とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

好きと嫌いの感情

我々人間には普通に好きと嫌いの感情が備わっています。

これについて能科学的には能の中心近くにある扁桃体というところで瞬間的に判断するそうです。

好き、嫌い以外にも普通とか何も感じないとかの感情もあります。

人を好きになるのも嫌いになるのもほぼ瞬間的でそこには理由は後付けになるそうです。

実際、好きになったり嫌いになったりするのに理由を説明せよと言われてもよく分かりません。

私は子供の頃からデメキンが好きなのですが、理由はゆったりしているところとか鈍くさそうな所とか黒いところとか言うことは出来ますが、本当にそれが理由なのかよく分かりません。

デメキンは初めて見たときから好きでした。

好きなものは好きなのです。そして、嫌いなものは嫌いなのです。

全く理不尽なものです。

ですから平気で人を好きになったり嫌いになるので、男女間や人間関係では問題になります。

 

これを宗教に置き換えてみるとどうでしょうか。

仏教は好きだがキリスト教は嫌いだ。

一方で、そもそも宗教なんて大嫌いな人も多いと思います。

なぜ、そう思うのか。

宗教は一般的に人を救う教えで救われることもあると思うのですが、如何でしょうか。

あまりにも胡散臭い宗教にも沢山の人が熱心に活動しています。

 

では、仏教の中ではどうでしょう。

禅宗は如何ですか。

法華経を主体とした天台宗はどうでしょう。

浄土系でも浄土宗なら如何でしょうか。

 

いやいや、私は教えの内容に疑問があってキリスト教は好きでは無かった、と言われても、そもそもキリスト教を知るきっかけがあったと思うのです。

そのきっかけは、誰かの本であったり、話であったり、色々だと思うのですが、どうしても好きになれないと思う瞬間があるのではないでしょうか。

確かに理屈が会わないなどの理由はあると思いますが、浄土真宗もある意味非常に理論的ではあるものの一方で全く理屈を超えて南無阿弥陀仏と向き合う教えなのですから、私の感情で浄土真宗を選んでいるのではないかと思うのです。

 

 浄土真宗にたまたまご縁があり、それにひっかかったから今、浄土真宗に傾倒していますが、そもそも浄土真宗に傾倒する理由があったでしょうか。

あるいは人を介して浄土真宗に入った人も多いと思います。

きれいな先輩やかっこいい先輩の自信満々の言葉に惹かれて浄土真宗に惹かれたのかもしれませんが、浄土真宗のお念仏に惹かれなければ拒絶して他の宗教に行っているでしょう。

また、子供の頃から慣れ親しんだ教えだからと言う人もいるかもしれませんが、子供でも南無阿弥陀仏に対して嫌いな人や無関心な人もいるはずです。

 

瞬間的に本能的に判断して今浄土真宗を信じているです。

理屈は後から付けているのです。

ですから嫌いになるというか、興味が無くなるのも瞬間的、本能的であり、ご法話から離れていく人の感情は計り知れないと思うのです。

どれだけ引き戻そうとしても不可能なことだと思います。

 

この、瞬間的、本能的という言葉に阿弥陀様の御念力と底知れない煩悩の両方を感じますね。

 

皆さんは如何でしょうか。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)

三教指帰とは、空海さん(弘法大師、大師様)が仏教に帰依する理由を書かれたものです。

 

wikiより・・・

序文から、延暦16年12月1日(797年12月23日)に成立していることがわかる。

空海が24歳の著作であり、出家を反対する親族に対する出家宣言の書とされている。

ただし、この時の題名は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)であり、空海自筆とされるものが現在も金剛峯寺に伝えられて国宝に指定されている。

その後、天長年間に同書を序文と十韻詩の改訂して朝廷に献上した際に書名を『三教指帰』に改めたと考えられている。

 

密教学者の阿部龍一は『聾瞽指帰』の改訂には50代になった空海の心境の変化や仏教思想の深化(特に「真言」への理解)を反映させるとともに、社会的地位の変化に伴って『聾瞽指帰』の特に序文に記された当時の律令国家においては反社会的な性格を有する儒教批判・文章経国主義批判を抑制したものになっている。

