とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

退会者の獲信

阿弥陀様を信じられない人は多いでしょう。

ところが親鸞会とご縁を結んだことにより、阿弥陀様とのご縁を結ぶことができました。このことは親鸞会に感謝しなければならないことかもしれません。

しかし、親鸞会はそこで終わってしまって、お念仏や阿弥陀様の救いだとか願いの話が抜けています。だから親鸞会を退会すれば阿弥陀様が今私を呼んでおられるお話が沢山聞かせていただけます。まあ、そのことはいろいろなブログで書かれていますので割愛します。

一方、親鸞会と関係なくお念仏とのご縁を結ばれた方もいると思いますが、たとえ阿弥陀様とご縁が出来たとしても、そもそも阿弥陀様を感じることも存在を知ることも煩悩具足の凡夫には不可能です。

ところが私という仏を拒否する存在が何故か阿弥陀様を感じることが出来るようになるのです。

なぜならそれが阿弥陀様の誓いだからです。本願成就文に書かれている通りです。

観無量寿経にも書かれていますが、下品下生の凡夫が臨終に善知識に遇いお念仏を称えれば必ず往生すると言われています。

これは今、現在、私が臨終にあると思えれば(注:自分で思い込むことではありません)、そして、今、現在、南無阿弥陀仏を称えさせていただければ往生できる身になると言われているのではないかと私は思うのです。

大事なのは今、現在、私が臨終にあると思わされることです。

そう思わされると私の本当の姿が人それぞれですが知らされるのです。

当たり前なのですが、人間はいつ死んでもしかたない存在です。

親鸞聖人も言われる通り、「俺たちに明日は無い」のです。

そんな不安定で何も根っこのない私が、阿弥陀様とのご縁を結んだことにより、臨終を今と受け取ることが出来るのです。

阿弥陀様とのご縁は不思議としか言いようがないのですが、どうしようもない我が身と出会い、そして阿弥陀様と出会うことにより自分の後生の問題は解決出来るのです。

私は観無量寿経の下品下生をそう味わっています。

それで、最近知り合った人たちが立て続けに後生の問題を解決しておられます。

皆、阿弥陀様の智慧と慈悲に遇っておられます。

信前、信後のその人達の言動は、まさしく妙好人と同じ発言をされるのです。

とても有り難くお話をさせていただいています。

不思議としか言いようがありませんが、明らかに皆さんが阿弥陀様の智慧と慈悲により阿弥陀様と我が身の本当の姿に出会われているのです。

今を後生と取り詰まっているのかどうか私には分かりませんが、皆一応になんとかこの後生の問題を解決しなければと自分の問題になっていました。

その人、その人の言葉によっていろいろな言い方をされますが、味わいは皆同じで、こちらも本当に有り難くなります。

阿弥陀様のお慈悲に触れ、我が身と出会った方は、皆、二種深信を語られます。

簡単に言うと以下の通りです。

「私に救われる縁手がかりはありません。悪業しか造っていません。そして、後生に対して何も出来ません。すべて阿弥陀様のおかげです。」と。

このように私に阿弥陀様のお力を見せつけてくださいます。本当に言われることが見事に変わるのです。

そして、皆さん、親鸞会会員を退会された人ばかりなのです。

親鸞会を退会すれば信心決定出来ます。

そう私は勝手に思っています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

本願成就文

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。
かの国に生まれんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

 

下品下生(観無量寿経

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。


命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。