「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」
『正像末和讃』親鸞聖人
何も分からない、何が正しいのか間違いなのか、私には判断する力が無い。
ただ、仏様が悪と言われたことが悪いのであり、善と言われたことが善であるとしか言えない。
仏様の言われることは正しいのか、間違いなのか、それさえ分からないが、少なくともこの世の法律よりは正しい教えだと思う。
それくらいの判断しか出来ないのである。
そして私自身は、とてつもない業のかたまりで、さるべき業縁が催せばいかなる振る舞いもする奴なのである。
そんなものに真実など判断することは出来ない。
ただ、一つ南無阿弥陀仏は届いている。
教えとなって音となって私に届いているのは間違いない。
その南無阿弥陀仏にすべてをまかせること、それだけなのだ。
それ以上も以下も無い、ただ、南無阿弥陀仏なのです。
それで私の人生、o.kなのです。
判断する力は無いが、それを選び取ることは出来る。
自分の判断では無いかもしれないが、アーメンでもない、南無妙法蓮華経でもない、
南無観世音菩薩でもない、南無阿弥陀仏なのです。
それで良いのです。
100%ですかと問われると自信はありませんんが、それで良いのです。
南無阿弥陀仏が極楽に生まれる種か、地獄に落ちる種か知りませんが、それで良いのです。そう、思えるのです。
自分で決めたわけではありませんが、そう決めました。