高森顕徹会の方は、宿善になるからと言われて必死に財施と会員勧誘を頑張った方は多いと思います。
しかし、その方法については色々なご意見があると思います。
また、導く先が間違っていては何にもなりません。
今思い返してみて個人的に思うのは、比叡山の阿闍梨、酒井雄哉師です。
とても尊敬できます。
書かれた著書の題名を見ただけでも「違うな~」と思います。
「がんばらなくていいんだよ」、「ムダなことなどひとつもない」、「一日一生」、「今できることをやればいい」、「そのままの自分を出せばいい」など。
ただ、ご縁がなかったことが今の私には良かったと思います。
もし、ご縁がが強かったら大変です。
同じように比叡山で修行していたかもしれません。
これを宿縁と言います。
親鸞聖人は今、浄土真宗、浄土教の教えに出会って南無阿弥陀仏とのご縁のある人は「遠く宿縁を慶べ」と言われました。
では、高森顕徹会では宿善をどう解釈していたのか。
「宿善は宿世の善根ということで、過去に行った善行の事です。ですから今生でも信心決定の為に宿善になることを行いましょう。」
「財施は宿善になります、法施も同じです。聴聞と破邪顕正は宿善になります。」
「宿善が開発したら信心決定します。ちょうどどんぶりに水を入れてあふれたときが宿善開発です。そこまで宿善を積みましょう。」
以上のように教えられてきました。
ところが実際の宿善とは、簡単に書きますと以下の事です。
「過去世においての阿弥陀仏とのご縁のこと。」
ということは、今生に於いて何が出来るのか。
もちろん、財施も法施も大事ですが、それが宿善になる訳ではありません。
また、財施や法施も誰に出すかが一番問題です。
生かすも殺すも相手次第です。
福田に財施や法施をせよと高森顕徹会で言われていましたが、これも実際には下記に書いた内容ですので高森顕徹会の教えとは異なります。
たとえば敬田を仏様と言っていますが、実際には仏法僧です。
やはり、正しい浄土真宗を教えて頂くところが一番ですね。
そして、今、南無阿弥陀仏とご縁のある方、浄土真宗のご法話を聞かれている方、もっと言えば高森顕徹会の会員は皆、宿善のある方です。
ですから今生でもっと宿善を積まなければならないとか、自分は宿善が薄いとか思う必要は一切ありません。
繰り返しになりますが、宿善とは「過去世においての阿弥陀仏とのご縁のこと。」であり、現在、阿弥陀様とご縁のある方は皆宿善のある方です。
後は、南無阿弥陀仏に任せるのかどうかだけです。
宿善の「宿」は本来「自覚以前」という意味です。つまり「気がつく前」ということで、弥陀のご本願は私が気がつく前にすでに起こされていたのであります。気がついた時はすでに手遅れなのであります。
その意味からすれば、気がついた時は、たとえ私が今までに行ったとしても、私のものではなかったのであります。また「宿」の中にはただ今までの過去のすべてが入り、善とは法性にかなう浄業のことであります。
そうした浄業は如来のなさしめ給うはたらきのほかにはないわけであります。だから宿善とはどこまでも、信の上の反省と言わねばなりません。
信を通さないと宿善は出てきません。
そこには永い間、聞かせていただきながらはねつけていた私が出てまいります。お与えものをはばんでいました。邪魔をしていました。深い恵みが与えられていました。如来から計らわれていた私であります。
自分のすべてが如来のはたらきかけの中にいたのであります。たとえ無駄をしたようでも、無駄ではなかったのであります。ともかく、現在の信の反省において、如来の計らいであったといただくのが、遇い難くして今遇うことのできたこの身いっぱいの喜びであります。
今素直に掌を合わさせていただく幸せであります。
要するに、宿世の善根というほどの善は私には有ることが無いわけで、宿善は如来から私たちへのはたらきかけの善ということになります。
わが後生の問題に大事にかかってきたのがすでに宿善到来したしるしであります。
「親鸞の世界 -信の領解-」(加茂仰順師)
- 敬田 ‐ 仏法僧
- 恩田 ‐ 父母祖先など、恩に報いるべきもの
- 悲田 ‐ 貧者や病人など哀れむべきもの