(阿部は周囲との対立を乗り越えて仏教を最上のものとして体制の統治イデオロギーであった儒教を捨ててその外側に出る決意を文章にした『聾瞽指帰』の執筆時と、体制の内側において密教の朝廷への導入を進めている中で体制の統治イデオロギーであった儒教との相互協力を打ち出す必要があった校訂及び『三教指帰』への改題時の違いと評する)

そして、朝廷に献上された『三教指帰』が宮廷で広く読まれたことが『続日本後紀』承和2年3月25日条に記された空海の薨伝(こうでん:高官あるいは高僧の死亡記事の際の当該人物の伝記)から分かる。

また、任官試験の1つである対策においても三教の関係について問われる場合も多く、『三教指帰』を読むことは当時の貴族社会においては実用的な意味も有していた。

流麗な四六駢儷体(しろくべんれいたい:主に四字・六字の句を基本として対句を用いる華美な文体)で書かれている。

蛭牙公子(しつがこうし)、兎角公(とかくこう)、亀毛(きもう)先生、虚亡隠士(きょぶいんじ)、仮名乞児(かめいこつじ)の五名による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となっている。

亀毛先生は儒教を支持しているが、虚亡隠士の支持する道教によって批判される。

最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教道教・仏教の三教の中で最善であることが示されている。

弁証法的な手法によって、仏教が論理的に称揚されている。

日本における最初の比較思想論であり、思想の主体的実存的な選択を展開した著作である。

・・・・

浄土真宗本願寺派総合研究所においても紹介されています。

以下のURLには現代語訳もありますので興味のある方は読んで見てください。

 

今回は何が言いたいかというと空海さんは最澄さんと同年代の方なのですが、同じ大乗仏教を目指しながらも即身成仏にこだわった密教がどういうものなのか、あらためて確認したかったのですが、やはり密教はよく分からないですね。

ただ、仏教が本当であると強調されていることは「三教指帰」を読むとよく分かります。

密教での悟りに至るには十住心論を進む必要があります。

また、無相の三密にいたる必要があると言われています。

しかし、どうも曼荼羅を見て、仏を思い浮かべろなんて観経じゃないんだから出来るわけ無いのにと今の私は思ってしまいますが、奈良時代の当時はそうでは無かったのでしょうね。

とにかく24歳の若さでこの文章を戯曲風に書いていること自体も驚きます。

儒教道教より仏教が優れていると言うことは、当時それなりに両方の教えが社会に浸透していたのでしょうね。

 

個人的な感想ですが、儒教道教は仏教と比較できるようなものではありません。

孔子老子の思想は、所詮この世の中から出ていません。

それでも今生を生き易くするため、また、権力者にとっては都合の良い所があります。

流れに任せて生きろとか、父母に仕えよなどと道徳的な部分も多くあります。

中国は思想的に世界を支配するためだろうと思いますが、孔子学院を世界中に只(ただ)で作っています。

日本にも桜美林大学を始めいくつかの私立大学にあります。

 

今を一生懸命生きるには儒教道教は役立つかもしれませんが、それで満足出来るのでしょうかね。疑問です。

 

空海さんに戻りますが、空海さんを調べれば調べるほど天才なんですね。

沢山の書物を書かれていますが、有名な言葉があります。

 

「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」(秘蔵宝論)

 

今の私にとっては、「なるほど、当たり前ですね」と思えるのですが、以前の自分だったら何が何だかさっぱり分からなかったでしょう。

この言葉を始め、空海さんはとことん悟りにこだわり、即身成仏されたと言われ、いまでも高野山には大師様が生きてそこにいらっしゃると言われています。

ですから毎日お食事の世話をされているとのこと。大変ですね。

 

そう知らされるにつけ、我が身はなんと気楽な人生を歩ませて頂いているものか。

お念仏一つで生かせて頂いているのです。

阿弥陀様の呼び声を聞かせていただくだけで気安い人生を歩ませていただけるのです。

高野山での修行も必要ありません。

密教が何を説かれているのか知らなくても全く問題ないのです。

 

