とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

三願転入と現在の救いについて

三願転入については親鸞聖人が教行信証に書かれていますが、それはいろいろなブログで言われる通り、それでは救われない、真宗の教えではないと言われて間違えるなよと諭された教えながら、やはり、三願転入を持ち出すことは今の時代だけで無く、過去にもあったことだと思われます。

その一番大きな原因については、時間という非常に理解できない概念が私たちを取り囲んでいるからだと思います。

とにかく自分が物事を理解するには時間が必要です。瞬間的に理解はできません。

ところが時間というものは、本当は三次元では無く四次元的なものだと仏教の教えでは言われます。

たとえば、お釈迦様は二六〇〇年前におられた方で今はおられないのですが、法を聞いている私たちは二六〇〇年前の法を聞いているわけで、そこではお釈迦様の時代と同じ空間にいると言われます。

「へ~、何それ?」と思われるかもしれませんが、そういうことです。

私たちが聞かせていただいている法は、二六〇〇年前ながら現在ただ今、聞かせていただいているのです。

時空を超えて法は届いているのです。

では、その時間とは何かというと、今のこの瞬間のみで過去も未来も無いと言われます。

そうすると三願転入などということ自体が全く無意味な言葉になります。だって、三願を順番に進むと言うことですから、時間的に順番に進むと言うことは無いとしたら、三願転入など無くそのまま一願になります。

三願転入が実は一願であったと。

そうは言っても現実には、私の頭はボンクラですので一つ一つを時間をかけて理解していきます。そうするとどうしても味わいとして、「あ~、ある意味三願を通ってきたかも。」と思ってしまいます。

でも、ここがくせもので実は阿弥陀様の方が先手であり、私の思いよりも先に南無阿弥陀仏は私に届けられていたわけで、「何が三願転入か」と仏様から見れば思われているのです。

ずっと「現在、ただ今、落ちるそのままのお前を救う」と言われ続けているわけですから、一願なのです。

でも、やっぱり分かりませんという声が聞こえますが、それが迷っている証拠だと言われます。

本来、迷いについても「あるのでも無い、無いのでもない」と言われるからです。

訳が分かりません。

分かる頭があると思っているのが迷いです。仏の教えを自分の頭で理解できると思っているのが自惚れそのものです。

仏の教えは、そんな小さな教えではありません。

さ~、さっぱり分からなくなってきました。

仏様の救いは現在、ただ今、落ちるそのまま。

分からんそのままです。

どうですか、まだ、理解しようとしていますか。

もう一度言います。分からんそのままです。

 

書きながら「本当に貴方分かっているの?」という声が聞こえます。

はは、分からんそのままです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