とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

自ら不幸になる道

最近新型コロナの影響でテレビも再放送が多いです。
再放送でも良い作品はたくさんあります。
私は何を見ているかと言えば映画がメインであとはニュースとドラマです。

そんな中、選タクシー という番組があります。
リアルタイムでは見たことが無かったのですが再放送されるということでしたので一度見てみようと思いました。(放送は終了しています)
内容を簡単に言いますと人生のやり直しをするというものです。
タイムマシンに乗って人生をやり直すのです。
それを見て思ったのですが、人は自ら不幸になる道を選んでいくことが多いのではないか。
どうしてそうなるのか。
常に私を基準に選択をしているからではないかと思ったのです。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めてそう思ったのです。
自分が一番幸福になるという考えが心の中心に来たとき、その選択はほぼ不幸の道に繋がっています。
私を含め私の回りの人を見ているとそう思うのです。
本人は全く気がついていないのです。
言ってあげたいと思うのですが、間違いなく反感を買うことが分かりますので残念ながらなにも言えません。
そして、自分も同じ選択をしています。
自分が幸せになりたい一心でつかみにかかるのですからカルトでも何でも掴みます。
バランスが悪いのです。
人のため、回りの人のために少し我慢すれば良いことでも、ちょっとでも自分が馬鹿にされたり蔑んだりされたらとたんに牙を剥きます。
そして、相手の弱点を探して噛みついてやろうかと思います。
その感情はマグマのように湧いてきます。


しかればある文には、「一人一日の中に八億四千の念あり、念念の中の所作皆是れ三途の業なり(一人一日中、八億四千念、念念中所作、皆是三途業)」といへり。

拾遺黒谷上人語燈録(厭欣沙門了惠集録)巻中 登山状 第一

ここで「ある文」とは、「浄土菩薩経」と言われています。
浄土菩薩経は、浄土三昧経とか浄度三昧経とも言われています。
昭玄沙門統曇曜の訳とされていますが、北魏時代に撰述された偽経であることが分かっています。
21世紀の浄土真宗を考える会 より引用ー
例の会で刷り込まれた善導大師のお言葉ではありません。

常に選択を間違えています。
だから惑業苦を繰り返します。

ー煩悩ー
『入阿毘達磨論』下に「身心を煩乱逼悩(はんらんひつのう)して相続するが故に煩悩と名づく」(正蔵二八・九八四上)と述べられ、身心をわずらい乱し、苦しめるものと解釈している。
人間は煩悩によって業を形成し、業の報いによって苦しみの生存(輪廻)に繫つなぎ止められる。
これを煩悩業苦(惑業苦:わくごうくともいう)の三道という。


一事が万事このとおりですので不幸にまっしぐらなのですが、不思議なことに阿弥陀如来という仏様とのご縁があるのです。
その仏様によって選択する道を導かれます。
そのお陰か分かりませんが、嫌なことは次々と起きますが最近はなんとなく平々凡々と暮らしています。
選択を間違いながらも導かれている気がします。
何故か分からないが阿弥陀如来様に引かれています。
そして、南無阿弥陀仏を嫌々ながらも称えています。
本当は称えさせられているかもしれませんが。

いずれにしても残念ながら私はこんなものです。
この考え方から自分だけの幸福を願って阿弥陀様を掴もうとします。
どう考えても仏になる道とは相容れない姿です。
阿弥陀様は私をそのまま連れていくと言われていますが、そのままの私とはいかなるものか考えたらとても救われる様なものでは無いことがわかります。
大いなる矛盾です。

世の中の些細なことさえ上記のとおりなのですから、まして仏の悟りを開くなどもっての他です。
それでも私を救うと仰っておられるのです。

私はいつも自ら不幸になる道を選んでいるのですが、常に阿弥陀様に正されているようです。
あとは煮るなり焼くなり好きにしてください。
どうせ私から出てくるのは文句しか無いのです。

申し訳ないことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

世間虚仮 唯仏是真

今は新型コロナのために世の中が揺れ動いています。
生き残るためにどうするのかあらゆる団体が対策を練っています。
中には火事場泥棒のような商売をしている人たちもあります。
一方で儲かって仕方ない会社もあります。
当然、反対の人たちも多くいます。
そして、ご法話会はほとんど全て中止です。
それでもネットでご法話を頑張っておられる方もあります。

善導大師は、この娑婆世界を以下のように言われています。

四方八方眺むれど、唯、愁嘆の声のみぞ聞く

高森顕徹会もよく使う言葉ですので嫌なのですが、これは事実ですからやむを得ません。

生き残ることができなければ、人知れず死んでいくだけです。
今でも孤独死はあちこちであります。
今は戦争中と同じくらいと考えた方が良いのではないかと思います。

お釈迦様はこんなとき何と仰っておられるのか。

法句経にこうあります。

われらはここ 死の領域に近し
道を異にする人々は このことわりを
知るに由なし このことわりを知る人々にこそ
かくしてイサカイは止まん

私たちは、この地上において、やがて死を迎えなければならない。
この事は本当に気づかない人も多い。しかし、この事実を自覚する人たちの間では、もはや諍いは無くなっていくだろう。