「現在、ただ今、落ちるそのままの私を救う。必ず救う。我をタノメ、我が名を称えよ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

簡単な事なのですが、そこに自分が立たせていただけるかどうかは、阿弥陀様にお任せしたかどうかです。それだけなんですが、それが本当に難しい。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

勉強会の感想

今回の勉強会の参加者はそんなに多くは無かったのですが、宮田さんのご法話が初めてだった方がいらっしゃってとても有意義な勉強会になりました。
午前の座談会も富山の和上のご法話を味わうことが出来本当に楽しかったです。
我が身を丸ごと救う阿弥陀様のお慈悲をしっかり聞かせていただきました。
午後は宮田さんの飄々とした語りのご法話がとても有り難かったです。
御文章の聖人一流の章を詳しく聞かせていただきました。

また、座談会(質疑応答)では疑いについての突っ込んだ質疑が非常に良かったです。
法話の録音データが欲しい方は私までメールしてください。
ダウンロードサイトにアップします。

ところで個人的に非常に驚いたことがありました。
同じ会場で高森顕徹会の支部会合があり、昔の法友にばったり遭遇してしまいました。
こちらは本当に懐かしく「元気にしてる?」という調子で声をかけたのですが、
反対に「今も高森会長を非難しているのだろう。」と返されてしまいました。
正直、高森会長なんてどうでも良いのだけどと思いましたが、そんなことしていませんよと答え、今日はご法話会をしていることを伝えたのですが、結局「なぜ生きる」の映画のチラシを渡されました。
せっかくなので見に行ってみようかなと思いましたが、平日で仕事がありますのでたぶん無理でしょう。

しかし、十年ぶり位に会ったのにまるで敵を見るような目つきで話してきたときには、さすがに驚きました。

一般的な人としての対応が全く出来ないのです。
この人達は相変わらず「高森顕徹会長を絶対的に信奉しているのだ」と思いましたし、

高森顕徹会長を裏切って退会した者には近づいてはならないと本気で思っているのでしょう。

そして、全く余裕の無い顔をしていましたのでなんだか悲しい気持ちになりました。
人間の迷いの深さを見せつけられ本当になんともならないのかなとも思いました。

この先どうなるかわかりませんが阿弥陀様のお慈悲にふれてもらいたい、気付いてもらいたいとしか思えませんでした。
また、次に会う機会があったら良いのにとも思いましたし、私とよほどのご縁なんだなとも。
一歩間違えれば私も同じところにいたのかと思うと怖ろしくなります。

「噫、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」(教行信証・総序)

高森顕徹会でも よく引き合いに出されたお言葉ですが、本当にこのお言葉の通りだなと思わずにおれません。

彼らの後生の解決が一日も早く出来るよう祈っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

恥ずかしいなあ~

「恥ずかしいなあ~」と思うことがたまにあります。

電車に乗っているときとか、車を運転しているとき、レストランにいるとき、皆と話しているとき、などなど。

どうしてそう思うのか。

いい年をしていい加減そんなことどうでも良いのにと思いますが、やはり少しでも良く思われたいのでしょう。

五欲のうちの一つ、名誉欲でしょう。

親鸞聖人は「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(教行信証 信巻)言われています。

 

全く同感ですが、親鸞聖人と私では、沈没しているレベルが計り知れないほど私の方が深いと思います。

とても人様にお話しできるようなものではありません。

 

仏教を知る前はどうだったでしょうか。

 正直、穴があったら入りたいくらいアホでした。

仏教を知った後ではどうでしょう。

 正直、穴から出たく有りません。

 全く変わらずアホです。

 

仏教を知ったところで何も変わらない自分がそこにいます。

浄土真宗でご信心を目指す前と後との違いは、後の方がひどいかもしれません。

開き直っているというか、どうにでもしてくださいという状態です。

ですから造悪無碍にならないよう気を付ける必要があります。

 

そうは言っても私という人間はなにも変わりません。

反省や後悔してもすぐに忘れて、元のもくあみです。

親が亡くなったときも、やっと解放されると思ったくらいです。健康で長生きなら良いですが、そうでないなら全く身勝手で自己中心です。

どこどこまでも我が身が一番なのです。

 

