先日、ドイツで飛行機が墜落し百数十人の方が亡くなった。
大変な事故でパイロットが故意に飛行機を墜落させたという。
そこに居合わせた人たちは一緒に死ななければならない運命を背負っていたことになる。
しかし、多くの人は理不尽な思いをかかえて処理できないでいる。
原因はパイロットのせいなのだが、しかし、その飛行機にどうしても乗り合わせることになった人たちは、偶然のなせる業ではない。
仏教では業とか宿業といわれる。
つまりそういう定めを持って生まれたと言うことである。言い換えれば寿命である。
一人一人が持つ宿業により受けていかなければならない運命なのだ。
父親とそういう話をしているとき、父親は宿業については受け入れることが出来ないでいた。
では、それ以外の説明が出来るかというと何も出来ない。
でも、納得していないのだ。
受け入れることが出来ないまま、そのまま、生きている。釈然としないまま、自分の思いを中心に生きている。
それはそれで仕方がない。迷っていると一言で片付けることが出来ないほど迷っているのだ。
自分の思いや考えがすべてで他の考え方を受け入れることが出来ないのである。
我が身に降りかかる運命を定めを受け入れることが出来ない。
それは私も同じでどんな業によりどんな運命が帰ってくるか分かったものではないが、不幸なことが続けば天を恨み自分を反省しないのだ。
それが、迷っていると知らされていても。
全く業が深いのである。
なにせ永遠の過去からの業をしょっているのだから。