とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

これで良しと思いたい

分かった、そうだったのか、知らなかった、だだ今の救いだった、この身このまま落ちるままだった、地獄しか行き場が無い私がお目当てだったとは、南無阿弥陀仏が私にいる、今呼ばれている、ああ有り難い、・・・・。

ご信心を頂いたと思われる方には、それぞれの味わいがあると思います。

ですがこれで良いのかな、本当に大丈夫だろうかと疑心が起こってきます。

さあ、大変。

有り難い、南無阿弥陀仏一つで何もいらないと思うけど、本当に大丈夫だろうか。

蓮如上人も言われています。

 

御一代記聞書に

心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たなり。

と書かれています。

 

個人的には阿弥陀様のお慈悲に触れたなら、それ以上どうのこうのと言うことはもうなくなりますが、これで良しとは絶対に思えません。

なぜなら廻心と言うことは一度だけですが、信仰は深まるからです。

聞けば聞くほど深まっていくのが信仰ですが、廻心はただ一度です。

 

歎異抄には廻心については以下のようにあります。

一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。

 

「本の心をひきかえて、本願をたのみまいらする」これが廻心です。

元の自力に頼る気持ちを変えて、阿弥陀仏様の本願のほうをあてちからにするということです。

繰り返しになりますが、廻心がされてそれでO.Kかというとそこからが本当の聞法の始まりだと思います。

 

赤尾の道宗が21箇条の第1条に書かれています。

第1条 後生の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事。

油断大敵ですね。

これで良しとする心は煩悩の心かまたは自力の執心です。自分が良しになることなどありません。

命のある限り聞法はすべきですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