それが劇的に変わる訳ではありません。
何故なら無始から有ると言えば有る種子(しゅうじ)は、無量です。

そこに仏様との縁の種子が積まれてどう変わるか分かりませんし、そもそもちょっとやそっとの縁で何か変わるとも思えません。

しかし、この考えも正しいとは限りません。

何故なら修行をすれば覚りを開くことが出来るとお釈迦様がおっしゃっておられるのです。
阿頼耶識は菩薩道を歩む菩薩が悟れば、大円鏡智に変わりますが、凡夫がどれだけ聞法・称名に励んだところで阿頼耶識が変化するとは何処にも書かれていません。

 

高森顕徹会長の出身母体である華光会の創始者、伊藤興善師も「安心調べ」で曽我量深師や金子大栄師のことが書かれていますが、唯識真宗に持ち込んだぐらいにしか書かれていません。
どうも当時は真宗唯識の統合がはやっていたのでしょう。
そもそも七高僧の天親(世親)菩薩のお兄さん、無着菩薩が浄土門に天親菩薩を引き入れたのが元々の原因のようです。天親菩薩は、浄土門に入る前に倶舎論の大家だったわけですから。

 

個人的な感想ですが、阿頼耶識は変わらないと教えていただけるのが聞法ではないかと思います。何も変わらず、自分には何も無い、ただ、縁に従って業を造っているだけではないかと。

しかし、仏教は運命論(宿命論)ではありません。
我が意思(たとえ仏様に動かされているとしても)により、選択、行動は出来るのです。
称えたくなくてもお念仏を称えようとする、仏法を聞きたくなくても仏法を聞こうとする、これは、信前、信後変わらず阿弥陀様から頂いた意思だと思っています。

 

では、信心決定とは何が「ハイ」と聞くのか。
正直、分かりません。当然、阿頼耶識を認識できていませんので変わったのか、変わってないのか分かりません。安心論題にもそのことは書かれていません。
ただ、自分でもなんともならない自分がいるのはなんとなく認識しています。
迷いはすべて我執の末那識からくるといわれ、無明の元が末那識といわれますが、これは死ぬまで変わりません。
無明は無明のまま、迷ったままです。
つまり、悟れば末那識も変わるはずですが、そもそも菩薩道を歩んでいない、死ぬまで凡夫が変わらないということは、末那識も変わらないということです。
まして、意識を含め前五識変わったという自覚もありません。
迷いの凡夫は、迷いの凡夫のままです。
そのことを教えて頂いただけです。

 

それともう一つ大事なことは、南無阿弥陀仏しか無いということを教えて頂きました。
「いままで、申し訳なかったなー」と思いました。

また、「ハイ」と聞いた瞬間があるのかどうかですが、これは一念といわれ、時刻の極促といわれるのです。切られたことさえ分からないくらいの短い時間なのです。

高森顕徹会ではあっという間に切られると言われ、切られたことがハッキリするような言い方をしていましたが、いろんな方のお話を聞くと必ずしもそうでないことがわかります。

「○○が分かりません」は、分からんまま救われます。

「○○が分かる」そんな智慧は私にはありません。
ただ、「あ-、なんか、分かったなー」とか「そうだったんだ」とか、そういう自覚は出てきます。
ですので嶋田元講師のように明らかに分かる人(参照:私の白道)もいるでしょうが、そんな人は少ないと思います。いつ救われたか分からないうちに、「あー、救われていた」と気付く人が多いと思います。

いわゆる気づき、目覚めはあると思います。
これも個人的な感想ですが、それまでは「どーしたら」ご信心が頂けるのかと思っていたのが、「あー、無理」「私は落ちるだけ」と納得しましたので、「どーしたら」がいらなくなりました。
この「どーしたら」は、考えるに末那識から出ているのでしょうが、「どーしたら」を「駄目でした」に変えて頂いたような気がします。
ご信心という確かなものをつかみにいったのですが、つかめるようなものではなかったという感じです。これもほかの誰でもない阿弥陀様とのご縁なんでしょうね。

