年も明け令和2年となりました。
今年もよろしくお願いします。
さて、今年最初に思ったのが浄土真宗は仏教なのかどうかということです。
一部ではサンガ(正式な出家僧侶の集い)が無いからとか、戒律が無いからとか、行が無いからとかの理由で本当に仏教と言えるのかと言われることがあります。
戒律が無いのはその通りですが行が無いと言えるのかそこは疑問が残ります。
さて仏教はお釈迦様が説かれたみ教えです。
教え「教」にしたがって「行」を行い、悟り「証」を目指すのが基本です。
「教」「行」「証」の順番です。
悟りとは言うまでもなく「仏」になるための段階のことです。
仏を目指して行を行うのです。
その行は八正道であり六度万行などがそうです。
いわゆる聖道門です。
浄土門と言われる宗教においても念仏を称名する「行」により信心を頂くこと(悟りの一種と見なせると思いますが疑問もあるでしょう)を目指す所もあります。
どちらかと言えば浄土宗にその傾向がみられますが全てではありません。
浄土真宗はどうかと言えばいわゆる「行」を認めませんが、本当にそうなのか大いに疑問の残る所です。
本願寺派はさほどではありませんが、高田派は称名念仏を勧めます。
親鸞聖人のお書きになった「顕浄土真実教行証文類」は「教行証」となっています。
「行」の巻においては、称名念仏の功徳が説かれており、称名念仏が勧められています。
ところが次に「信の巻」があります。
ここでは信心と言うものがどんなものであるのか、そして信心を獲ることが如何に大事かを説かれています。
この流れは、行は大事だが信心がもっと大事であるとのべられた形になっています。
ではその行の元である六字とは如何なるものなのか説かれたのが六字釈です。
善導大師は、南無阿弥陀仏という六字に願と行が込められているから、いわゆる願行具足の南無阿弥陀仏だから、称えるそのままを救う阿弥陀仏の本願と言われてます。
ですから唯願無行ではないと解釈されています。
それを本願成就文では、その名号(南無阿弥陀仏)を聞くことにより信心歡喜になると説かれています。
ここで親鸞聖人は「仏願の生起本末を聞く」と言われていますが、それはとりもなおさず南無阿弥陀仏の謂れを聞くと言うことであり、南無阿弥陀仏をそのまま聞く、あるいは称名をそのまま聞くと変わりがありません。
ただし、これも単なる音として称名を聞くのは違うと思います。
南無阿弥陀仏の六字の名号を称えるだけでなく、その名号に込められた思いを如実に聞くことが信心なのです。
如実の聞です。
そして大事なのは、ご信心を頂くためにどれだけの称名念仏をしようが、どれだけのご聴聞をしようが我が身の後生の解決には一切間に合わないのです。
それは私の業があまりに深く私が行う「行」に、たとえ功徳が有ったとしても大地にスコップで穴を掘って地球の底のお宝を掘り出すようなものなのです。
どれだけ掘っても無駄と言うことに気づかせて頂くのです。
御一代記聞書には以下のように言われています。
「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと。」
これは明らかに「自力の聞法という行」を勧めておられます。
聞法という行と称名念仏と何が違うでしょうか。
同じだと思うのです。※参考
一人一人にそれぞれの道が有るとは言え、この世に生を受け阿弥陀様に救われるまでには多かれ少なかれ同じ道を通っています。
こうして信心を頂くことにより仏となるための一つの条件であるお浄土に行くことができる身になります。
この世の縁が尽きたら、次の生が待っています。
阿弥陀様のお浄土で仏とならせていただくのです。
やはり浄土真宗は仏教で言う「教」、「行」、「証」のとおり進む道が勧められているわけですから仏教以外のなにものでもないですね。
そしてそれは現在、只今、落ちるそのままで往生の身とならせて頂くのです。
参考
善導大師 玄義分
これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず
親鸞聖人 唯信鈔文意
「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。