色々な解釈の仕方がありますが、私はこう味わいます。

死はいつも目の前にある。
その事を事実として受け止めたなら、あとはお任せである。
生きるも死ぬも縁次第。

ところが現実は、命も大事だか経済も大事、だからどうするのかと、国会議員達や国などの組織を問い詰めています。
テレビでは連日、このような内容が連呼されています。
そして、テレビと言う箱のなかで話している人達は経済的に問題の無い人ばかりです。
本当に困っている人も中にはいるでしょうが、あまり声は聞こえてきませんし、例え聞こえたとしても私には救う力はありません。
自分のことで精一杯です。
どうしようもないので自分で考えるしか無いのです。
残念ながらこの世はサバイバルなのです。

阿弥陀様にお任せしたところで死にたくないのは変わりません。
法句経のような訳にはまいりません。
じたばたしっぱなしです。
それでも阿弥陀様のお陰で今の私があります。
世間虚仮そのままの私を、現在、ただいま、必ず助けると仰っているのです。
私は虚仮、阿弥陀様は真実です。
南無阿弥陀仏は真実の塊です。

ですから、何が起きても受け止めるしかないのですが、そうはいっても苦しいのは嫌が私です。

私は、このまま、じたばたしながら新型コロナが落ち着くのを待つだけです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

アンコール・ワット


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数年前の事ですがアンコール・ワットの遺跡を見に行きました。

カンボジアにある仏教遺跡なのですが、ヒンズー教も混じった遺跡になっています。

カンボジアでは、憲法で国教が仏教(上座部仏教)と定められており、人口の大半を占める約98%が仏教を信仰しています。

出家して厳しい修行を積み、悟りを開いた者だけが救われるという考え方の上座部仏教です。

もともとクメール王朝時代にはヒンドゥー教が国教とされていましたが、歴代の王が信仰する宗教によって国教は何度も変更され、13世紀中ごろに上座部仏教へと落ち着きました。

この名残もあり、アンコール・ワットも仏教とヒンドゥー教が混ざったような建造物です。

遺跡の一つ、タ・プロームは映画トゥムレーダーのロケ地にもなりました。

ジャングルのなかに蒼然と聳え立つ遺跡は圧巻でした。

そもそもジャングルがどういうところなのか全く想像出来なかったのですが、アンコール・ワット上から見たら果てしなく広い平野に木が一杯という感じでした。

それでよく分かったのですがジャングルに迷い込んだら抜け出せない迷路だと思いました。

日本にはそんなところは北海道の平原か富士山麓の樹海ぐらいしかありませんのでイメージがなかなか出来ないのですが、果てしなく広がる森の中では道に迷っても不思議ではありません。

まして昔ならGPSもありませんので森の深くまで入ることもなかったのでしょう。

ですからアンコール・ワットは都が移された1400年頃から1600年頃までは地元の人しか訪れない忘れ去られた遺跡になっていました。

 17世紀前半には朱印船貿易を通じて日本人にアンコール・ワットの存在が知られるようになりましたが、当時の日本人はこの寺院を祇園精舎と誤って認識していました。

また、通航の増大により、日本から巡礼客が訪れるようになり、1635年の海外渡航禁止まで続きました。

当時の日本人参拝客の墨書はアンコール・ワットの各所に残されていますが、なかでも1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」という墨書は広く知られています。

その後、ベトナム戦争も終わり1979年にクメール・ルージュポルポト派)が政権を追われると、アンコールワットをシンボルにもしている彼らはこの地に落ち延びて本拠地にしました。

アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だったのです。

周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来ます。

また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれました。

当時置かれた砲台の跡も修復されていましたがガイドさんに教えて頂きました。

しかし、遺跡にはこれが災いして祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けました。

内戦で受けた弾痕も、修復されつつありますが一部にはまだ残っています。

今は寺院としての機能を維持しつつ観光施設となっています。

また、ベトナム戦争の被害を受けた傷痍軍人たちが楽器を奏でて物乞いをしている場面にも出会いました。

それと至る所で僧侶に会いました。

また、小さな子供の僧侶も沢山見かけました。

カンボジア北朝鮮と同じ共産主義でしたが割と民主的であり、言論統制されているような感じはしませんでした。(訂正:現在は立憲君主制でした。ただ、昔の流れから北朝鮮とは仲が良いのです。)

やはり国教が定められてるだけあるなと思います。

宗教遺跡を沢山回ったのですが博物館や寺院を見学しなかったのでカンボジアの仏教教義についてはほとんど勉強する機会がありませんでした。

それでもお釈迦様のみ教えの影響のすごさを実感することは十分出来ました。

 

今回は全く阿弥陀様とは関係ない記事になってしまいました。

どうせですので当時の写真もアップしておきます。

どうでも良いことですが王さまもご覧になった女の人の踊りがとても美しかったのを今も覚えています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

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レストランでの アプサラダンス アンコール・ワットの遺跡にも彫られています。

 

追伸

早く自由に旅行できるよう祈るばかりです。

 

 

 

目に見えないもの

今、世の中は新型コロナウイルスのせいで大変なことになっています。
かつて無い経験をしています。
歴史を振り返ればなんども起きていることなのでしよう。
ペストや天然痘コレラに麻疹等は典型的です。
世界中に広まり沢山の方が亡くなっています。
先日もコメディアンの志村けんさんが亡くなりました。
亡くなって初めてその存在の大きさに気づきました。
大変な存在の人だったんだ、沢山笑わせてもらった、そんなこと今まで気づきもしなかった、.......誠にボンクラです。
その人の偉大さも全く感じずにいたのです。
目に見えていてもその価値に気づいていません。

