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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

因果の道理について

皆さんよくご存じの因果の道理。

親鸞会では因果経という経典に説かれていると言われていましたが

、実際には過去現在因果経という経典はあるそうです。残念ながら私は読んだことはありません。

また、親鸞会で教えられた「善因善果 悪因悪果 自因自果」の言葉をそのまま真受けにして失敗をしました。

今苦しんでいる人に「貴方が今苦しんでいるのは過去世での行いが悪いからだ。」と言ってしまったのです。苦しんでいる内容が結構深刻だったのですが、仏教を伝えるためなら真実を伝えるべきだと思っていましたので、その時は何とも思わなかったのです。

親鸞会を退会してから、とんでもないことを言ってしまったなあと反省しておりました。なぜなら今の苦しみの原因が「自分の過去世の行いのせいだ」と言われても、そんな過去のことなど知らないからです。自分の過去世だって知らないのに人の過去世は言わずもがなです。それに、仏教を勉強もしていない人にそんなことを言えば怒り出すに決まっています。

退会後のあるとき、その人と会う機会がありましたので謝りましたが、言われた方は相当深く根に持っていたようです。

それほど親鸞会の言葉は、人格を無視した言葉が非常に多いように思います。

また、親鸞会を退会して家族からは丸くなったと言われました。

これも当たり前ですが、それまでは選民意識丸出しで人を否定する言葉ばかり使っていましたが、退会後は如何にその事によって人の仏縁を遠ざけていたのか反省せざるをえませんでした。

その因果の道理ですが、実はあまりにも複雑に絡み合って単純な因果の通りでは言い尽くせないのが真実だそうです。唯識という自分の業をつぶさに見ていく教えがあります。その教えの中には業の種子について細かく説かれており読んでいるうちに何が何だか分からなくなってしまいます。

因果の道理は、金槌で釘を叩くような簡単なものでは無いと言うことです。

それにしても親鸞会を辞めてからは良いことばかりです。

それこそ因果の道理でしょうか。

 

また、阿弥陀様の御本願はその因果を超越した教えです。

なぜなら私の業をすべて引き受けてくださるのです。

私の行っている行為による結果は、やはり私が受けていくことは間違いないでしょう。その結果を私の代わりに「おまえの業は引き受けた」と言われるわけです。

そのために願と行の両方が備わった南無阿弥陀仏をそっくりそのまま私に届けていただいているのですから。

因果の道理の通りでしたら私が後生の一大事を解決して仏になるのに三大阿僧祇劫かかるのです。

よくいわれる劫ですがこの時間はいろいろ説がありますが、とりあえず親鸞会の時の数字をそのまま使うとして1劫を4億3千2百万年として阿僧祇は10の59乗と言われていますので10の59乗倍してみてください。

その数字の意味するところがさっぱり分かりません。

とにかく大きすぎることと小さすぎることは、私をどこかで思考停止にさせてしまいます。要するに私の頭で考えられるスケールでは無いと言うことです。

阿弥陀様のご修行の期間も兆載永劫と言われているのですからとんでもない時間です。

簡単に言うと理解で来るはずのないものをこの小さな頭で理解しようとしているのですから無理だと思うのです。

複雑に絡みあった因果の結果、今の自分があります。ところがその自分がなにものであるかさっぱり分からないところに、とてつもないスケールものに取り囲まれているとしたらどうでしょうか。 

うけとめるもなにもない、お任せするしかないのではないかと思うのです。

とてつもなくおおきなものにつつまれた、芥子粒のような自分。

因果の道理を超越した、願と行の備わった南無阿弥陀仏に包まれているのですから、芥子粒はそこに放り込んでおけば良いのではないかと思うのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