とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

生活即求道について

仏教を求め、信心を求めていくとき、生活即求道と教えられました。

毎日が求道である、日々の精進により信心が得られると。

一般的な通仏教はそうなのでしょう。

特に聖道門においては、すべてが求道につながるものと言われます。

比叡山永平寺などの修行はまさしく生活即求道というもので、そのための決まりが沢山あります。

私は聞きかじっただけですが、朝起床してから夜寝るまですべてが修行そのものだそうです。

昔の映画に「ファンシイダンス」という映画がありますがその一端が描かれています。

トイレの仕方も素晴らしく美しいと思いました。

本木雅弘主演の禅宗の修行を模した映画です。

興味がある方は一度見てください。

では、真宗の人においてはどうか考えてみたいと思います。

 真宗のお同行、特に在家の人はどうなのか。

出家の人は毎日仏様と向き合っていますが、そうでない時間もあります。

仏様を忘れている時間が出家の人にもあるはずです。

では、在家はどうかと言えばほとんど忘れっぱなしです。

忘れっぱなしで仏様を放っておいていることさえ忘れるくらいです。

では、どうしたらいいのでしょうか。

それは癖を付けることです。

毎日おつとめをする、できなければ御念仏を称える、などなど。

いろいろ方法はありますが、それはその人その人のやり方でいいのではないかと思います。

特に今信心に悩んでいる人は御念仏を称えることが大事だと思います。

その事にどんな価値があるかどうかわからなくてもそこに心を寄せていくのです。

私はそう思います。

生活即求道という言葉は結構かっこいい気がします。

言葉通りのことはまず、できません。また、やる気もおきません。

では、やらなくていいのかと言えば、それは正しい姿ではありません。

出来る出来ないにかかわらずやってみるのが一番かもしれませんね。

実践あるのみ。

それでも忘れっぱなしの私は本願から漏れているのか、そうではありません。

忘れっぱなしのこの私がお目当てなのです。

求め、捨て、転ずる。

機無、円成、廻施。

私は仏になれる真実の心は無い。

その私を救うために名号を造られた。

それをそっくりそのまま私に下される。

それが南無阿弥陀仏の働きです。

まずは南無阿弥陀仏と称えてください。

 

あたりまえですが、そのことが後生の一大事の解決に間に合う行為では一切ありませんのでご了承ください。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