- 「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
- 「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」の「はかることのできない(無量)」というアミタ(amita-)のみを音写したもの。
すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。
・・・wikiより
南無阿弥陀仏の意味としては上記の通りです。
ところで無量の光明と無量の寿命を阿弥陀と名付けたわけですので、阿弥陀仏の本質は、無量の光明であり無量の寿命と言うことになります。
ここを少し掘り下げてみたいと思います。
まず、無量とは永遠と言ってもいいでしょう。始まりの無い過去から終わりの無い未来に向かって果てしなく続くということです。
無量の寿命とは死なないということです。死なないというのはずっと有り続けることであり、無くならないと言うことです。命がずっと有り続け死ぬと言うことが無い。
無量の光明とは光に限りがないということです。光のあたらないところは無い。すべてが光に包まれているということです。
この二つをどう考えたらいいのか。
寿命無量とは慈悲の事と言われます。私に対して命をつなぎ続ける働きです。その働きにより私は生死を繰り返しながらも今、人間界に生まれさせていただき、無量ということを考えさせられている、命を私に与え続ける働きは仏様の無量の命から頂いている、それが仏の慈悲の心ではないかと思います。また、慈悲には抜苦与楽の意味もあります。苦しんでいる私を何とか楽にさせてやりたいと思う心です。
光明無量とは智慧の事と言われます。常に私に知らせようと光を当て続ているのです。何を知らせようとしているかというと、私は実は迷いの塊であり、迷いのまっただ中の人間界という世界にいる、そのことを気づかせるための智慧が光明だと思います。
阿弥陀仏の十二光のなかに智慧光がありますので、衆生の迷いを打ち破る働きが阿弥陀仏の智慧光です。智慧光は私の迷いを打ち破って下さいます。
もう一つ考えてみます。
そもそも真如の世界を知ったお釈迦様の教えを聞いた弟子達は、悟りを開いた後「すべてを悟った、もうこの世界に戻ってくることは無い」と言われています。中村元先生の本にはこの言葉が結構出てきます。
そこで知らされることは、阿弥陀様を通して知らされることと同じなのか分かりませんが、仏様が言われるようにこの世と異なる世界があるとします。
あるとしますではなく、仏語に虚妄無しですので間違いなくあるのですが、その世界は真如と呼ばれる世界であり、そちらからこちらを見通す世界だとすると、こちらの世界に向かってあらゆる手立ての働きがあるとします。
それが永遠の命であり光であるとすれば、そして、その世界を聖者ではなく、知恵の無い凡夫の私に知らせるメッセージ、誦文として南無阿弥陀仏という言葉にすべての意味を込められたとしたらどうでしょう。
南無阿弥陀仏が分かろうが分かるまいが私に何かを知らせるメッセージだったんだと気がつきませんか。南無阿弥陀仏の言われを善知識と呼ばれる先生から聞き、その誦文の意味を考えてみたとき何か真理に近づいたような気がしませんか。
永遠の命と光、真如の世界からの呼びかけの言葉が南無阿弥陀仏なのです。たとえばラジオの電波のようにずーっと私に届いているのです。今、呼びかけられているのですから答えるしかないですね、南無阿弥陀仏と。