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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

平行線

世の中には色々な平行線のがあります。

簡単に意見の相違という言葉で片付けられるものもあります。

ネットのやりとりを見ていても全く意思の疎通を欠いている場合があります。

これは、平行線というのかどうか分かりませんが、いつまで経っても接点を持つことがありません。

また、最近の国際政治の世界でもそうなのですが、たとえば日本と中国や韓国との関係では、そもそも議論の土台から異なっているため、意見の一致を見ることがありません。

結局、どれだけ話しても平行線をたどるばかりです。

阿弥陀様の救いに関しても教えの受け止め方というか、理解の仕方が異なるため、全く平行線の議論をなんども繰り返しています。

親鸞会は三願転入で救われると教えます。ところが阿弥陀様は今救うと言われています。

そもそも三願転入は教行信証のほんの一部にしか書かれていないことです。その他ほとんどは、今、私たちにかけられた阿弥陀様の願いに対する親鸞聖人の讃談です。

今の救いを強調されているのがほとんどなんです。

ところが、親鸞会の会長は三願転入を教団の維持の柱としているため、絶対に曲げることはありません。ですから、その弟子達ももどれだけ他のひとから根拠を示されても、意見の相違というか平行線をたどっています。

しかし、そのなかから一人、また一人と教えの矛盾に気がつかれる方が出てくるのです。

有り難い事に親鸞会の教義に対して反論しているサイトのおかげなのです。

平行線にいる人が、こちらの世界を客観視したとき、今までの教えの矛盾に驚かれるのです。

結局、最後は真実が勝つのです。嘘は化けの皮がはがれるのです。

では、阿弥陀様と私についてはどうでしょう。

阿弥陀様は真実ですので必ず勝ちます。私は虚仮不実ですので必ず負けます。

ところが自分の考えていることは、常に正しいと思っています。もうちょっとわかりやすく言いますと、ご法話を正しく聞いていると思っています。

なぜなら、言葉も理解できますし、意味もよく分かります。しかし、阿弥陀様の救いを我が物に出来ないのは何故か。

残念ながら正しく聞いていないのです。正確に言えば正しく聞くことが出来ないのです。なぜなら仏様の言葉は奥がものすごく深いのですが、私は言葉を全く浅薄な感情でもって浅薄な意味程度にしか理解していないからなのです。

もう少し言いましょう。

サッカー選手が試合後、後「疲れた」言ったとしましょう。その疲れ方と私がちょっと体を動かして「疲れた」と言った疲れ方はどうでしょうか。

美術館で絵画の専門家が見た絵画の見方と私が適当に絵画を見た場合の見方はどうでしょう。同じ絵を見て「すばらしい」と思っていても、その「すばらしい」内容は全く異なったものかもしれません。

ようするに受け止め方が全く異なっていると言うことがあるかもしれないのです。

阿弥陀様の救いに対して、私の思いはどうなのか。

この虚仮不実に気がつかないといつまで経っても平行線なのです。

虚仮不実に気づかされたら、きちんと阿弥陀様の救いが待っておられます。

平行線が一直線になります。

平行線が一直線になったら、なにも文句をいう必要がありません。

後に起こる感情は放っておけばいいのです。

ところが虚仮不実は分かるのですがと言われる方は、一直線にいながらそれを拒否されている方です。

簡単に言えば救われるのを拒否されているのです。

そんなことは無い、私は救われようと思っていると言われるでしょうが、それが平行線ということです。虚仮不実がそのままのお目当てだと言われているのですから。

それだけなんですけど。

 

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