とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

信心決定はハッキリするのか?!

阿弥陀仏からのご信心を頂くとハッキリするのかしないのか、よくネットの中でも議論になっています。
特に、高森顕徹会長は、信心決定したら火に触ったよりもハッキリするとか、驚天動地の世界があるとか、大安心大満足の世界に出るとか、「現生十種の益」を生きている今受けるとか、とんでもない言葉が沢山並んでいます。
生きて良し、死んでよし、死をも恐れぬ心境になるなどとも言われます。
ところがご本人は以下のように体験記を発表しています。

あちらこちらのネットに流れていますので引用します。

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何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、M君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏

今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

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○○会発行の機関誌です。勝手に引用していますのでご容赦を。
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では、本当はどうなのか。

親鸞聖人は、教行信証に「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)などとおっしゃっておられます。

「疑いが無い、これを信楽の信心と言う」と。

 本願あるいは仏説に対する疑いがなくなった、または、そう理解したという意味に取れます。また、蓮如上人は以下のように言われています。

かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章5帖目12通)

「ご信心は私が起こすものでなく阿弥陀様からだった」と。

 

阿弥陀様に今あえた。

仏様の言われる通りだった、そのままだった。
地獄行きの私を救う本願だった。
自力無功だった。
信じる心も念じる心も求める心も無かった。
全分他力だった。
南無阿弥陀仏が本当だった。
今私を呼んでいる。
そういうことだったのか。

・・・・などなど御信心が知らされた場合のいろんな言い方があります。

 

これらは夫々の受け止め方です。
その人その人それぞれの気づき方や目覚め方、慶び方があります。大事なのは廃立がなされたかどうかです。
では、自他力廃立または自力無功となったらどうなるのか。

後生の解決について私の力は一切間に合わないことが知らされます。
個人的には、なんとか後生の一大事解決したいだとか、わからない、どうしたら救われるのかという感情が全くなくなります。

何故ならご本願はそのまま救う教えですので人によっては即御本願を受け取る人もいます。いずれにしても救われれば必ず分かります。

これを無疑心と言います。

 

では、いつ成るのかですが、それについては以下のお言葉があります。

極促とはいへども一瞬一弾指刹那の時にはあらず、唯事究竟の速なるを時尅の極促とのたまふなり。又、実時とは時尅の極促とは実際に信心の治定するのは時尅分秒を以ていふべからざる程の短促中の至極なりという。
(鈴木法琛師(すずきほうちん)明治時代の本願寺勧学)

カミソリで瞬間に切られても、その瞬間は痛いとも思いません。あるいは紙に触れて切れることもあります。
あとで切れているのが分かり痛いと思います。
 「時尅の極促」は切られたことさえ分からない早さと言うことです。
ということは、切られてもしばらく経たないと分からない人もいるということです。
しかし、切られたと言うことは分かります。
それが自力が廃ったということで
花の開き方も蓮の花のようにぱっと咲く花と、菊の花のように段々咲く花がありますが、ともに咲いたという時があります。
それが信楽になったということです。

 

何がわかるのか。
簡単に言えば、仏様の教えが本当で私は何も分からないと言うことだけです。
これも二種深信なのです。

 

阿弥陀様の叫び、南無阿弥陀仏を聞いて下さい。そのまま聞いて下さい。
阿弥陀様は必ず助けると言われているのです。
現在、ただ今、落ちるそのままのお助けです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