これを無慙無愧と言います。

 無慙無愧 悪いことをしながら、恥ずかしいと思わないこと。「無慙」は自己に対して恥じないこと。「無愧」は他人や世間に対して恥じないこと。

 

それでも命を頂いた以上、生きていかなければなりません。どんなに辛くても仏さまの、阿弥陀さまのお慈悲にお逢いするまでは石にかじりついても生きるべきなのです。

お慈悲に遇わせて頂いた後は、石にかじりついてもご恩報謝のためお念仏し続けなければなりません。

それが念仏者の姿だと思っています。

 

・・・私の本心は、さておきです。・・・

 

そんな人間に法を説く資格があるのかと思うときがあります。ブログに書いているのもある意味法を説いているのと同じです。

真宗のお坊さんがご説法されるときにはよく言われるのが「お取り次ぎ」をさせていただくと言います。

「お取り次ぎ」とは、道案内というか主人に合わせるためにご案内する係のようなものです。

 

 

 ただし、正しく間違いなく最短で主人のところまで道案内をすることが出来れば良いのですが、横道にあちこち逸れていつまでたっても主人のところまでたどり着かない場合もあるでしょう。

高森顕徹会だけでなく多くの宗教も該当することでしょう。その一番の原因は何かと言えば、「救われていない」ことだと思います。

私という存在が死を前にしてうずくまって一歩も動けない状態から解放されたなら、どうすべきなのか答えは自ずと出てくるでしょう。

それでも動けないなら、悪業煩悩に振り回されている証拠です。

自分も同じようなものなのですが、それもこれもすべて自分の責任なのです。

しかし、そんなことを無視しても話したくなるのは、阿弥陀様のお力と頂くと同時に煩悩が全く無いとは言いがたいと思うのです。

生き恥をさらしながらも、なお南無阿弥陀仏に生かされているのです。 

 

たぶん死ぬまで恥ずかしいなあと思いながら生きた方が間違いは少ないような気がするのですが、そんな気持ちはすぐ忘れてしまいます。

 

やっぱり、恥ずかしいなあ~・・・そう言いつつ次の瞬間には忘れています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

ところで、勉強会ですが予定通り、8月24日(土)に 山も山さん をお呼びして開催します。

時間は、午前10時から午後5時までの予定です。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。

午前は10時から集まった方達で座談会を行いたいと思っております。

午後は13時30分から行う予定です。

どなたでも参加していただいて結構です。

よろしくお願いします。

 

・・・参考・・・

懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。

「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

 

無慙

悪事を働いても、それを恥じることなく平気でいること。

 


仏の教えを破りながらもそれを恥じない心。
「無愧」は自分の罪を他人に対して恥じない心のこと。

 

 

 

 

称名念仏について考える

南無阿弥陀仏は六字の言葉であり、これを一般的に名号と言います。

名号には、六字の南無阿弥陀仏の他に、帰命尽十方無碍光如来といわれる十字名号や南無不可思議光如来の九字名号があります。

親鸞聖人は好んで十字名号を書かれたと言われています。

その他、阿弥陀様については個別の呼び名がいろいろあります。たとえば畢竟依などがそうです。

 

称名とは、そのまま名号を称えるということで、口で南無阿弥陀仏と言うことです。

称えるは、讃えるの意味もありますので、唱は使いません。

唱は、学校の校歌を斉唱するとかに使います。

 

念仏は、仏を念ずるのですが、心で念ずる以外に声に出して念ずるという動詞の意味も当たり前ですがあります。

この場合の仏は、特に定めのない場合、阿弥陀仏が該当します。

また、念仏は観想念仏や口称念仏のように使われます。

観想念仏にも心の状態をどのようにするかによっていろいろあります。

口称念仏についても同様です。一般的には、称名念仏といい、略して念仏と使っています。

仏を見るのを目的とした念仏三昧があります。この場合、当然口から声に出して南無阿弥陀仏と称えます。

 

