阿難陀尊者は、お釈迦様のお父様、浄飯王の弟で甘露飯王の子供だそうです。
お釈迦様にとっては従兄弟に当たるわけですが、歳はかなり離れていました。
お釈迦様が出家されたあたりに生まれられたと言われていますので、35歳くらいの差になります。
また、55歳まで侍者であったと言われていますので、20歳代の時から25年間お釈迦様が亡くなるまで従われたことになります。
実はお釈迦様の侍者は阿難陀以外にもおられたのですが、どうもイマイチで何人か交代になられているようです。
その中の一人はお釈迦様の荷物を盗まれたり、盗賊に頭を張り倒されたりした者がいたようで、お弟子達がこれでは大変ということで阿難陀を説得したそうです。
しかし、阿難陀は何度も断って最後には、条件を付けて侍者になられたそうです。
その条件とは、
1 釈尊の新着の衣服または食べ物は頂かないこと。
2 釈尊が在家に請待されるときは必ずしも御随い申さないこと。
3 いつでも釈尊に見えてお給侍が出来ること。
だそうです。
よく理解できないことがあります。
1番と2番はなんとなく理解できるのですが、3番が私にはよく分かりません。
そこまで阿難陀はお釈迦様のおそばに本当はいたかったのか・・・?
もし分かる方がおられるなら教えていただきたいと思います。
また、この時27歳くらいと言う説もあります。
阿難陀の女難については、いろいろありますが個人的に一番印象に残っているのは比丘尼が阿難陀に恋をし、自分が病気であるから見舞いに来て欲しいと家に呼んで、阿難陀が来たときはあられもない姿で阿難陀を迎えたことです。
私なら・・・・してしまいますが、さすが阿難陀です。
また、阿難陀がどれだけの美男子だったかこれだけでも想像出来ます。
そして、阿難陀は比丘尼に言います。
「妹よ、穢れた食べ物で身を養ってはならない。
驕慢の心をもって心を養ってはならない。
淫欲をもって心を養ってはならない。
・・・・」
他にも沢山書かれていますが、自分ではとても想像出来ない差があります。
また、阿難陀の身体にできものが出来たとき、阿難陀が聞法中にできものを取り去ったということがありました。後で阿難陀はその事を言われても気がつかなかったそうです。聞法とはそういう気持ちで聞かせてもらうものだと書かれています。
その後、25年にわたってお釈迦様に随われますが、阿羅漢の悟りがどうしても開くことが出来ません。
お釈迦様が亡くなられる直前、暫くしたら悟りを開くであろうと予言されています。
しかし、お釈迦様が亡くなられても阿難陀は悟りが開かれません。そして、お釈迦様が亡くなられて悲嘆に暮れます。
しばらくして、安居の時期に金剛子と一緒に群衆に説法しているとき、金剛子は阿羅漢の悟りを開いていない阿難陀が説法しているのは問題だと思われそのことを阿難陀に伝えたのでした。
阿難は言葉を覚えていてもそのお心の深いところが分かっていないのではないかと金剛子は思われたのでしょう。
阿難陀はそれから悶々とします。
それから第一結集の時が来ますが、まだ阿羅漢の悟りが開けません。
そして、極めつけは迦葉尊者から結集には阿難陀は出席できないと告げられます。
迦葉尊者は、お釈迦様のお言葉を後世に伝えるこの大事な時に阿羅漢の悟りを開いていない者の意見を入れるわけにはいかなかったのです。
苦しむ阿難陀。
お釈迦様のご説法が頭を駆け巡ります。
この時、阿難陀は外に向いていた自分の目が、内側に向いたと書かれています。
そして夜を徹して我が心と対峙されます。
翌朝、阿難陀は晴れて阿羅漢の悟りをいただき、結集に間に合います。
その時の阿難陀は雲間から朝日が差すように晴れ晴れしていたと書かれています。
こののち20数年後、阿難陀は説法をし続け、最後は争う国に流れる河の真ん中で涅槃に入られます。
それぞれの国の王が阿難陀を尊敬していたのです。
どちらにつくこともなく釈尊と同じ中道を行かれたのかなと勝手に思っています。
知れば知るほど、すごい人だったんだと思います。
戒律も守りお釈迦様の侍者を25年にわたり仕えられ、超人的な神通力や記憶力によって多くの人々を導き、今なお阿難陀の存在を輝かせているこの事実は、間違いなく菩薩様であり、また、仏様の生まれ変わりでありましょう。
この話をどこまで信じられるかはその人その人のご縁です。
アホかと思われる方もおられるでしょう。
実際、お釈迦様の時代でもお釈迦様を慕った人が1/3、反発した人が1/3、全く縁の無かった人が1/3と言われています。
自惚れかもしれませんが、今、このブログを読まれている方達はお釈迦様の時代、直接ご説法を聞かれたご縁のあった方たちかもしれません。
有り難い事です。
出典:仏弟子伝