私たち人間には五感があります。常識ですがここで再確認をします。
見識:見たものを見たままに認識します。
耳識:聞いたことを聞いたままに認識します。
鼻識:嗅いだものを嗅いだままに認識します。
舌識:味わったものを味わったままに認識します。
身識:感じたものを感じたままに認識します。
しかし、これらの感覚器官には防御機能があります。
あまりに小さすぎるものや大きすぎるものに対しては受け入れないか機関が破損します。
つまり、非常に限定された機能しかありません。
その限定された機能を司どっでいるのが第六識にあたる意識です。
第六識として意識が適切機能していることにより五感を持って機能的にこの世の中を生きて行くことが出来ます。また、この五感によって物事を分別する働きが備わります。
さて、ここで畜生について考えます。
犬、猫および牛などのほ乳類は、私たち人間に非常に近い五感を持っていますが、機能の差が大きく違います。生きている世界は地球という一つの世界ですが、その中でも犬や猫、牛はあまり交わることの無い世界が基本的に出来ています。いわゆる棲み分けです。
両生類はどうでしょう。たぶん、五感はあるでしょう。
では、昆虫類はどうか。どうも、五感はなさそうです。
ジャングルにいるヒルは、2つの感覚しかないそうです。ひとつが、温度を感ずる身識、もう一つが二酸化炭素を感じる鼻識でしょうか。
あとの3つは、無いようです。
とにかく木の上にいて、下を通る獣に落ちて付くことしか出来ないそうです。
汚い話ですがウジ虫も2つくらいしかないようです。
では、仏様はどうでしょうか。
仏様は分別することがありません。これを無分別智と言われます。また、見たものをそのまま見る智慧を大円鏡智という力が備わっています。
そうすると当たり前ですが、私たちに無い力があると言うことです。
私たちには想像できない力が備わっていると言うことは、人間とウジ虫との違いにたとえてみるとどうでしょう。ウジ虫が嫌ならナマコでも良いです。
私はナマコ。海底をえさを求めて這っています。魚の糞やバクテリアなどの有機物あさっています。
ナマコは海底を這いつくばっいます。聞く耳がありません。聞こえないのです。
ナマコは、人間という大きなものを認識できません。
横にいても何も感じません。捕まえられて初めてジタバタしまずが何が起こっているのか理解できません。
そしてまた、ナマコの人生を終えて次の生に向かっていきます。
私もそういう人生というか生死を何度も繰り返してきました。
今、阿弥陀様が私を救うと南無阿弥陀仏になって私に寄り添ってくれています。
ところが私はナマコですので仏様の気持ちが分かりません。私は逃げることしか出来ません。
その私が目当てだと阿弥陀様は仰せです。
皆さんなら、どうされますか。
どうせ死んでしまうのです。
選択肢は2つです、そのままあきらめてまかせるか、逃げるかです。
まかせても本当に大丈夫か分かりません、逃げたら余計分かりません。
私には、仏様の力はさっぱり分かりませんが、そのすごさは経典を通して、高僧を通して教えていただいています。でも、分かりませんからそれをそっくりそのまま受け入れることしか出来ません。逃げても逃げ切れないならあきらめてまかせるのが楽です。
私は逃げていないと言われる方は、あきらめて手を離してください。