人が死ぬ 人が死ぬとぞ思いきに 自分が死ぬとは こりゃたまらん
(大田南畝を自分流に変えてみました)
数年前、友達がガンで亡くなりました。
ガンで亡くなる数ヶ月前、家族から末期のガンであることを知らされました。
どうしたらいいのか考えあぐねていたとき、ある先輩に相談しました。
そしたら、「君が今喜んでいることを伝えたら良いんじゃないの」と言われはっと気がつきました。
私が何に救われたのか、何をたのみにしているのか、そして、今、何を喜んでいるのか。
心は定まり、友達を面会しに行きました。
一目見て変わり果てた姿に不覚にも涙をこぼしていました。
友達は困惑した顔をしていまた。
そして、勇気を出して友達に伝えました。
「学生時代から悩んでいたが、俺は今、浄土真宗の教えで救われた。南無阿弥陀仏に救われた。このご法話を聞いてくれ。かならず救われる。それに南無阿弥陀仏はお金がかからない。」
そう言ってご法話の入っているMP3プレーヤーを渡しました。
お見舞いの後は、なぜか自分ではスッキリしていました。しかし友達の家族は複雑な顔をしていました。
お見舞いの後、ご法話を聞いているのか心配になり携帯にメールしました。
そしたら聞いている、心配するなとメールが返ってきました。そして、元気になったら一緒にドライブに行こうとまで。
とても嬉しかったです。
数ヶ月して友達は無くなりました。
全く独りよがりかもしれません。友達の家族には本当に良かったのかどうか分かりません。しかし、葬儀に行ったとき友達の家族は喜んでくれました。
私は今は生きています。
いつかは命が終わります。
その時、私はどう覚悟できているのか。
友達に言ったことがそのまま私に返ってきます。
リバースのひろしさんがブログで病気のことを告白されました。
残念でなりません。一日でも長く生きて欲しいです。
しかし、次は私の番とは全く思っていません。
そう思いながらある日突然命が終わります。
無常とはこのことでしょう。
最後に私に何が残るのか。
ぼけてしまえばお念仏さえ忘れてしまうでしょう。
生きている今、聞かせてもらう、称えさせてもらうだけです。