新しい年を迎えることが出来ました。
このブログも3年を過ぎ、我ながらよく続いていると思っています。
いつ止めるかわかりませんが、皆様、また暫くおつきあいください。
最近よく思うことで、内なる声といいますか「お前は、この世に何しに来た?」と聞こえてきます。
自分は何をしにこの世の中に生まれてきたのか、正月を何度も何度も繰り返して楽しく飲んで騒いで皆の健康を祈りながら、それでも時間は確実に流れ、時は移ろっていきます。
子供の頃いた叔父さんや叔母さんはどんどん亡くなっていきます。
一方で新しい命が生まれています。
自分も歳を重ねどんどん老化していきます。止めることは出来ません。
小野小町じゃないけれど花の色が移り変わっていくように人生も移り変わっていくのが定めであり事実です。
今という瞬間しかなく、過ぎ去った過去を繰り返すことは出来ません。
とにかく生まれてきてしまったのですから生きるしかないのですが、生きている間にいろいろ考えるようになってきます。
成長と共に周りを見ながら成功や幸福をどうしたら得られるのかそれだけを一生懸命考えるようになります。
自分の煩悩を満足させるためにと考えるのですが、どもうそれで満足出来るとは思えないと思ってしまう自分と向き合うことになります。
本当にこの人生、皆がしているような生き方で良いのか、悩んでしまいます。
悩まない人の方が本当は多いのかもしれませんが、私は壊れない幸福というものを求めてしまいました。
子供の頃は大人になれば完成された人間になると思っていました。
心の平安、何ものにも動じないそんな心をもった人間になれると思っていました。
その心を手に入れれば強くたくましく生きられるのではないか。
今考えてみると、何ものにも動じない心は死んでいるか、それとも悟っているかのどちらかでしょう。
とにかくそう思わされるのも宿縁なのでしょうね。
出家する人であれ在家でいる人であれこの世が苦しい世界だと思った時点で、仏というか何か普遍的な力によって気づかされているのかもしれません。
無常を無常とも思わない生活の繰り返しで、やはり無常を感じずにはおられないように仕向けられている世界が人間界なのでしょう。
この世の中に真実と呼べるものがあるのか、無いのか、そんなことを考えても仕方が無いのですが、考えずにおられないそういう自分はおかしいのではないのか、などなどいろんな人が人生に悩んでいらっしゃるのは事実です。
私はあまり好きではないですが椎名林檎の歌の歌詞は、そのことを強く感じさせます。
そして、それでも真実と呼べる教えを探そうとするのは目に見えない力が働いているからとしか思えないのです。
阿弥陀様は、光明無量、寿命無量の働きによって私を救おうとされています。
光明と寿命の無量の働きを「阿弥陀」と名付けられたと言われます。
たまたま、その働きに「阿弥陀」と名前を付けただけかもしれません。
なぜ「阿弥陀」なのか、その音にどんな意味があるのか、アミターバあるいはアミターユスというサンスクリット語の音にどんなことが隠されているのか。
アミターバ、アミターユスは光明無量、寿命無量の意味があるそうですが、その意味ではなく「音」にどんな力が隠されているのか、なぜアミターバなのか不思議としか言いようがありません。
別にアミターバではなく、バババーとかドドドーとかガーンとかそういう音でも良かったのになぜアミターバという音なのか分かりませんが、お釈迦様がそう言われたのですからアミターバ、アミターユスが「阿弥陀」さまでありそれが事実です。
そしてその「阿弥陀」という仏に二つの力があると教えてくださいます。
そのひとつ、「光明」は光です。光はものを明るく照らし出し、そのものの姿を明らかにします。
言い方を変えれば分からないものを正しく見えさせると言えます。
もう一つ、「寿命」は続くと言うことです。
ずっと続くと言うことは、果てしがないということで、働き続けるということです。
切れ目無く働き続くということにより私に何かを知らせようとされる力があると言うことです。
この二つのお力により私が南無阿弥陀仏と出会うことが出来るのです。
また、仮に自然の力を「阿弥陀」としたならば、この宇宙全体が「阿弥陀」と言えないこともありません。
この宇宙は光が至る所にあり、また、永遠に続いています。
ひょっとかするとこの世界を動かしている元、永遠を司っている力が「阿弥陀」かもしれないと思うことがあります。
また、その「阿弥陀」の力が南無阿弥陀仏の六字の御名号となって私を呼んでいます。
そうお釈迦様が教えてくださったから南無阿弥陀仏を知ることが出来たのですが、しかし、一方でこの南無阿弥陀仏に今遇わせて頂いている人と、そうで無い人がいるのが事実です。ただ、この事実は実は私の頭で考えた事実であって本当かどうかはまた、闇の中です。
これまでの人生経験から出会いがあった場合と無かった場合の経験を元に判断しているだけです。
今の私にはこの南無阿弥陀仏があって良かったとしか思えないのですが、お釈迦様は私の能力を見通してこの南無阿弥陀仏があることを教えてくださったのかもしれません。
これしか、南無阿弥陀仏にしか私に「真実」と向き合わせる力は無いと判断されたのでしょう。
そして、あらゆる出会いや経験によって、それを何度も何度も、何生も何生も繰り返し、待って、待って、待ち続けておられるのが阿弥陀様なのかもしれません。
やっと南無阿弥陀仏と出会うことが出来たと思っていても、先手の阿弥陀様のお力が無ければ出会うことが無かったことでしょう。
この出会いが「真実」との出会いなのかどうなのかさえ私の力で判断できないのにも関わらずです。
YOUは、(お前は)この世に何しに来た?