 

あまり良い答えになっていませんが、今の自分のところはこんな感じです。

 

追伸:xyzさまからコメント頂きました。また、お返事します。

落ち機を知る、お慈悲を知る

落ち機を知る、お慈悲を知るとは、真宗独特の言い方です。
二種深信の言い換えですが、分かりやすく言い換えたものと言えます。

まず、落ち機を知るの方です。
別の言い方では、自力無功を知ることであります。
また、自他力廃立のことでもあります。
つまり、仏の覚りを開くために自分の能力で仏に成ることは出来ないことを自覚することです。あるいは、自分の力で後生の解決出来ると思っていたが、大きな間違いであった、すべて阿弥陀仏のお陰だったと全分他力になることです。

・・・そんなこと自覚していると思われる方もいるかもしれませんが、この自覚については仏様から教えて頂くことで自覚出来ることですので、「知った、覚えた」の自覚との違いがあります・・・

聖道門において仏の覚りを開くためには、八正道をしなければなりません。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの実践的行動のことで、この行によって涅槃の位に入ることが出来ます。
当然ですが、聖道門系の宗教ではそれを目指しているのです。
聖道門の一番代表である比叡山では、八正道はじめ、常行堂で念仏三昧の行を行ったりしています。
また、ご存じの通り千日回峰行も行っています。
勿論、聖道系の方がすべてその行を行っているわけではありませんが、我が身の能力を考えたとき、とても出来るものではありません。

一方、浄土系の仏教、特に浄土真宗については聞法を勧めます。
仏に成ることを目指すのは同じですが、聞法により阿弥陀仏という仏様に帰依(帰命)することを目指します。
阿弥陀仏という仏に帰依することによって、今生は無理ですが死後必ず仏に成る身にさせていただくのです。
これを「後生の一大事の解決」や「信心決定」と言われたりします。

そこで阿弥陀仏の本願のいわれを聞法します。
蓮如上人は「後生の一大事」とか「信心決定」と言われました、このことを聞法によって解決していきます。
ところが後生の一大事(信前は、死後、地獄に落ちること)、信心決定がある、その解決は「聞く一つ」の言葉に誘われ聞法に励むのですが、その、「聞く一つ」がなかなか出来ません。

「聞く一つ」で後生の一大事が解決出来ると言われましたが、全く分かりません。

仏教の聞き始めは、自分が悪いことをしているとは思っていません。
ほとんどの人が自分の事を善人としか思っていないでしょう。
少し仏教が分かってくると、悪いかもしれないが聞法しているのだから死後、そんなに悪いところには行かないかもしれないと思います。
ところが自分の後生を考えると不安になりどうも落ち着きません。
忘れていても忘れられない。
困ったことになります。
また、聞法していれば何とかなると思う心はこびりついて離れません。
そうこうしていると何が何だか良く分からなくなります。
仏に成りたいなんて思わないし、そんなことどうでも良くて、今のこの苦しみ(何だかよく分からない漠然とした不安)を取ってくれとしか思いません。

そして、何が分からないかと言うと落ち機が分かりません。
自力無功が分かりません。
自他力廃立が出来ません。
自分が分かりません。
阿弥陀様に楯突いている自分が分かりません。
お慈悲を無下にしている自分が分かりません。
仏様を拒否している自分が分かりません。
仏教を信じていない自分が分かりません。
自分が地獄行きと思えません。
罪悪深重とも思えません。
今死ぬとは思えません。
これらの事に気付かされたとき、あるいは、何が何だか分からないことに気付かされたとき、駄目な自分に向き合うことになります。
ところが、これらのことは何度も何度も聞かせて頂いていいるのですが、分からない時は全く分かりません。