浄土真宗では、念仏に自力と他力があると言われます。

しかし、念仏そのものには、本来自力も他力もありません。

阿弥陀様の呼び声であり、それが信心のある人が称えようが信心の無い人が称えようが違いはありません。

つまり、自力の念仏か他力の念仏かはこちらが勝手に決めているだけなのです。

その条件として信心があるか無いかを問題にしています。

 

南無阿弥陀仏は真実の塊であり、私の心の状態などは問題にしていません。

そうは言っても、こちらは真実を真実と受け止めることが絶対に出来ないものであります。

それが私の姿であり、宿業と言っても良いかもしれません。

 

そこで問題になるのが信心が無いのに念仏を称えることは良いのか悪いのかと考える人が出てきます。

 

当たり前ですが、仏教を聞かせていただいているのですから良いと思うことは実践しなければ成りません。

念仏は正行ですので良いことに決まっています。

やはり、そこに自力、他力を分別する心があります。

 

「私の念仏は自力だから駄目だとか、信前の念仏は無駄だとか、聞くのが本当の浄土真宗だから信前の念仏はいらないなどの考えが出てきます。」

 

この言葉をよく考えて下さい。

 

どこのお聖経に信前の念仏はいらないと書かれていますか。

どこのお聖教に自力の念仏は役に立たないから称えるなと書かれていますか。

捨てものとは言われていますよ。この言い方は機に応じた説き方の一つですので本当は非常に微妙な表現だと思います。

しかし、称えるなとは言われていません。

聞即信、聞いているのが信心です。その通りです。

念仏を称えるなと書かれていますか。聞即信と書かれているだけです。

聞は、自分の声を聞くのも聞です。

 

それに、最も大事なことは信心を獲ているのか、獲ていないのか誰が決めているのかです。自分でしょ。もっとも当てにならない自分が決めているのですよ。

「信前の念仏は称えてはいけない」と言う人、あるいは「称える必要はない」と言われる人は、本当に阿弥陀様に救われているのですか。

私は大いに疑問に思います。

 

阿弥陀様の御本願は、「称えよ」とは誓われていますが、「称えるな」とは誓われていません。

親鸞聖人も同じです。詳細は、いろいろなブログで説明されていますので割愛します。

 

3歳の子供に何を最初に教えますか。

南無阿弥陀仏です。口で称えることを教えるのです。

念仏を世界に広げるには、私が口で称えることです。

阿弥陀様の立場に立ったら、自力でも何でも良いからまず称えてくれです。

信心、あるなしは、話が理解出来るようになってからです。

信前の念仏を否定するのは順番が違うような気がします。

 

ただ、これも機に応じての説き方があるとは思います。

 

大音響流十方です。南無阿弥陀仏が世界に響き渡っているのです。

まずは、まねから入るのです。

 

私は、そう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

注:

「聞即信」

第十八願成就文
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」

 

教行信証 信巻
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」

 

一念多念文意
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」

 

西方指南抄

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」

 

南無阿弥陀仏

垂名示形(名を垂たれ形を示す)
名を垂れるとは、「如より来生して」一切衆生を済度しようとする阿弥陀仏の願心が、南無阿弥陀仏という名乗りとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。
形を示すとは、一如より来生して法蔵菩薩と示現し、その誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。

 

教行信証 証巻
真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

 

この阿弥陀仏のさとりの本性である真如は、自他、善悪、愛憎、生死、因果といった言葉による二元的な分別の領域を超えている。
言葉によってモノ/コトを概念化して理解し把握する我ら衆生には理解が不可能な領域である。

その理解することが不可能な真如一如の界(さかい)から、弥陀如来は如より来生(弥陀如来 従如来生)して口に称えられる仏陀として示現することを如来(垂名示形)といふのである。

 

教行信証 行巻

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。


可聞可称の南無阿弥陀仏である。(WikiArcより)

 

教行信証 行巻

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

 

 

 

 

 

この糞みたいな世の中(邪見)

よく映画の中やドラマや小説の中でこのような台詞を聞きます。

大抵、主人公が不幸なのか現状に満足していないか、あるいは世の中を見切ったふうの人の設定が多くだと思います。

また、そういう台詞を聞くと自分も同じような気持ちになり、少し厭世的な雰囲気になります。

このような気持ちが心を支配しだすと事件性にどんどん結び付いて行きます。

世の中間違っていると思い、世界を終わらせてやるなどと思うこともよくある考え方です。

では、何が糞みたいと思う理由なのでしょうか。

 