ウイルスは確実に私の回りに存在します。
何故ならしょっちゅう風邪をひきます。
肺炎になる人もいます。
普段は忘れていますが残念なことに間違いなく在るのです。

志村けんさんが亡くなっていつも忘れている死を思い出させてくださいました。
今日が私の死ぬ日かもしれないのです。
しかし、私は今日死ぬとは思っていないのです。
今日死なないとは、明日になっても今日死なないと思うので、ずっと死なないことになります。

私は仏教を聞かせていただいて、阿弥陀様に頼りきって安心しているのです。
南無阿弥陀仏があって良かったと南無阿弥陀仏をあて力にしているので、死なないと思っています。
都合よく阿弥陀様を利用しています。
いくら阿弥陀様にお任せしていても必ず死はあります。
そして本当に阿弥陀様にお任せしているのかが問題です。

私にとっては目に見えないものは、無いのと同じです。
見ない、見たくない、目を塞いでいる、それが私の姿です。
目の前に危機が迫っているにも関わらずに。

南無阿弥陀仏も目に見えません。
声には聞こえますがそれが本当に阿弥陀様とは思えません。
文字にはなっていますが、それが阿弥陀様だとは思っていないのです。
なぜそう思うのか。
簡単です。
信じていないからです。
そして、信じる力が無いからです。
何一つ信じていない、せいぜい目の前に在るお金だけを信じているのかもしれません。
疑うことしか出来ないのです。
もっと言えば、何も分かっていないからです。

生も老いも病も死も何一つ分かっていないからです。
空海さんがおっしゃる通りです。

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し

 秘蔵宝鑰

阿弥陀様についても同じです。
阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏は名号と称名に分けて考える考え方があります。
そして、その称名について更に細かく分けて考えます。
その称名について親鸞聖人は大行とおっしゃいました。
そこで皆がよってたかって大行はこうだと言い始めました。
大行については、様々な意見があります。
衆生の称名はすべてお礼、報謝だと言う考え方が主流ですが本当でしょうか。
阿弥陀様が衆生に報謝を誓わせていますか。
テレビから流れてくる南無阿弥陀仏は何でしょう。
阿弥陀様ではないのか。
阿弥陀様でないとしたら何なのか。
単なる音だと言う人がありますが、それを評価する根拠は何か。
あまりに南無阿弥陀仏を小さく捉えているのではないかと思います。
親鸞聖人自身、大行を事細かに分類、分析はされていません。
お念仏について頭で念ずること、口に出して称えること、耳に聞くこと等に分類してそれぞれを評価していません。
教行信証の行巻には数行書かれているだけなのです。

............................
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。...............

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。
............................

そもそも阿弥陀様の本当のお姿は、真如のお姿であり色も形も無いのです。
働きなのです。
私が自覚出来るものばかりとは限りません。
だからこの世界でどのように働いているのか私の想像を越えています。
親鸞聖人も不可称、不可説、不可思議の南無阿弥陀仏とおっしゃっています。
そして南無阿弥陀仏の功徳が満ちていると言われています。


つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。

阿弥陀如来名号徳

五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

正像末和讃


ただただ南無阿弥陀仏阿弥陀様にお任せし称名するだけなのです。

「我に任せよ、我が名を称えよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

現在、ただいま、落ちるそのままです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


参考

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。
一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

教行信証 行巻

松並松五郎師

松並松五郎さんという妙好人がいらっしゃいます。
有名な方なのでご存じな方もいらっしゃるでしょう。


まずは略歴です。
1.明治42年、大和 高市郡 飛弾(奈良県橿原市)に生まれる。
父、増蔵、母、みつゑ。3、4歳の時、常に母に抱かれて就床。
その子守歌を聞いて眠る。
母の歌声が、氏の生涯に大影響を与える。
母は、懐妊の時から念仏を喜ぶ身になったとか。

2.13歳、3月方向10日の「日めくり」の「忠孝は人の行く道、守る道」を見て大いに驚き、親孝行を決心。

3.15歳、2ケ年間親孝行を努めたが、思うように出来ず。
思案した結果、まず親の仰せを、そのままハイと聞くことを習う。
最初は、内心で反対の時もあったが、その心を押し切って進む。
と、次第に親の命令を、そのままハイと受けられるようになる。

4.17歳の正月1日、大阪へ奉公に出る。
母より、「主人の命に服し、よく働くように」と言われる。
朝は5時起床、夜は11時まで一心不乱に働き、奥さんの腰巻までも洗う。

5.18歳、得意先の人が「何故そんなに働くか」と問う。
「母の言いつけゆえ、親孝行のために、母の命に従うのみ」と答える。
客は、「親孝行がしたくば、寺まいりせよ。」と。
早速、その夜、近所の説教所へ参詣。
しかし何のことやらわからぬまま、親孝行と思い、説教参りを続ける。

6.18歳の5月、大阪南御坊にて、江州の説教師、護知寿師より、宗祖のお言葉「弥陀の本願ともうすは、名号を称えんものをば、極楽へ迎えんと誓わせたまいたるを、深く信じて称うるがめでたきことにて候なり」(末灯鈔)を聞いて感激。
それより、念仏相続に入る。
朝は3時起床、夜は11時まで仕事しながら念仏相続に専念。
いろいろの疑問が出ても、人には質問をせず、それを心に持ったまま念仏していると、いつか必ず解決すと。