一体、何が分からないのか分からなくなってしまいます。

罪悪感や無常感をとりつめるのも一つの方法ですが、自分に合う人はやられたら良いでしょう。しかし、あまり自分を責めて辛くなるようなら止めた方が良いと思います。
さらに「身調べ」という方法もありました。最近はあまり言わないようですが「内観法」という方法で落ち機とお慈悲を知るやり方です。
具体的には、自分の生まれてから今までの出来事を一つ一つ確認していく方法で、段階的に行う方法と聞いたことがあります。

一方、「落ち機を知る」、これを仏教を説く人が、
「お前には力が無い」
「何をやっても駄目だ」
「罪悪の塊だ」
「地獄行きだ」
「だから、知識の言うことを真受けに聞け」
となると、機責め、マインドコントロールまっしぐらになってしまいます。

「お前には力が無い」
「何をやっても駄目だ」
「罪悪の塊だ」
「地獄行きだ」
これらの言葉には、主語を説明する言葉があります。
「仏の覚りを開くためにする修行」、「生きていることは命の犠牲の上に立っていること」、などがそうです。
その事をどれだけ聞かせていただいていても「ふーん」と言う位にしか思わない「その自分」に気付けと言われているのが、「落ち機を知る」ということだと思います。
人によって、深い、浅いはありますが、ここは二種深信の「機の深信」にあたり大事なところです。

他にもいろんな言い方はありますが、結局「自力無功」のことを知らせるためにいろんな言い方を昔からされています。
分かっているようで分かっていないのが自分のことであり、それが我が身の立ち位置です。
どこに自分が立っているのか、冷静に考えたら結構危ないところにいるのが分かります。
しかし、そんなこと全く関係なく、蛙の面にションベン状態で毎日生きています。
それが、そのまま、自力無功の姿です。
何一つ捨てることが出来ない自分、すべてを我が物にしたいと思っている自分と出会った時、無力感に襲われます。
その私が「落ちるそのまま」なのです。

ちょっと個人的感想も入っていますが、私はそう思います。

次にお慈悲を知るですが、あちこちのブログで阿弥陀様を讃談されていますのでここでは簡単に説明します。

ここでのお慈悲は、阿弥陀仏の慈悲の事です。
阿弥陀仏が地獄で苦しんでいる私を救う為に南無阿弥陀仏という名号を造られ、それをそっくりそのまま、私に回向してくださっていることです。
六道を何度も何度も経巡っている私に迷いの打ち止めをさせてやると誓われたのが、法蔵菩薩の願心であります。

南無阿弥陀仏の中にすべて封じ込めた、我が名を称えよ」と私に呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。
そして、阿弥陀仏は私を助けるためにあらゆる手立てを駆使して、南無阿弥陀仏を回向してくださっているのです。

簡単に言えば、人間に生まれさせ、南無阿弥陀仏を称えさせることです。
その力によって、現在私が南無阿弥陀仏を称える身にさせていただいています。

その事の一部でも、「そうだった」と知らされることがお慈悲を知ると言うことです。
これも人によって深い、浅いはありますが二種深信の「法の深信」にあたり大事なところです。

落ち機を知る、あるいはお慈悲を知るのどちらからでも後生の問題は解決出来ますが、共に知らされるものであり二種深信であります。

 

現在、ただ今、落ちるそのままです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

オウム真理教 教祖と弟子の死刑

 2018年7月6日と26日に、ご存じのようにオウム真理教の教祖、麻原彰晃 他 弟子12人の死刑が執り行われました。

 過去にこれほどの死刑が執り行われたことを私は知りません。

 オウム真理教については、地下鉄サリン事件で覚えている人が多いと思います。

 ヨガの修行をして覚りを開くことを目的としながら、結果的には麻原彰晃の欲望から出た目的を達成することが弟子達の目的となっていました。

 まさしく一盲衆盲を率いて火口に堕つを地で行く団体でした。

 当初は純粋にヨガを通して、覚りを求めていたようですが団体が大きくなるにつれ歪んでいきました。

 結果的には、カルト宗教と呼ばれる団体となりはてました。

 麻原彰晃については、私が高校生の時、近くの本屋にぴょんぴょんしている写真が表紙の本が沢山並んでいました。

 ぺらぺらめくって読んだ記憶があります。

 何が書かれていたか忘れてしまいましたが、当時、個人的に沖正弘師の著書、「実践瞑想ヨガ入門」に基づきヨガをしていたので、麻原彰晃の本を「ふーん」という感じで読んでいたことを覚えています。

