とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

信心決定は、下の心(阿頼耶識)が「ハイ」と聞くことなのか。

園児さんからコメントを頂きました。それについて考えてみました。

・・・・(高森顕徹)会長が講演で人形の絵を書いて頭に丸を書いて「上の心」として、お腹の中に丸を書いて「下の心」としたものです。
「上の心」は人間の頭脳で、「下の心」は「逆謗の屍」である本心(阿頼耶識?)であると。
「上の心」である頭ではわかってもこの「下の心」が仏教を聞こうとせず、信心決定が
出来ないというのです。
聴聞の聴は「上の心」が聴くこと、聞は「下の心」が聞くことという説明もありました。
聴聞を重ねていくといつか「下の心」が「ハイ」と聞く瞬間が生涯に一度あってそれが
信心決定の瞬間であるという説明でした。
・・・・・信前にある「〇〇が分かりません」「〇〇と思えません」という心が「ハイ」と返事して分かるようになるものでしょうか?
それとも「〇〇が分かりません」というままで(つまりは「ハイ」という瞬間がなく)救われるのでしょうか?・・・・・

 

まず、最近の高森顕徹会では上の心と下の心と人間の心理を分けて考える話は聞いたことがありません。
園児さんが言われるように30年前は、そのように言われていました。
阿頼耶識がうんともすんとも言わない、これが「ハイ」と聞くのが信心決定と何度も言われていました。
頭で分かっても腹底が納得しなければ駄目だというような言い方もされていました。
また、地獄一定と落ちきったところで阿弥陀仏の呼び声が聞こえるとも言われていました。
ですので古い会員ほど、そう成らなければ救われないと思い込んでいる人が多いと思います。

では、上の心と下の心は何か。
これはご存じの通り唯識から来ています。

唯識は難しいとよくいわれていましたが、唯識の前に倶舎論(因縁果について論じている)を勉強してから唯識を勉強するそうです。倶舎八年、唯識三年と言われるそうです。
安田理深先生は「唯識真宗と二つあるのではない。唯識唯識真宗真宗というものではない」と言われたそうです。
少しずれますが、曽我量深先生は「法蔵菩薩とは阿頼耶識なり」と言われています。
曽我先生は、ちょっと変わっていて異安心扱いをされ、大谷大学を辞めています。


唯識が日本に伝わった元は、中国の三蔵玄奘が、この唯識の原典を読みたいが為に国禁を犯して印度へ行かれ、経典を持ち帰ってきたのが日本に伝わって法相宗となりました。

唯識では、上の心は第六識(五感を通して考えたり感じたりする心)、五蘊により反応する心と言われます。
第七識に末那識がありますが、これは我執の心と言われます。常に自分にこだわる心で煩悩の根本と言われます。三毒の煩悩がこれにあたります。
そして第八識に阿頼耶識があります。この識はすべての業の種子(しゅうじ)をため込んでいるだけで、特にここから何かが出てくるわけではなく縁に催されて新たな業を造っていく為のところです。密教ではさらに第九識(阿摩羅(あまら)識)を加えます。


小乗仏教では、この阿頼耶識が大円鏡智になると言われています。大きな鏡のようにすべてをありのままに映し出す、見たままを見たままに受け取ることが出来る、そういう心に変わると言われています。
末那識は、平等性智となりすべてのもを分け隔てなく見る事が出来るようになります。
意識は、妙観察智となり全てはバラバラに存在していると観察する意識が、全ては根本でつながりながら、仮に分けられる形で、一定期間存在しているのだと観察できる智慧に変わります。
前五識は、成所作智となり全てはバラバラであるという前提で、そのときその場の行動をしてしまう前五識が、水が高い所から低い所に流れるように、そのときその場に最もふさわしいことができるようになる智慧に変わります。
これを四智と言います。
また、この道を行くのが菩薩道でもありますが、菩薩道を歩めないもの、凡夫の為の教えが大乗仏教(念仏道)であります。

親鸞聖人が化身土巻に
「・・・観経の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、善くみづから己が能を思量せよ」となり、知るべし。
にありますように、念仏道しか凡夫にはありません。

