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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

阿弥陀様の本願とマインドコントロールはどこが違うのか。

  まず、マインドコントロールについてwikiには以下のようにあります。
「マインドコントロールとは、他人の思想や情報をコントロールし、個人が意思決定する際に、特定の結論へと誘導する技術を指す概念である。」
 ただし、マインドコントロールは良い意味の言葉では無く、もともと自分の意思を他人にコントロールされという状態であるため、マインドコントロールから解放されるべきであるというのが基本概念にあります。
 ちなみに、洗脳は暴力を伴いますのでマインドコントロールとは異なります。

 これらを踏まえて親鸞会のマインドコントロールと本願の救いを比較すると全く異なることが分かります。

 まず、親鸞会にマインドコントロールされているというのは具体的にどうイメージされているか分かりませんが、私の個人的な見解を書きます。
  親鸞会にマインドコントロールされるというのは、通常一般的な社会的常識を無視し、人の感情も無視し、親鸞会、特に高森会長の正しいと言われることを自分も正しいと思い人生の規範とし行動する状態ではないかと思います。
 ところが退会して思ったのですが、ある意味私は常識というものにマインドコントロールされているのではないか、この社会自身が正しいとか正しくないとかそんなこと関係なく私をマインドコントロールしているのではないかと思いましたね。
 そうすると何がマインドコントロールなのか分からなくなってしまいました。
 今まで高森会長の言う通りにするということは、親鸞会という組織の目指すところを私もめざし、その組織の目標通りのことを行うということです。具体的には、親鸞会が言う信心決定を自身もめざし、その目的のために、親鸞会だけでの聴聞、人の勧誘、財施などをすることです。
 その事については、別の教え(正しい浄土真宗の教え)により、親鸞会の目指していたものが社会一般的な常識から外れていることに気がつき退会をしたわけですが、では、退会したらどうかと言えば社会一般的な多数派に鞍替えをしただけのような気もしていました。
 ですので、退会後しばらくは、また騙されるのではないかと疑心暗鬼の状態でした。
 そして別の教え(正しい浄土真宗の教え)が正しいと判断したもっとも重要な要素は、信心決定されたと思われる人が本当に沢山いるようだということ、そして高森会長が自分の欲望を満たすための存在が親鸞会だと知ったときでした。
 ところがその信心決定されていると思われる人達が本当なのか嘘なのかが分かるにはいろいろ検証する必要がありました。
 具体的にはいろいろな先生のお話を聞いてみることでした。
 そうするうちに正しいと思われる教えとそうで無いものとの区別が出来るようになってきました。
 ようやくここで親鸞会からのマインドコントロールから本当に離れることが出来ました。
 正しい教えが本当に正しいのかどうかは別として、自分の意思で自由に判断できる状態がマインドコントロールから解放された状態と言えると思います。

 私の場合はこのようでしたが、では次に信心決定とは、自他力廃立とは、本願に救われた状態はどういう状態なのかということです。
 それは御念仏あるいは御本願の目指すとおりになり、その状態を発揮すると言うことだと思います。
 親鸞聖人のお言葉を借りれば「仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し」の状態です。 あるいは二種一具の深信の状態です。
 その状態は、どういう状態なのか。
 信心決定の状態は、以前私のブログでも紹介しましたが、再度紹介しておきます。


 「真宗安心五十問答」を読んで見てください。今は「21世紀の浄土真宗を考える会」のブログに残っています。


 では仏願とは何か、それは私を仏にすると言うことです。仏にする、今生では必ず仏に成る身にさせてみせると言うことです。
 さて、仏とは何か。親鸞会にいた人なら分かると思いますが、仏とは「自覚、覚他、覚行窮満」、真理を自らさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、すべて満足している者(覚行窮満)の意であり、自覚で凡夫と区別し、覚他で二乗と区別し、覚行窮満で菩薩と区別する、仏に成るというのは簡単に言えば衆生済度するということです。
 ですから本願に救われた状態とは、本願の働きを無疑心の状態で信じ、御念仏をしている状態であり、さらには本願は私を仏にすると言われるわけですから、この状態は正定聚の菩薩になる訳ですので仏様の衆生済度にお手伝いさせていただき、走り回っている状態ではないかと思うのです。
 さらに本願は十方衆生を相手の本願です。イスラム教キリスト教の人も対象です。
 親鸞会のマインドコントロールは、自分だけが正しいという教えですが、本願は他の宗教の人も助けると言われているわけです。
 本願の通りになると言うことは、他の宗教の人を非難したり排除したりすることはあり得ません。なぜなら阿弥陀様は十方衆生(私)をなんとか救いたいと思われているのですから。
 そうすると他の宗教の人に対しても寛容の心を持っておられるのが仏様で有り、仏様の教えの通りに救われた人は同様の寛容の心があるのが理想の姿だと思います。
 そうはいっても、煩悩具足の人間ですので理想通りとはいきませんが、そうあるべき姿が目指すべき姿だと私は思います。ちなみに大原問答の時、法然上人は他宗の人を非難はしていないと聞いています。

 繰り返しになりますが、本願に救われると言うことは、自分に仏様の心を頂く状態ですので、すべて阿弥陀様の言いなりという状態でしょう。
wikiの言葉を借りれば、阿弥陀仏による救いとは「阿弥陀仏が私の思想や情報をコントロールし、私が意思決定する際に、特定の結論(仏となり衆生済度を行う状態)へと誘導する技術を指す概念である。」ということになります。これはこれで100%とは言えませんが正しい部分もあるでしょう。

さらに言いますと、仮に本願に救われたと思っても、そのマインドコンロールから解放された場合、つまり、自分は阿弥陀様には救われていないと思われた場合、阿弥陀様の救いを全く信じていない人の場合、その時は自ら新たな道を歩むことになるのではないかと思います。(適切ではありませんがあえて使ってみました)

 それでも、私は親鸞聖人の次のお言葉を有り難く頂きます。

 

念佛は、まことに淨土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからさふらう。そのゆへは、自餘の行もはげみて佛になるべかりける身が、念佛をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
歎異抄 二章)

 

 このお言葉は自由意思を持って阿弥陀様の教えに帰依している状態だと思いますのでマインドコントロールから解放されている状態とも言えます。


 そもそもマインドコントロールという言葉は英語圏の人が造られた言葉です。本来その状態から抜け出すべき意味を持った言葉です。
 良い意味を持った言葉ではないと思いますので、結果的に本願に救われた状態を阿弥陀様にマインドコントロールされている状態と言うのは適切ではないと思います。

 


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸:弥勒菩薩のことも書きたいのですが長くなるので止めます。