 たぶん、不思議体験的なことが書かれていたと思いますが、既に自己流ですがそれなりに不思議体験をしていましたので麻原彰晃の本にあまり興味はありませんでした。

 しかし、何も知らなければ引っかかっかたかもしれません。

 死刑になった弟子の中川智正は、オウム真理教から心は離れていたと聞きますが、残念ながらこの世は自分の犯した罪は償わなければなりません。

 社会的制裁を受けなければなりません。

 彼もオウム真理教に出会わなければ立派な医者になっていたかもしれません。

 また、お釈迦様の時代ならば懺悔することにより許されたかもしれません。

 すべては後の祭りです。

 高森顕徹会の会員は、高森会長の言われるがままに偽装勧誘や人集め、金集めを行っていますが、オウム真理教ほどの犯罪は犯さない団体だったことは不幸中の幸いと言えると思います。

 しかし、必ず自分の行った行為の結果は受けなければなりません。

 それは、今生だけでなく来世にも間違いなく引き継いで行きます。

 そして、我が身の後生を考えたとき、身震いすることがあります。

 高森会長を初め、専任講師から末端の会員に至るまで、我が身のなした業から逃げることは出来ません。

 

 個人的には、地獄(何処に行くか分からないがとても極楽に生けるようなものでない)に落ちるのが定めと知らされ、それを受け止めるしかないことも知らされました。

 阿弥陀さまを我が物にしようとしていたのが、大きな間違いと知らされました。既に阿弥陀さまは先手だったのです。

 落ちるしかない私を落ちるそのままで救うと誓われていたのですから。

 

 今思うと、よくぞあの高森顕徹会から抜け出させて頂いたものと、遠く宿縁を慶ばずにおれません。

 劣化した高森会長の結論の無い話を何十年も聞かされ、半ば今生での後生の解決は諦めていながら、他に行っても真実は無いとマインドコントロールされていましたから。

 

 だから、未だ会員として高森顕徹会に在籍している人の話を聞くたびに非常に残念な気持ちになります。

 知識帰命でいることに安心しているのか、高森顕徹会以外を知らないのか、知ろうとしないのか、いずれにしてもその人の宿業、宿縁としか言いようがないのですが、その言葉で片付けることが出来ないくらい複雑な気がします。

 ある現役会員が退会者に愚痴を言っているという話を聞きました。

 だったら退会すれば良いのに退会出来ずにいる人がいるということは、その人にとって後生の一大事の解決はどれくらいの問題なんだろうと疑問に思ってしまいます。

 この一大事、解決出来なかったらどうなるのか。

 本当に分かっているのか。

 たとえ死刑にならなくても、一瞬先は間違いなく闇の中です。

 分かっていなくても、教えられたことが本当だとすればなんとかしようとするものです。私は高森顕徹会で教えられた後生の一大事の解決を知ってなんとか解決したいと思って生きてきました。

 そして、高森顕徹会では後生の一大事の解決が出来ないことがハッキリしたから、高森顕徹会を退会したのです。

 だから、そのことを問題にせず一体何のために高森顕徹会にいるのか、そう思ってしまいます。

 

 あー、現在、ただ今、落ちるそのままの南無阿弥陀仏、それしか無いんです。

 こんなに簡単なことだったのかと思うのですが・・・。

 そういう意味でも、この教えは極難信ですね。

 

 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