信じることとはどういう事か?
辞書では、他の人や物の力を当てにすることとあります。
なんとなく他力な感じがしますね。
さて、一般的に信じると言う場合は根拠が必要です。
私達は何かを信じる場合、何らかの基軸となるものを基準に信じることとなります。
町を歩く、買い物をする、食事をする、仕事をする、寝る、そして唐突ですが結婚など全ての行為について基準となるものがあり、それについて一定の確かさのもと安心した状態が何かを信じている状態と言えると思います。
もう少し詳しく書きます。
町を歩いているのは、普段安心しきっています。でも、町は本当に安全ですか。
何が起こるのか分からないのが町です。先日も、大きな看板が上から落ちてきてけがをされた方が見えます。
買い物もすべてが安全なものでしょうか。安全だと思っているものが、よく事故を起こします。電化製品の漏電で火事になったり、ファンヒーターで一酸化中毒になったりします。
食事については、食中毒が年がら年中起きています。
仕事中に事故に遭い亡くなる人も沢山見えます。
寝ている間に心臓が止まってしまう人も多くいます。
そして、結婚しても離婚する人が本当に多いです。
愛情の名の下、裏切り行為が跋扈しています。
では、私たちは何を信じているのでしょう。100%信じているのでしょうか。
私たちは何事も100%信じることは出来ません。ただ、慣れているだけです。
これらは、私が信じようとして信じているつもりの事ばかりなのです。
結局私は何かを信じることが出来るのでしょうか。
自分の命だけは永遠に続くと思っているかもしれませんが、本当は何一つ信じることは出来ないのかもしれません。
すべてを疑い、すべてを拒否しているのが私の心の本質だとしたら、とても宗教を信じると言っても、思い込んでいるか、マインドコントロールされているか、慣らされて我を忘れているかではないでしょうか。
ここに仏の教えは、ありのままを見ると言われます。
さて、その私をありのままに見た場合どうでしょう。
とても仏様の教えも信じることが出来ない私がいます。
つまり、私には信じる力が無いのです。
その信じる力の無い私が、仏の教えを信じるなどとんでもないことで、聞かせていただく以外に何が出来るのか。
そもそも信じる力が無いとしたらどうして仏の教えを聞こうとするのか。
他力しか考えられないですね。
たまたまですが浄土真宗とご縁があって本当に「ようこそ、ようこそ」です。