一つは自分の思うとおりにならないのはおかしいと世の中を見ている。

一つは自分ほど不幸な者は無いと思っている。

一つは世の中の仕組みが正しくないと思っている。

一つはどうしようもない怒りがあり、それを押さえることができない。

一つは他の人がうらやましくて、妬ましくてしかたがない。

一つは正直者が馬鹿を見ていると思っている。

一つはこんな不公平な世の中は無いと思っている。

などなど。

 

しかし、思うとおりの人生を送っている人がどれだけいるのか。

狭い考えに陥ってそこから出ることが出来ないでいるのです。

そう言われても全く受け付けることが出来ません。

 

この言葉は、ある意味、非常に危険な言葉です。何気なく使ったり、奇をてらったりするために使ったりしているのかもしれませんが正しい言葉ではないと思います。

いわゆる正語ではないと思うのです。

しかしながら我が身を振り返ってみるに仏教との出会いが無ければどんなことを考えていたか分かったものじゃありません。

邪見、間違った考え方に捕らわれ心ががんじがらめに成っていたことでしょう。

自分のことも嫌だけどあいつはもっと許せないとか、私一人が不幸とか、逆に自分には何もないと自虐的になり、なぜ生まれてきたのかと自分の人生を恨んでいたかもしれません。

せっかく生まれがたい人間に生まれながら、その生を喜ぶことが出来ないばかりか、恨んでさえいるのです。

誠にお釈迦様の言われる通り人生は苦なりです。

 

そんなわたしを哀れに思し召し、なんとか救ってやりたいと阿弥陀さまが立ち上がって下さいました。

一人でとじ込もって暗い闇のなかで泣いている、誰にも心を開けないで永遠に迷いのなかにいる、生死のなんたるかも知らないまま輪廻を繰り返している私に慈悲のお心を起こしてくださったのです。

お前を助けなければ一緒に地獄に落ちてでも助けてやると。

どれだけ時間がかかっても必ず助けてやる。

 

「我をたのめ、我が名をとなえよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

「こんな教えを誰が信じられるか。こんな糞みたいな世の中に真実が本当にあるのか。

嘘つけ。」

 

それでも救いを求めてさ迷い続けているのが私の姿です。

 

哀れ‼

 

仏教に出会い、阿弥陀さまの教えに今出会わせていただいたいるのです。

この糞みたいな世の中でたまたま出会っているのです。

何を迷う必要があるのか、南無阿弥陀仏に今飛び込んでください。

 

   曠劫多生のあひだにも
  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
  『高僧和讃

 

どれだけの生死を繰り返しているか分からないが、その度に虚しく死んでいたのだろう。どうしたら幸せになれるのか求め続けていたけど、幸せに成れたのか?

自分の思うとおりの人生が幸せなのか。それで死んでも後悔無いのか。

何一つ善など出来ないのに、幸せになる資格なんて無いのに必死で幸せという幻想を求めているのです。

 

今、いろんなご縁のお陰で阿弥陀さまに出逢わせた頂いているのです。

今、出会っているのです。何の間違いか今出会わせていただいているのです。

この事実に向き合ったら何も必要ありません。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

勉強会のお知らせ

毎年行っておりました勉強会を今年も開催したいと思います。

日時は、8月24日(土)です。

時間は、午前10時から午後5時までで考えています。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。

講師は、宮田秀成師を予定していますが、宮田さんのご法話は午後のみで、

午前は集まった方達で座談会を行いたいと思っております。

午後は13時30分から行う予定です。

どなたでも参加していただいて結構です。

よろしくお願いします。

 

追伸

宮田さんは、翌日8月25日(日)に西尾市羽塚町公民館で勉強会を予定されています。

ご都合の付く方は、そちらにもご参加ください。

詳細については、山も山さんのブログ「安心問答」のメールアドレスにお問い合わせ下さい。