私は何でもかんでも思い込みます。
あの人はこういう人だ、あの場所はこうだ、あの味はこうだ、あの体験はこうだとか。自分が見たもの聞いたもの触れたもの体験したものしか信用しません。
一人の人間がどれだけの体験を一生に出来るか分かりませんが、限られた情報のなかから自分がこうだと思うもの、また、大多数の人がそう思っているもを疑うことはしません。
その情報を元に私の思いに従って行動します。
それが他の人にとってどう思われるかなんて考えたことはほとんどありません。
そして自分が幸せになるために自分が良いと思うことは何でもします。
ところがここに無知が加わると大変なことになります。
最近のことですが日本と中国および韓国の外交上の関係があまりよくありません。
中国と韓国の日本人に対する無知はあまりあるものがあります。また、日本も両国に対して蔑んでいる感情が無いとは言えません。
中国と韓国の新聞社の日本語ホームページを読んでいると日本の情報があまりに共有されていないことが分かります。記者の人は知っているのですが、自分の国から批判されるためあえて日本を批判する記事を書きます。その結果、一般読者は情報が共有されていないため記者の書いた記事に影響されています。
挙げ句の果てに行動として日本批判を繰り返します。
これは、マインドコントロールと言っても良いのかもしれません。戦前の情報統制と同じ状態でしょう。最近ようやく解放されましたが産経新聞の韓国支局長が長く韓国に留められ日本に帰ることが出来ませんでした。
理由は、韓国大統領を誹謗中傷したという理由からでした。詳細は書きませんが非常に幼稚な問題でした。
このように力や影響力のある人が扇動すれば、多くの人はその通りだと思い込みます。
親鸞会では、本願寺批判がこれに当たります。それはごく一部の良く考えた人たちによって誘導されていました。
どうしたら誘導できるのか。どうしたら文句言わずに人を動かすことが出来るのか、そのことを考え抜いた方法で誘導されるためアホな私はすぐ引っかかってしまいます。詐欺もこの方法を利用しているのでしょう。
まことに思い込み易い体質というか心理を持っているのが私であり、私たちと言えるのでしょう。
では、その思い込みからどうしたら抜け出ることができるのか。
先人達の言葉には深い思索と体験に基づいた言葉の重みがあります。しかし、その遺産である言葉も人に教えなければ廃れていってしまいます。
その意味を教えてもらうか勉強するかしないと言葉の意味を理解できません。
勉強は一人で出来るのですが、周りの人がこれが正しいと声高々に叫ばれると「あの人が言っているのだから大丈夫。」となってしまいます。
親鸞会の講師部の学歴による登用はこれを端的に表しています。
そして偏差値教育を受けた私はすぐに引っかかってしまいます。
最後は思い込みによりおかしいと思いながらも何でも行動してしまいます。
オウム真理教にだまされても不思議の無いのが自分でしょう。
騙されたことの無い人からすればアホな奴らと思われるでしょう。
しかしそれほどお人好しということです。
私の知り合いは、親鸞会の嘘から目覚めたその後、数日間寝込んでしまいました。
信じてきたものに裏切られたショックはいかほどでしょうか。
では、ここで阿弥陀様の御本願については如何でしょうか。
南無阿弥陀仏が私の後生を救うというおいわれをどれだけ聞かせられてもマインドコントロールされません。お釈迦様を始め七高僧方や妙好人と呼ばれる方などあらゆる方から南無阿弥陀仏が本当だぞといわれてもちっともそうかと思い込みません。
どうしてでしょう。
目に見えないからでしょうか。しかし、南無阿弥陀仏は現実に存在しています。
経典の文字となって、音となって、また人の声を通して確実に存在しています。
ここを極難信だからという言葉で片付けたくはありません。
もっと簡単に思い込んでも良いと思うのですが、実際には本当に苦労します。
実は撥ね付ける自分がそこにいます。わたしは、自分に都合の悪いものは撥ね付けるのです。
どうも南無阿弥陀仏は自分に都合の悪いものなのでしょう。
でなければ摂取不捨の願(逃げるものを追っかけて捕まえる)とは言われません。
なぜ撥ね付けるのでしょうか。
私の本当の姿見せつけるからではないでしょうか。南無阿弥陀仏は、見たくない自分の姿を見せつけるからどうしてもうけつけないのでしょう。
「仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し」とならないのは、生起が信じられないからではないでしょうか。そもそも簡単に信じられるならもっと沢山の人がお念仏に生かされていても良いはずなのに現実にはなかなか受け入れられていません。
中には本末だけで喜んでいる人も多いかもしれません。
いずれにしてもこちらに問題があるのでしょう。
思い込んだら試練の道を行くが男のど根性
ここから離れることも大事なのですね。
夜もすがら 仏の道を たずぬれば わが心にぞ たずね入りぬる(一休禅師)