浄土真宗ではよく「お育て」という言葉を聞きます。
文字通り、赤ん坊が子供になり青少年になり大人になっていく段階で、ありとあらゆる人様のお力が働いています。そして、人様のお力だけで無く自然の力も含め、それをそっくりそのまま、仏様のお力と見ていくことです。
当たり前なのですが、生まれてくるには命の上に命として生まれてきます。
お母さんのおなかの中で、お母さんが頂いた命を一緒に頂いて大きくなっていきます。
生まれれば生まれたで、まさしく命を頂いて大きくなっていきます。
そして、いろいろな人から沢山のことを教えられて、人間として生きて行く能力を徐々に身につけていきます。次には言葉を覚え、言葉を道具のように使い出します。
そして、言葉の意味を少しずつ理解し出します。
使い始めは幼稚な使い方しか出来ないのが、段々と深いところまで理解できるようになってきます。そこまで行きますとようやく仏教の言葉が理解できる土壌が出来ます。
これらすべてが頂き物であり、仏様による「お育て」という言葉でも言われます。
ところが仏様とのご縁が無い人は、仏教の言葉を聞いても何も反応しません。
そこが宿善のなせる業と言うのでしょう。
そして、今、まさに仏教を聞き、なおかつ、阿弥陀様の教えを聞いている人を宿善の人と言わずしてなんと言うでしょうか。
後は、救われるだけなのです。
今、親鸞会や浄土真宗とご縁のある方は、まさに、今、救われる人です。
お育て、仏様のお育てを受けられた大事な人たちなのです。
私もそういうお育てを受けて今があります。
そして、今もお念仏のお育てをいただいています。
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照