とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり

あさ川進さんのブログと山も山さんのブログにR1000さんの投稿記事が掲載されています。

せっかくの命なのに、その命の意味が分からず阿弥陀様に逆らってばかりのお姿がありありと書かれています。

それでも救わずにおれない阿弥陀様が勝つのは当然です。

阿弥陀様から頂いた命、これからも大切にして欲しいと思います。

さて、残念ながら昨年も沢山の無常に遇わせていただきました。

生きたくても生きられない、死を受け入れたくなくても宿業には勝てず、亡くなられた方もいます。

そのたびに私の姿を見せつけられ困ったものだと思わされました。

すべて私に真実を知らさんがためのご縁なのでしょう。

しかし、それでも特に悲しかったのは若くして亡くなった方のお葬式にお参りしたときです。

私の知り合いの子供さんが若くして亡くなりました。

この世は老少不定とは言え、まことに無常をとことん知らされます。

仏教の教えは一部の隙も無く真実です。しかし、その真実から目をそらして毎日生きている自分は、真実が目の前に現れた時、なすすべもなく立ち尽くす自分がいます。

そんな全く動かない心にも無常を無常と頭だけでも教えてくださいます。

しかし、かえずがえすも残念至極です。

子供さんの名前を呼びながらのご両親の涙はとても辛かったです。

ご冥福を祈ります。

 

 平安中期の女流歌人 和泉式部 は以下の歌を残しています。

和泉式部は愛娘に先立たれ、その時の気持ちを古歌に託して以下のように嘆いたそうです。

 

子は死にて たどり行くらん死出の旅 道知れぬとて帰りこよかし

(子供は死んでしまったが、「浄土への道が分からない」といって帰っておいで)

 

ところが以下の歌を次に残しているのです。

 

夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり

 

和泉式部に何があったか私は知るよしもありませんが、この歌を書くだけの無常を感じられたのは間違いありませんし、その後、善知識に遇われたのかもしれません。

善知識から仏法を聞かせていただき、この世の無常と仏様の教えを聞かせていただき、そこで仏の救いに遇われたのかもしれません。

この世は畳一枚下で地獄(三悪道)の業火が燃えていると言われます。

ところがその業火の中を仏法を聞き求める人は希の中の希な人です。

このことを子供の死を通して知らされ、生死出ずべき道を尋ねる人はどれだけおられるでしょうか。

今は悲しみに暮れ何も言葉が入ってこないかもしれません。

それでも生きて行かなければなりません。

あの子はどこへ行ったのか、もう戻っては来ない。

そして、私は何処へ行くのか。

問題が私のこととなったとき初めてその問題の大きさに気づかされるのです。

何処へ向かったら良いのか。

 

幸いにも私は阿弥陀様とご縁を結ばせていただきました。

生死出ずべき道を教えて頂きました。

この道を尋ね行く機会はいくらでも私の周りにあるんです。

後はご自分の意思一つです。

阿弥陀様とのご縁、本当に大事です。

自分にも言い聞かせています。

 

 

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