7.29歳、昭和12年1月16日夜、叡山に登り、黒谷の経堂に入って、ただ一人徹夜念仏す。
その夜、不思議の感得を受けて純粋他力念仏に入る。

8.33歳、昭和16年、皮革統制会社に働く。

9.同年7月31日召集。満州、南方ニューギニア方面に転戦。

10.昭和19年6月帰還。
以来、故郷飛弾に住して念仏三眛。

11.平成9(1997)年12月26日88歳にて往生。

松五郎さんと接して、信仰上の大転換をした人が数多くいます。
三重県四日市市中浜田町の「東漸寺」の東見敬住職 もその一人です。
昭和二十四年、松五郎さんから、ある和上 さんの詩の一節を聞かされて、「でんぐり返る思いをした」と 語っています。
その詩とは、「我れ称(とな)え我れ聞くなれどこれは これ大慈招喚(だいひしょうかん)の声なり」というものです。

それでは、
『松並松五郎念仏語録』 真宗大谷派 念仏寺 土井紀明師編纂
から私が気に入っている所をご紹介します。

○東漸寺様にお尋ね致しました。
「御院住様、律宗という宗派がありますか」と。
「あります」「何でそんな事を聞く」と二三日前に夢を見ました。
女の方が夢に出て来て、亡くなった兄と私、しきりに念仏する姿を見て、兄に向かい〈あなたはどんな思いで念仏するか〉と。
兄が〈弟が念仏せよと言うから念仏するのみ〉と。
女曰く〈それやから真宗はいかん〉と。
それを聞いて私はその女を思いきり殴り倒す。
しばらくして女を抱き起こし〈あなたが私にまちがっていると言うのなら、私は頭を下げてお聞かせ下さいと頼みますが、真宗は間違っていると言われたから失礼致しました。
真宗と申されたら宗祖様中祖様をも間違っていなさる事になる。
どこが間違っているかをお知らせ願います〉と頼みましたから〈声に出すからいかぬ〉と。
私〈それだけ聞かせて頂きましたら結構です。有り難うございます〉とお礼申しました。
〈それではあなたは何宗ですか〉と聞けば〈律宗〉と申された」。  
声に出さずとも呼べる、手招きでも相手を呼べる。
念仏とは仏様が私を念じて下さっていることを念仏と言う。
然し大勢なれば、手招きでは誰を呼んでいるやら判らない。
その時はどうしても声に出さねばならぬ。
仏様は十方衆生を呼んでござる。
だから声に出すとは、即ち私の口を通して南無阿弥陀仏と呼んで頂く事は、「松五郎よ迎えに来たぞ」と名を出して呼んでもらっている事なり。
手招きでは十方衆生の誰やら判らぬ。

・・・聞くだけでなく声に出て私の耳に聞こえる南無阿弥陀仏真宗なのです・・・

○明けて二十九才、一月十五日本山へ参詣致しました。
御七夜のこと故、日本中の信者様のお念仏の声が、ひびき渡っていると参詣致しましたが、何の何のこれではと、旅館の一室で徹夜念仏。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
翌日十六日、宗祖様は二十年の修業の結果、六角堂へ祈願なされたあかつき、法然上人様の御教化により、念仏門に入られた。
その法然上人様は黒谷の経堂にて、善導大師様の「一心専念弥陀名号」の御文に依って念仏門に入らせられた。日本で念仏の根本は黒谷である。
黒谷である。
黒谷で念仏申したら、歓喜の心も湧き、また感謝ざんげの心も、亦静かに、心も静かにお念仏も出ると思い、黒谷の経堂にて一夜明さんものと参詣致しました。  

雪は一尺余り、参詣の人影もなく、駅員さんが、こんな雪ではとても黒谷までは行けませんから、雪が消えてからにしなさいと親切に言うて下さいましたが、死んでもよしと心に定めて、有り難うございますと下駄ばきで、道も分からず南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
足にまかせて歩き歩き南無阿弥陀仏、行く道すがらお寺も有りましたが足が止まりません。
歩き歩きどこをどうして行ったやら、ただ歩きました。足の止まった処に、一寺あり、尋ねましたら、そこが黒谷でした。  

