涅槃経にはアジャセ大王の獲信(悟り)のことが事細かに書かれています。
とりあえず、獲信と悟りが同じかどうかは分かりませんが、似ているので同じようなものとして書いていきます。
親鸞聖人は教行信証信巻にほとんどを引用され仏様の救いを述べておられます。
ここで重要なのは、無根の信です。
根が生えることのない場所から花が咲く。
信心と無関係の私に、信心が起きるということです。
とても長いのでかいつまんで書きます。
アジャセの悪行は割愛します。
アジャセは父や母を苦しめたことや悪行を後悔します。
アジャセはビンバシャラ王を殺害(自殺の説もあります)してしまった罪に驚き体中が瘡(膿が出る病気)になります。
そこで6人の大臣(六師外道)からいろいろ言われますが、最後にギバ大臣から釈尊のお話を聞きなさいと諭されます。
また、夢にビンバシャラ王が出てギバの言う通り釈尊の話を聞けと言われます。
そこで因果の法について話します。
アジャセはさらに苦しくなります。
お釈迦様はアジャセの為に涅槃に入らないと説法中の聴衆に言います。
お釈迦様はアジャセのために月愛三昧に入ります。
アジャセの病気を治すためです。
アジャセの病気はみるみる治っていきます。
それでもアジャセはお釈迦様に会うことをためらいます。
お釈迦様に会いに行くことは出来ない、このまま地獄に落ちてしまうとだだをこねます。ギバに象に乗せられますが、落ちないように捕まえてくれとギバに頼みます。
やっとのことでお釈迦様に会うことが出来ました。
お釈迦様は、アジャセの名を呼びます。そして法を説くのです。
空(有無の見など)を説かれるのです。
アジャセはたちどころに阿耨多羅三藐三菩提を起こします。
そして、地獄に落ちてもかまわないから自分と縁のあった人を助けたいと言うのです。
どうですか、この変わりよう。
無根の信です。
信心の根がないのに信の花が咲くのです。
助かる縁手がかりが無いのに救われるのです。
私たちが聞かせていただいている南無阿弥陀仏はまさにこれだと思います。
ただ、自分の悪行に後悔と懺悔はしていますが、アジャセは善と呼ばれることは一切していません。
親鸞会では当然ながら教行信証の大事なところを皆避けて教えます。
そして善も欲しからず、悪をも恐れず、は南無阿弥陀仏のことであり私の事ではありません。
しかし、その何物も恐れない御名号が現在、ただ今、落ちるそのままの私に届いているのです。
こちらは言われるがまま称えるだけです。