法は自分のこととして聞くことが出来るかどうかが要です。
あの人と同じになろうとするのも方向違いです。
ところが自分の大好きな人が法を喜んでいるとどうしても「あの人と同じになりたい。」と思うのは人情です。
私もあの人のようになりたいと思う人が何人かいます。
ところがどんどんそれを突き詰めていくとお釈迦様と一緒になりたいと思っているとんでもない自分にあるとき気がつきました。
これは煩悩なのか何なのかさっぱ分かりませんが、目指すべきはお釈迦様だとなんとなく思うのです。
まったく根拠はありませんが、目指すべきはお釈迦様なのです。
ところで、お釈迦様のお陰により今生で阿弥陀様のお念仏とご縁を結ばせていただきました。
ところが弥勒菩薩は最後に「分かりません、どうか教えてください。」と頭が下がらないために56億7千万年の修行をすることになったと言われております。
ということは56億7千万年たってやっと頭が下がると言うことでしょうか。
これはとんでもないことです。
だって、菩薩とはいえ、神通力はすべて備えているわけです。
仏様の教えだって自由に聞きに行ける能力もあるわけです。
ところが頭が下がらないばっかりに修行のやり直しをさせられているわけです。
さっぱり分かりません。
私もなかなか頭は下がりませんが、しかし、そこまでではないと自分では思っています。
ところがちょっと待ってください。
ひょっとかすると自分はずーっと頭が下がらなかったのかもしれません。
そのせいで六道をどれだけ経巡ったか分かったものではありません。
しかし、そんなことは全く覚えていません。
菩薩の神通力も一切無い頭で勝手に弥勒菩薩のことを考えています。
こいつはどうしたことでしょうか。
うぬぼれるにもほどがあるのですが、止めることが出来ません。
恥も外聞も一切お構いなしな自分。
本当に困ったものは、自分なのでしょうが、それが理解できていないのです。
指摘されて始めて「へ~、そうなの?」と疑問符が付くぐらいです。
どうしたものでしょう。
そんな私のことを仏法では、智恵が無いと言われます。ようするに無知です。
仏様の目から見た私は本当は哀れで仕方ないのでしょう。
本人は、全く自覚がありません。
その仏の教えを自分のこととして聞くことが本当に出来るのか。
自分では自覚が無いが病気であることを教えていただくのが仏法なのでしょう。
何度も言いますが自覚が無い病気にずっと罹っているようなものだと言われているのです。
確かにそう、思います。
結局、自分のこととして聞いているつもりでも、ほんの一部しか聞いていないのが私でしょうか。
やはり、落ちるしかないですね。行も善も何も出来ないのですから。
念佛は、まことに淨土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからさふらう。そのゆへは、自餘の行もはげみて佛になるべかりける身が、念佛をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(歎異抄 第二章)
追加です。
「仏はひとり我がために法を説きたもう 余人のためにはあらず」『大智度論』龍樹菩薩