堂守様に御願いして、一夜のお念仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
午後三時頃でした。
経堂に入り念仏致しました。
夜十時頃までは、元気にお相続がつづきましたが、寒くなり、着物のすそ、足袋が雪にぬれて、足が冷えて、板の間で、線香一本寒いのではなく体が痛い。
えらくて苦しい。
いや気が出る。
何ともたとえ様のない心になりました。
十二時頃より体が「ノコギリ」でけずられる思い。
あああ、ここで念仏申せば心静かに念仏出来る。
喜び喜び御恩のほども少しは偲ばれ、ざんげの心も、感謝の思いも湧くと思って来ましたが、全くあてちがい。  
歓喜どころか、ざんげどころか、妄念煩悩が出るわ出るわ、廻りどうろうの様に、私の身のまわりをぐるぐる廻り歩き、経堂全部が煩悩で、妄念で、だんだん出る。
首から下は妄念・煩悩で、有るだけ出てしまって、頭も空っぽ、何にもない。
妄念が出れば出るほど自然に、お念仏の声が高くなり、だんだん高くなる。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と出る出る。
寒さも忘れて、出る出る。妄念煩悩も流れ出る。
「横川法語」に、妄念の中より申しい出したる念仏は、にごりにしまぬ蓮の如くにて」と。
妄念の中より、出る念仏なるに、にごりに染まぬ、清浄むく、それが見える見える。
空っぽの中から出る妄念。
空っぽの中から出る念仏。
出る出る、流れる流れる。
頭、胸、腹の中は何もない。
亦寒さが身にしむ。
いやでいやで、そこに座していられないほど、居苦しくて、それでも念仏はますます出る。
ここで念仏申せば、心静かに喜び喜び出る、ざんげしながら出る、宗祖の御恩のほども偲ばれると思って来ましたが、うそうそざんげの「ざ」もない、歓喜の「か」もない、御恩の「ご」もない。
全く無い。  
宗祖様は「真月を観ずと思えども、妄雲なおおおう」とは細々ながら身に徹しました。
南無阿弥陀仏うれしいありがたいは、あたたかい部屋に居る時の事。
火のない部屋で身も冷え、心も冷えきった時は「この法に遇わねば、こんな事せずとも、温かい部屋で寝て居られるのになー」と、ほんとうに思いました。
無慚無愧、逆謗の死がいとは私一人のことと心の底から身にしみ渡り、板の間で「くも」の如く、おのずから頭が下がり、我忘れて出る南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
その時いなずまの如くひらめいた。
「本願の念仏には一人立ちさせて助けさせぬなり」 とひびいた。
はっと思った。
その時は、念仏申して居るとも判らぬ。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏    
世の方々は寒さにあえば「宗祖様の御流罪の御苦労を偲ぶ」と申されますが、極度の寒さに会うた時はとてもとてもそんな心は、私には出ませんでした。
この遭い難き御法にあわせて頂いた事さえ、よろこばなんだ私でした。
その時、 「歓喜も約束でないぞや、懺悔も約束でないぞや、たとえ一声も南無阿弥陀仏と称うる者かならず間違わさんは弥陀の誓いであるぞや」 との御知らせを受けました。
私は喜び心がないので、ざんげ感謝の心がないので、経堂へ参詣致しました。
それを聞かせて頂いて、寒さも苦しさも総てを忘れて南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  

また苦しさが追って来た。
その苦しさを乗り越えると、やや楽にお念仏が続いた。
百雷が一度に聞えたかの様に感じたとき、 「それそれ声が弥陀じゃぞや、弥陀が声と成ってお前を迎えに来た。あいに来た。
連れに来た。
弥陀直々の迎えでも物足らぬかや」 そのひびきを聞いて、天に躍って喜ばん、地に伏して喜ばん、この度弥陀の御誓に遇えることを 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ややすると亦 「かような事があったで往生ではないぞや、往生は誓願の不思議、願力の不思議、弥陀の計らいであるぞや」 と。最早言葉もなく、強盛に念仏聞きつつ朝八時頃下山致しました。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   

これまでの十余年の念仏は、自分自身、決して自分が称えているとは思って居なかった。
今にして思えば称える念仏で、如来様から称えさされていたのであったのに気が付かなかった。
自分が称える念仏であった。
永年の間称える事にこだわっていた。
称えねばならぬ、念仏せねばならぬと、常に重荷を心に、仏をおんぶして居た。
今は呼んでくださる(回向)仏の声であった。
その後の念仏は、呼んでくださる声を聞きながら、ひたむきに仕事に精が出ました。
私により添い給うひびきでありました。
今いま聞えて下さいます。 
南無阿弥陀仏  

・・・南無阿弥陀仏は、そのまま説法なんです・・・

○見るに見かねて ここえ来て  そだてみちびく姿こそ  口に聞こえる 南無阿弥陀仏    
ニューギニヤ戦線にて隊長の命によりマラリヤ患者の付き添いに病院へ行った。
病院とは言葉だけで、ヤシの葉を屋根に竹の柱、床はヤシの葉のシンを並べて、ソロバンの様に痛い。
衛生兵は五十人に一人、とても忙しいので中隊から付き添いを出す様になった。
それも下士官以上の事。
曹長が入院、付き添いにと命令。
病院はマラリヤの製造場で、蚊にさされるとマラリヤになる。
一ヶ月で退院された。
隊長に報告に出た。
「休めよ」と言われたとて私の仕事が一ヶ月分溜まっている。
働く働く。
亦軍曹が病気になり、命により付き添いに一ヶ月、治ったのでまた報告。
「二度まで御苦労休めよ」。
また仕事が溜まっている
三度目に新兵が入院、また付き添い。
隊長は「三度までも済まぬが、一人助ける為に付き添いまで死なせてはと思って命令した。
お前は死なぬと思ったから。
こんどはお前が病に倒れる其の時は報告にくるに及ばぬ。
そのまま入院してくれよ」と。
「ハイ 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」。
この新兵は死ぬと感じた。
新兵は「古年兵殿私はこんな処で死なぬ。
死ねぬ。
内地へ帰って坊やの顔見るまでは絶対死なぬ」と。
親心である。
然しその心が、死を招く。
生は望む処、されど病人なるが故に病人に成りきればよいのに、成りきるとは病気に勝つことでなく負ける事である。
心に無理がある。
第一仏縁に遠い。
気分のよい時は元気があってよい様に見えるが、一寸熱でも出ると自分で自分を倒す。
思った通り一寸の熱で自分から「アカン」と言うて世を去った。
南無阿弥陀仏 

