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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

阿弥陀様はどこにおられる?

阿弥陀様はどこにおられるのか。

西方十万億土の彼方におられると親鸞会時代は聞きました。

携帯用御名号なら私の体の近くです。

お仏壇の御名号なら数メートル先ですか。

 

では、阿弥陀様はどこにおられるのか?

 

答えは私の腹底から喚んで喚んで喚び詰めなのです。

 これを音声回向と言います。

私が今唱えるお念仏がそっくりそのまま阿弥陀さまの呼び声なのです。

 

ところが親鸞会時代は、とにかく救いの主体である阿弥陀仏は遠くにいるように見ていました。私の努力の一部始終を冷たく見つめている、それも遠く離れたところから、暖かみなど感じたことはありませんでした。

それよりも善知識に従えという話の方が多かったようにも思います。

また、南無阿弥陀仏を称えるときでも何か義務というか、まるで呪文のような気持ちでした。

親鸞会を退会して、最初に教えていただいたのが阿弥陀様がどこにいるのかでした。

前述のように遠くにしか思っていなかったのに、根拠を示して今、まさに私の声となって、他の人の声となって、また文字などあらゆるものを介して、そして想像も出来ない手段を駆使して私に気づいて欲しいと叫んでおられると聞かされ、阿弥陀様がぐっと私に近づいてこられたのを今でも覚えています。

その日の夜は興奮して眠ることができませんでした。

人の言葉一つで如何に私は受け止め方が違うのか、本当にいい加減なものだなとも同時に思ったのを覚えています。

ただ、その時はそんな感情よりも嬉しさの方が勝っていました。

阿弥陀様がそんなに近くから叫んでおられるとは全く思っても見ませんでした。また、とても頼もしく思いました。

いろいろな教えしっかり聞いていれば、そんなことはすぐ分かったのかもしれませんが、とにかく努力の先に阿弥陀様がましますとしか思っていなかったのは事実です。

ところが極端なことを言えば阿弥陀様は四六時中私に付きっきりで、一日も休まず私を呼び続けておられるのですから、ある意味私と一体になっているために気がつかないのかもしれません。

灯台もと暗しとはこのことかもしれません。

しかし、私の腹底から、煩悩の海の中から、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と私を呼び続けていただいたおかげで今私は阿弥陀様と出会わせていただくことが出来たのだと思います。

 

阿弥陀様はどこにおられると聞かれたならば、腹を叩いて今ここにおられると答えられます。だって、私の称えるお念仏が阿弥陀様と教えていただきましたので。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

 「ここから西の方へ、十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づける世界がある。
そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。
舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、なんの苦しみのなく、
ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽というのである。」(阿弥陀経

 

われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓いて正覚を成らじ。(重誓偈)

 

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏

 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)