オウムの信者さん達はなぜオウムを辞めることが出来ないのでしょう。
それはTVでも何度もやっていましたが、神秘体験をしているからだと言われます。ところがそんなことはすでにお釈迦様の時代からあるのです。
それに伝統仏教と言われる天台宗比叡山での修行は神秘体験のオンパレードです。そんなこと当たり前なんです。
ところがオウムしか知らない世代は、比叡山のことを知る機会がありません。
調べてみればすぐ分かることなのですが、それを調べようとする気持ちが無いのです。
どうしてでしょう。
簡単に言えばご縁が無い、マインドコントロールされている、あるいは、アホなんです。
とはいえ親鸞会にだまされた私もアホの代表ですが。
さて、神秘体験は千日回峰行を二度もされた故酒井雄哉阿闍梨のお話を聞けば一目瞭然です。
神秘体験の山です。
ところがその酒井雄哉阿闍梨はそのことによってなにも得ていないと言われるのです。それどころかとても仏の悟りは遠いと感じられているのです。
それと同じで浄土真宗での信心決定について神秘体験を説かれたものが多くあります。
しかし、それはある人もある、無い人もあるのが真実です。
ところがあの人はああいう体験をした、また、あの人はこういう体験をしたということにどうしてもこだわってしまう私がいます。
私も神秘体験はしてみたかったのですが、そんなものはありませんでした。
ただ、お念仏に包まれた感じはありましたがそれも自分の思いすごしかもしれません。
私の場合は、簡単に言うと「あっ、そうなんだ!!そういうことだったのか!!」という気づきが一番大きかったのです。
いままで何度も聞いてきたのにそれを聞いていなかったと思ったのです。
たとえで言えば、数学の問題で分からなかった問題が解けたような感じです。あるいは相対性理論を理解できたようなものです。(実は今でもあまり理解していないかもしれませんが・・・)「あ~、そういうことを言われていたのか。」と。
だから神秘体験よりもハッキリするのが聞即信なのです。
それは聞くそのままが信となるからです。
聞いたことを真受けにしている状態です。
そうは言っても神秘体験はやっぱりしてみたいものです。
この間、NHK-TVで立花隆が臨死体験のことをやっていました。
臨死体験で光に包まれただとか暖かい中に入っていっただとかいろいろ言われています。
それを聞くと私も体験したいと思うのは人情でしょう。
でもそれが自分の後生にどれだけ関係するか冷静に考えてみれば全く無意味です。
鈴木大拙師の死に臨んだときの言葉を弟子というか秘書の岡村美穂子さんが書いています。岡村さんが「なにかして欲しいことはありませんか?」と聞かれたら「ノー、ナッシング、サンキュー」と言われたそうです。この時、大拙師は腸捻転で苦しくて仕方なかったときだそうです。苦しいときは苦しいのです。ただそれだけで、そのまま、意識がなくなっていくのです。
欲しい神秘体験があろうが無かろうが、今苦しいときには無意味ですね。
神秘体験は、仮に体験してもそれこだわらないのが一番だと思うのです。さらに言えばもっと不思議な体験があるのかもしれません。
七高僧達が追体験を通して書かれたのがお聖教です。そこの体験はどういうものか私には計り知ることは出来ません。ただ、一つ言えることは仏様の教えは間違いなく真実だと言うことです。
私がどう思うが、その真実の前には跪くことしか出来ません。
真実をそのまま受け取るのが最高の神秘体験かもしれません。
結局、凡夫の私には真実の塊、南無阿弥陀仏をそのまま受け取るということが最高の神秘体験でしょう。