仏道は基本的に聞法・称名によります。 

この阿頼耶識は聞法・称名によって薫習はされます。薫習とは香りが付くということですが、それが劇的に変わる訳ではありません。
何故なら無始から有ると言えば有る種子(しゅうじ)は、無量です。

そこに仏様との縁の種子が積まれてどう変わるか分かりませんし、そもそもちょっとやそっとの縁で何か変わるとも思えません。

しかし、この考えも正しいとは限りません。

何故なら修行をすれば覚りを開くことが出来るとお釈迦様がおっしゃっておられるのです。
阿頼耶識は菩薩道を歩む菩薩が悟れば、大円鏡智に変わりますが、凡夫がどれだけ聞法・称名に励んだところで阿頼耶識が変化するとは何処にも書かれていません。

 

高森顕徹会長の出身母体である華光会の創始者、伊藤興善師も「安心調べ」で曽我量深師や金子大栄師のことが書かれていますが、唯識真宗に持ち込んだぐらいにしか書かれていません。
どうも当時は真宗唯識の統合がはやっていたのでしょう。
そもそも七高僧の天親(世親)菩薩のお兄さん、無着菩薩が浄土門に天親菩薩を引き入れたのが元々の原因のようです。天親菩薩は、浄土門に入る前に倶舎論の大家だったわけですから。

 

個人的な感想ですが、阿頼耶識は変わらないと教えていただけるのが聞法ではないかと思います。何も変わらず、自分には何も無い、ただ、縁に従って業を造っているだけではないかと。

しかし、仏教は運命論(宿命論)ではありません。
我が意思(たとえ仏様に動かされているとしても)により、選択、行動は出来るのです。
称えたくなくてもお念仏を称えようとする、仏法を聞きたくなくても仏法を聞こうとする、これは、信前、信後変わらず阿弥陀様から頂いた意思だと思っています。

 

では、信心決定とは何が「ハイ」と聞くのか。
正直、分かりません。当然、阿頼耶識を認識できていませんので変わったのか、変わってないのか分かりません。安心論題にもそのことは書かれていません。
ただ、自分でもなんともならない自分がいるのはなんとなく認識しています。
迷いはすべて我執の末那識からくるといわれ、無明の元が末那識といわれますが、これは死ぬまで変わりません。
無明は無明のまま、迷ったままです。
つまり、悟れば末那識も変わるはずですが、そもそも菩薩道を歩んでいない、死ぬまで凡夫が変わらないということは、末那識も変わらないということです。
まして、意識を含め前五識変わったという自覚もありません。
迷いの凡夫は、迷いの凡夫のままです。
そのことを教えて頂いただけです。

 

それともう一つ大事なことは、南無阿弥陀仏しか無いということを教えて頂きました。
「いままで、申し訳なかったなー」と思いました。

また、「ハイ」と聞いた瞬間があるのかどうかですが、これは一念といわれ、時刻の極促といわれるのです。切られたことさえ分からないくらいの短い時間なのです。

高森顕徹会ではあっという間に切られると言われ、切られたことがハッキリするような言い方をしていましたが、いろんな方のお話を聞くと必ずしもそうでないことがわかります。

「○○が分かりません」は、分からんまま救われます。

「○○が分かる」そんな智慧は私にはありません。
ただ、「あ-、なんか、分かったなー」とか「そうだったんだ」とか、そういう自覚は出てきます。
ですので嶋田元講師のように明らかに分かる人(参照:私の白道)もいるでしょうが、そんな人は少ないと思います。いつ救われたか分からないうちに、「あー、救われていた」と気付く人が多いと思います。

いわゆる気づき、目覚めはあると思います。
これも個人的な感想ですが、それまでは「どーしたら」ご信心が頂けるのかと思っていたのが、「あー、無理」「私は落ちるだけ」と納得しましたので、「どーしたら」がいらなくなりました。
この「どーしたら」は、考えるに末那識から出ているのでしょうが、「どーしたら」を「駄目でした」に変えて頂いたような気がします。
ご信心という確かなものをつかみにいったのですが、つかめるようなものではなかったという感じです。これもほかの誰でもない阿弥陀様とのご縁なんでしょうね。

 

あまり良い答えになっていませんが、今の自分のところはこんな感じです。

 

追伸:xyzさまからコメント頂きました。また、お返事します。