隊長に報告「再三ご苦労であった体をいとえよ」。
「ハイ」。
数日後に熱が出た。
四十度の事、一週間熱が下がらねば入院となった。
下がらない。
報告に出た。
「松並松五郎本日付きを以て入院致します。
自分の不注意から病に倒れ申し様もありません。
一日も早く全快して元気で中隊に帰ってきます。
報告終わり」。
隊長は南無阿弥陀仏と笑いながら「いらざることよ。
まわれ右と言われたらまわれ右をすればよい」と、隊長一本参りました南無阿弥陀仏、とお互いに笑いながら、第百十一野戦病院え入院した。
何隊の何兵、何病棟とすぐ分かる。
善きことも悪いことも自分のこと、自分が行うて居る。
三人の付き添いで衛生兵とよく顔見知りで、次から次ぎえよくして頂きました。
体熱四十一度、気温は百度、三度の食事は、ドラム管でたくオカユ。
はんごうの中皿に顔が写る。
油くさくて三日たべずに居ましたが、空腹で四日目からすする様になりました。
空襲日は日に二回で、壕に入らねば戦死にならぬ。
蚊にくわれると熱が高まるので袖の長い下着上下、毛布、頭だけの蚊帳。
水はなく、体熱四十度七十日続きました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
体質により、三十八度一週間続くと口の中にウジが発生して頭の毛が一本もない兵も居ました。
幸いに私、毛が一本もウジ虫もなく、口がかわくので、ヤシの実が落ちる、それを拾って呑む。
日に三個以上呑めば、チブスになるので呑めないが、辛抱が出来ない。
私は幸い便秘が遠かったので何とも有りませんでした。
四個は呑みました。
洗い物もいつに一度やら、壕に出たり入ったり体が苦しい。
ある日大空襲あり、二里四方に百五十機、低空なれば話し声も爆音で聞こえない。
壕の中で病兵五十人南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称える声に、三千世界にひびき渡った南無阿弥陀仏
別に死は恐ろしい感じもなかったが、豆粒ほどに聞こえてくる爆音が、妙に私にひびく、胸に鋭くこたえるので、ハハーこの飛行機にやられるなーと直感した。
それまでは、死ぬとも、生きるとも思った事は一度もなかった。
ただ命令のままに動いていた。
軍隊は仏法そのままでしたので何事も念仏の助行でした。
いよいよこれがこの世の最後と決めた時、瞬間全身ことに胸と腹が鏡の如くガラスの様にすき通って見える。
死が恐ろしいとも、お慈悲が有り難いとも、故郷の親も、妻も、兄妹がなつかしいとも、何とも思わなかった。
ただ今ここに三十円の金がある。
この金一体どうすればよかろうと思った、妙なものですなー。
別にお金に執着がある訳でもないのに、国家から預かったお金を葬ることが気がかりであった。
かくして二三分の時刻がすぎた。
その時声ありて「お前はここで死なさん。帰す。帰ったなら一週間山で念仏せよ」と、この声を聞いて、無事帰国することを知った。
それまでは、死ぬとも、帰るとも思ったことは一度もなかった。
仰せのまま動いていた。
その爆音がだんだん大きくなり、敵機はいよいよ迫って来た。
爆風に備えて両目と両耳、手で押さえ口を開いてナアーナアー念仏聞いていたら、体が急にボーとなってエレベーターの上がる様な気持ちがした。
其の時、空に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と三声聞こえ、その念仏と私の口からい出ます念仏と一つに相通じている。
称える念仏でなく回向から通じる念仏である。
其の時私は吹き飛ばされていたのである。
そしてドーンと地上に落ちたらしい。
初めて〈やられた〉と気がついた。
しかし妙なことに、直立の形で落ちたらしい。
其の途端に壕の砂がくずれて、首から下は全部砂にうずもれた。
少しでも傾いて落ちたら、全く命がなかったはずである。
一時間の空襲である。
その時の痛さは言葉にかからぬ。
血を吐いた。
敵機が帰った後病棟の衛生兵が、タンカを持って来た。
ああナンマンダ仏やられたか、よしよし一番に掘り出してやると運んでくれた。
病院は陰も見えず、雨は降る降る火の手は上がる。
口にかからぬ。
私は早かったので一張りのテントの中に入れられたが後より送られる負傷兵はテントもなく露天に雨にさらされてウンウンうなってころがっている。
テント内は二十人ほど。
何百の負傷兵は雨ざらしの惨状はとても表現出来ない、身ぶるいするほど。
それを実地に体験した兵隊の思いは、いかばかりか。
戦争は悲惨の極みであり呪わしい。
病院と言うても手当もなく、いたみ止めの薬一包、その日の手当はそれで終わり。
食事にありつけぬ。
ショックで気が狂い大声でわめく兵、浪曲をうなる兵、両眼がどろんと飛び出している者、手足のちぎれた兵士、地獄もかくやと思う光景、水をくれと叫ぶ者、痛い痛いと泣く者、お母あお母あと呼ぶ者、子供の名前を呼び、雨にたたかれながら走り廻る者、雨で炎は消え煙りは大地をはう。
私も体の痛み一方ならず、ハエ一匹止まっても毛穴が立つ。
歯をくいしばって、小声で念仏聞いていた。
そこえ衛生兵が来て「ナンマンダ仏どこや」。
私は返事も出来ずナマンナマンと。
「そこか、えらい目に会うた、手を出せ」と言われるまま手を出す。アーイタと思ったら注射一本、〈熱も大分下がっている〉と帰った。
一時間、痛みが止まる。
亦泣きさけぶ者、だまれだまれと叱る者、叱った者がまた痛い痛いと泣く。
そこえ「ナンマンダ仏どこじゃ」と、「うーん、そこか脈を見てやる」。
アーイタ、また注射、苦しみが消える。燈火がないから他の兵に判らない。
其の空襲で目をやられて、右眼今でも視力がほとんどない。
ふと横を見ると将校の口からウーンウーンともれていた。
不思議に思って顔をのぞくと、その将校もまた私の顔をのぞく。
私たまりかねて「あなた念仏しなさるなー」。
将校も「お前も念仏するなー」と、その一言で意気投合して、もう何にも遠慮はいらぬ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。
それはそれは有り難かった。
するとまん中にいた兵士が悲しい声で「もう念仏は止めてくれ、止めてくれ、念仏の声を聞くと心細くて死ぬかと思う」と、哀願する。
それを聞いた私は身の痛さも忘れて座し、その兵に向かって「お前は何を言うか。
国出る時、七度生まれかわって国に報いん、と教えられたでないか。
そんなことで生まれかわることが出来るか。
念仏は死ぬ声ではなく生まれる声であるぞ」と。
その声聞くや兵は驚いて「どんな悪人でも生まれるか」と。
「必ず助かる」と。
兵はそれを聞いて苦しき中より自分のこれまで歩んだ悪の生活を全部告白した。
そして亦問う「こんな悪人でも助かるか」と。
「おれの様な悪人でも助かる。
お前が助からいでか」と、兵はそれでもまだ不安であったか「きっと助かるか」と。
念を押す。
その時「そんなこと、おれは知らん」と突き放す。
と、また「キット助かるか」とつき返した瞬間「仏説なるが故に」とゆう言葉がとんで出た。
その声を聞いて、重傷の兵士、驚喜してその場に端座して合掌、南無阿弥陀仏、と一声称え、そうしてまた、南無阿弥陀仏、と念仏称え、今度は直立不動の姿勢になり、合掌、南無阿弥陀仏、と一声大きく念仏してそのまま、バッタリと地上に倒れ、そのまま息絶えたり。
そしてその夜は、隣りの将校と共に念仏称えながら、足をなぜ、肩をなぜながら念仏。
〈ああ、この足で幾千里苦しかったなー。
この肩で、重い背嚢、かつぎ苦しかったなー〉と涙を流して、共にさすりながら通夜した。
涙、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 
よかったなー、涙、涙、涙。
夜明け前に、我にかえり、静かになったなーと、あたりを、ながめたら、三分の二は重なり合うて死んでいる。南無阿弥陀仏

