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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

分からないことは分からないと受け止める

宇宙の果てはあるのかと言われて、分かろうとしても分からないのですが、そのことを世界中の人が研究しています。

物質のもと(根源)を探ろうとしてもいつまで経っても分かりませんが、これも世界中の人が研究しています。

当然、その研究によって世の中の生活に役立つことがあるかもしれませんので大いに研究はすべきことだと思いますが、間違いなく果てしない世界が広がっているだけだと思います。

この世の中のことで私が自分の力で分かることなどまずありえません。すべて、教えてもらって記憶しているだけです。

そこそこの高校や大学を卒業すると自分は世の中のすべてを分かったような気になり、他者を馬鹿にし出す人が結構多く見られます。新聞や雑誌などのメディアにその傾向の人が結構います。

いわゆる評論家と呼ばれる人たちです。ところがこれらの人たちが世の中では幅をきかせているように思います。確かに普通の人より多くの事を知っており、また、相当な記憶力も備え、通常の人より遙かに優れた情報処理能力を駆使してあらゆる言葉の意味を理解し、人々に解釈してみせる人は本当に尊敬されるべき人でしょう。

しかし、その人が宇宙の果てや物質の根源などを間違いなく解明することはできません。命の仕組みを解明することも出来ません。自分がいつどうなるかもわかりません。

それでも、分からないことを分からないと自分で言う人は少なく思います。

テレビを見ても評論家やコメンテーターと呼ばれる人たちはこちらが正しいと自分の道を示します。それが本当に正しいのかどうか全く分からないのにもかかわらずです。何の根拠があるのか不思議に思うことがあります。

自分も自分の考えはいつもほぼ正しいという固定観念にとらわれてものごとを見てきました。特にS会時代はそれが顕著でした。また、S会を退会した今でもそういう感覚で見ていることはあるのかもしれません。分かっていなくても分かったふりをする、あるいはそれが正しいと思い込んで自分が正しいと思うことを主張するなど。

反論されるとそれに対していろんな頭の中にしか無い一部の情報や感情をもって反論します。

分からないことを分からないと正直に言うことは、まずありません。

一方で、聞いた言葉を立体的な思考を持って考える事は得意ではありません。

話を聞けば大抵のことは理解できると思っているのですが、ところが本当に理解しているかというと一面しか見ていないことがよくあります。この頭というのは多面的、立体的な思考は苦手なのです。

時間が経ってゆっくり考えてみると理解が間違っていたり、全く違った面があったりということがあります。

結局分かったつもりでいても分かっていないのです。当然、なぜ分かっていないのか、なぜ理解できていないのかその理由は探っていく必要があります。また、間違った解釈をしている場合も沢山ありますので、他の人に尋ねることも大事なことだと思います。

それでも、分からないことを分からないことと受け止めること、これは出来そうでなかなか出来ないことではないかと思います。

特に仏教の話、お釈迦様の言葉にはそういうことが多くあると思います。

阿弥陀様も同じように自分の頭で理解し体得出来るものではなく、南無阿弥陀仏をご縁として感じることしか出来ない存在なのかもしれません。

蓮如上人が御文章第5条に言われる通りです。

南無阿弥陀仏は、「無上甚深の功徳利益の広大なること、その極まりなきもの」なのです。また、現世利益和讃には沢山のお言葉がありますが、以下のお言葉を例にあげます。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまうなり」
十方諸仏が守ってくださるのですが私には本当に分かりません。   

すべてを理解し体得する力、分かる力が自分にはありません。私は無力なのです。

阿弥陀様は私にそう教えてくださっています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