とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

信心決定とは

阿弥陀仏による救済の信仰が心に確立すること。

捨機託法すること。 我が機を捨てて、阿弥陀に託する。

二種深信になる。

自他力廃立となる。

さて、信心決定とはどういう状態なのか。

 

自力を捨てて、阿弥陀に帰する。

自分の力で後生を解決することは絶対出来ないと知らされ、阿弥陀仏にお任せした状態。

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自分には何一つ確かなものは無い。信ずる心も念ずる心も求める心も無い。そんな私に確かに届いているお念仏、南無阿弥陀仏が私の後生を引き受けてくださる。南無阿弥陀仏で満足である。それ以上は何もいらない。必要ない。

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と書くと確かな信心のような気がするのだが、私の場合は結局、我が身は「地獄一定住処ぞかし」で落ち着いているのだ。

地獄一定で落ち着くとは、地獄については言葉の意味程度しか理解していないが、私のあらゆる行為や考えていることによって受けるであろう死後の世界は地獄と言われるような苦しみの世界しか行き場がないのではないかと思っている。

具体的には、たとえば生き物を殺さなければ生きていけない自分がいる。それは全人類そうなのだろうけども、私はそのことについて大罪とは思えないのである。確かに罪なのだが、すぐ忘れてしまう。

それよりも自分が病気になったりけがをする方が気になってしまうのだ。

多くの生き物の犠牲の上に私が存在し、そのこと自身が大きな罪を背負っている私である。自分が感じようが感じまいが、罪は罪である。そしてそのことについて少しも悪いと思っていないところに大きな問題があるのではないか。

その罪を償うことも出来ないし、止めることも出来ない。

また、自分の欲望を妨げる人が現れると、その人を憎んだり恨んだりする。それも止められない。人を好きになったり嫌いになったり、ころころ変わり通しである。あいつは信じられる良い奴だと思っていても、ほかから自分の悪口を言われていると聞けばとたんに嫌いになってしまう。

どういう判断をしているかと言えば、自分の気持ちで判断しているだけなのだ。それが良いとか悪いとか一切関係なく、私の判断が常に正しいと思っている。その心によってあらゆる行為を行っていく。正しくない行為を本当に正しいことだと思って突き進んでいくのである。

仏の教えからすると地獄行き間違いなしの行為をまっしぐらに行っているようなものだ。

そうなれば、行く先は幸せな世界が待っているとは思えないのである。

因果の道理の通りならば、それなりの世界が待っている。

それが地獄と呼ばれる世界ならそうだろう、そこが私に行き先である。

 

そして、そんな私が目当てと教えていただいて、その私をそのまま救うと阿弥陀様は誓われている、そのことに対して信じるとか信じないとかこだわらない、阿弥陀様で良いではないか。他にだれがそんな誓いを立てているというのか。どこにそんな有り難い教えがあるというのか。

それでだまされたってもともと、そもそも何も持っていない自分だから仕方が無いと思っている。

阿弥陀仏と言われる仏様が私を救わんとお念仏を作ってくださったとお釈迦様が言われているのである。そのことを大無量寿経といわれる経典に説かれている。そして、七高僧達が、また、そのお弟子達が、さらに、妙好人と呼ばれる方達が、「本当だぞ、本当だぞ」と叫んでおられるのだ。

それを信じるのか、信じないのか。

その教えに任せるのか、任せないのか。

 

そこは私が決めれば良いのでは無いかと思う。

 

さらに私には信じる力は無いが、なぜかその教えを否定できない自分がいるのである。否定できないのと信じるのは異なるが、しかし否定が出来ないのである。

お経が本当だとすると私はこんなに幸せなことない。無条件で救うと言われている。ただ、信心のみが肝要だと。

しかし、その信心だって阿弥陀様からいただくものであって自分から信じるものでは無い。こうなるとややこしくなる。

自分は信じる力が無いのだから、阿弥陀様から信心を頂くのだというと、それは自分で信じているのではないかという疑問が起きる。ところが何度も言うが私には信じる力が無いのである。「信じる力が私に無い」のに「私が阿弥陀様を信じる」とはおかしい、矛盾していると思われるだろう。

「信じる力が無い私」が「私は阿弥陀様を信じる」となると明らかに私の力では無いということにならないだろうか。

そもそも「私には何も力が無い、空っぽ」なのである。その私が何かを信じると言うことは、何か別のちからによって信じさせられているのである。

他の人はどうか知らないが、アーメンでも南無妙法蓮華経でも南無大師遍照金剛でも満足しないが、南無阿弥陀仏で安心できるのである。

 

信後だからそう言えるのか、信前ではそういう心にはなれないのか、

それは私には分からない。教えをそのまま聞けば、そうなるとしか言いようがない。というかそのまま聞けば、そう聞こえるのである。

 

ここが、紙一重のところかもしれない。

 

ただ、私は阿弥陀様の願い(仏願の生起本末)をそのまま聞かせてもらうだけである。それ以上もそれ以下も無い。

 

六連島のお軽さんの歌

 

こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ
 聞かにゃおちるし 聞きゃ苦労
 今の苦労は 先での楽と
 気やすめいえど 気はすまぬ
 すまぬこゝろを すましにかゝりや
 雑修自力とすてられゝ
 すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ
 思えば有念 思わにゃ無念
 どこにお慈悲があるのやら
 どうで他力になれぬ身は
 自力さらばとひまをやり
 わたしが胸とは手たたきで
 たった一声聞いてみりゃ
 この一声が千人力
 四の五の云うたは昔のことよ
 ぢゃとて地獄は恐ろしや
 なんにも云わぬが こっちのねうち
 そのまま来いのお勅命
 いかなるおかるも 頭がさがる
 連れて行かうぞ 連れられましょぞと
 往生は投げた投げた

 

最後の、「往生は投げた投げた」この一言に尽きる。

 

さてさて、皆さんどうでしょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