・・・戦争の悲惨さは言うまでもありませんが、臨終説法とはこういうものかと思いました・・・

もっと沢山の体験が書かれていますが、私が気に入っている所をご紹介しました。
興味があれば読んで見てください。

南無阿弥陀仏阿弥陀様が私を呼ぶ呼び声です。
それは私が称えた声がそのまま阿弥陀様の呼び声なのです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

親鸞聖人と同じ信心か?

信心を頂いたと言われても果たして何を基準に計れば良いのか。

私は親鸞聖人のお言葉に従うしかないと思います。

親鸞聖人はいろいろなお言葉を残してくださっています。

特に歎異抄には誤解されやすいお言葉が多くあります。

故に今回は歎異抄以外のお言葉に従おうと思います。

 

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏、日域の師釈に、遇いがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。

ここをもって聞くところを慶び、獲ることを嘆ずるなり。 

教行信証 総序

 

以上のように法に出会えたことを、阿弥陀様に出会えたことを喜ばれております。

 

凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。

一念多念文意

 

我が身は凡夫であり、死ぬまで変わらないとそのことを告白されています。

 

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

教行信証 信巻

 

我が身に真実なしと告白されています。虚仮不実の人間であることを語っておられます。

 

真宗紹隆の大祖聖人(法然)、ことに宗の淵源を尽くし、教の理致をきわめて、これをのべたもふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。

御伝鈔

 

ここには一切の善行を行うこと無く、「聞」で救われたことを告白されています。

 

煩悩、眼を障へて見たてまつらずといえども、大悲、倦くきことなくしてつねにわれを照らしたもうふといえり。

正信偈

 

そして、つねに大悲(阿弥陀仏のお慈悲、南無阿弥陀仏)に照らされていると喜ばれています。

 

法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこしあらはれたまふ。

唯信鈔文意

 

以上のように阿弥陀様の不思議の誓願を説き阿弥陀様を讃談されています。

 

経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。歓喜といふは、身心の悦予を形す貌(かおばせ)なり。乃至といふは、多少を摂するの言なり。一念といふは、信心二信なきがゆえに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。

教行信証 信巻

 

仏願の生起本末を聞いて疑心は無い。そして歓喜がある。それは一念であり、浄土への一心であると言われています。

 

念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。

 

 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

 教行信証 行巻

 

このように念仏によって成仏するのだからお念仏をすべしと言われています。

 

像法のときの智人も

 自力の諸教をさしおきて

 時機相応の法なれば

 念仏門にぞいりたまふ

 

信心のひとにおとらじと

 疑心自力の行者も

 如来大悲の恩をしり

 称名念仏はげむべし

 

真実信心の称名は

 弥陀回向の法なれば

 不回向となづけてぞ

 自力の称念きらはるる

 

無慚無愧のこの身にて

 まことのこころはなけれども

 弥陀の回向の御名なれば

 功徳は十方にみちたまふ

 

 愚禿悲歎述懐和讃など

 

御和讃には念仏門に入って、お念仏を称える事が大事と言われていますが、ご信心の伴ったお念仏がもっと大事だといたるところで言われています。 

また、他の御和讃では自分にも他人にも恥じる心は無いが、阿弥陀仏から頂いた南無阿弥陀仏は我が身に満ちているばかりでなく世界中に満ちていると言われています。

 

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

 

最後は教行信証総序に書かれているお言葉をそのまま受け取ることが出来るかどうかです。

 

御和讃を調べればほんとうに沢山の信仰告白をされています。

信心はハッキリする、そして我が身が必ず照らされると言われています。

ただし、私には救われる縁手がかりが無いこと、我が力で往生は出来ないことがハッキリするわけで、浄土に生まれることが私にハッキリ分かることではありません。

浄土に生まれさせていただくのは阿弥陀様のお力ですから。

そして喜べない御信心など無いと。

また、お念仏すべしと言われています。

 

最後はお一人お一人のお心に聞いて下さい。

 親鸞聖人のお言葉に私も同じだと同感できるかどうかで親鸞聖人と同じ信心かどうかが計ることができると思いいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

浄土真宗は仏教か

年も明け令和2年となりました。

今年もよろしくお願いします。

さて、今年最初に思ったのが浄土真宗は仏教なのかどうかということです。

一部ではサンガ(正式な出家僧侶の集い)が無いからとか、戒律が無いからとか、行が無いからとかの理由で本当に仏教と言えるのかと言われることがあります。

戒律が無いのはその通りですが行が無いと言えるのかそこは疑問が残ります。 

 

さて仏教はお釈迦様が説かれたみ教えです。

 教え「教」にしたがって「行」を行い、悟り「証」を目指すのが基本です。

「教」「行」「証」の順番です。

悟りとは言うまでもなく「仏」になるための段階のことです。

仏を目指して行を行うのです。

その行は八正道であり六度万行などがそうです。

いわゆる聖道門です。

日本では、天台宗真言宗、さらには禅宗などです。

浄土門と言われる宗教においても念仏を称名する「行」により信心を頂くこと(悟りの一種と見なせると思いますが疑問もあるでしょう)を目指す所もあります。

どちらかと言えば浄土宗にその傾向がみられますが全てではありません。

浄土真宗はどうかと言えばいわゆる「行」を認めませんが、本当にそうなのか大いに疑問の残る所です。

本願寺派はさほどではありませんが、高田派は称名念仏を勧めます。

親鸞聖人のお書きになった「顕浄土真実教行証文類」は「教行証」となっています。

「行」の巻においては、称名念仏の功徳が説かれており、称名念仏が勧められています。

ところが次に「信の巻」があります。

ここでは信心と言うものがどんなものであるのか、そして信心を獲ることが如何に大事かを説かれています。

 この流れは、行は大事だが信心がもっと大事であるとのべられた形になっています。

 

ではその行の元である六字とは如何なるものなのか説かれたのが六字釈です。

善導大師は、南無阿弥陀仏という六字に願と行が込められているから、いわゆる願行具足の南無阿弥陀仏だから、称えるそのままを救う阿弥陀仏の本願と言われてます。

ですから唯願無行ではないと解釈されています。

それを本願成就文では、その名号(南無阿弥陀仏)を聞くことにより信心歡喜になると説かれています。

ここで親鸞聖人は「仏願の生起本末を聞く」と言われていますが、それはとりもなおさず南無阿弥陀仏の謂れを聞くと言うことであり、南無阿弥陀仏をそのまま聞く、あるいは称名をそのまま聞くと変わりがありません。

ただし、これも単なる音として称名を聞くのは違うと思います。

南無阿弥陀仏の六字の名号を称えるだけでなく、その名号に込められた思いを如実に聞くことが信心なのです。 

如実の聞です。

 

そして大事なのは、ご信心を頂くためにどれだけの称名念仏をしようが、どれだけのご聴聞をしようが我が身の後生の解決には一切間に合わないのです。

それは私の業があまりに深く私が行う「行」に、たとえ功徳が有ったとしても大地にスコップで穴を掘って地球の底のお宝を掘り出すようなものなのです。

どれだけ掘っても無駄と言うことに気づかせて頂くのです。

御一代記聞書には以下のように言われています。

「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと。」

これは明らかに「自力の聞法という行」を勧めておられます。

聞法という行と称名念仏と何が違うでしょうか。

同じだと思うのです。※参考

一人一人にそれぞれの道が有るとは言え、この世に生を受け阿弥陀様に救われるまでには多かれ少なかれ同じ道を通っています。

 

 こうして信心を頂くことにより仏となるための一つの条件であるお浄土に行くことができる身になります。

この世の縁が尽きたら、次の生が待っています。

阿弥陀様のお浄土で仏とならせていただくのです。

 

やはり浄土真宗は仏教で言う「教」、「行」、「証」のとおり進む道が勧められているわけですから仏教以外のなにものでもないですね。

 

そしてそれは現在、只今、落ちるそのままで往生の身とならせて頂くのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

参考 

善導大師 玄義分

これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず

 

親鸞聖人 唯信鈔文意

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。