とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

大行とは

教行信証の行巻の冒頭に以下のようにあります。

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つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。 

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。

極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。

ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。

すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

顕浄土真実行文類

 

現代語訳

つつしんで、往相の回向をうかがうと、往生の因として大行と大信が与えられています。

大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。

この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。

それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。 

ところでこの行は、大悲の願(第17願)より出てきた本願力回向の行です。

すなわち、この願を諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づけ、諸仏咨嗟の願と名づけられます。

また往相回向の願と名づけることもできますし、また選択称名の願とも名づけることもできます。

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この意味が非常に分かりづらいのです。

日本語は分かりますが、よくよく読むと何を言っているのかよく分からなく成ります。

 

最初の行は、徃相の回向ですので、私を連れて帰る、お浄土に連れて行くのに二つの方法があると言われます。

一つが大行でこれは行巻で、もう一つの大信は信巻で解説されています。

次の一行は誰でも分かると思います。

お念仏を称えることです。

しかし、その次の行以降になるとまか不思議になってしまいます。

なぜか。

この行は、もろもろの善本と徳本を具していると書かれています。

つまり、行にまか不思議が詰まっていると言われています。

さらに、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきがあるというのです。

私が単に南無阿弥陀仏と称えるだけでです。

それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕れた姿ですから、阿弥陀仏のお浄土の世界が顕れた姿と言うことになりますので、称えたお念仏が阿弥陀様の姿でありお浄土の世界が顕れた(この顕れたも本当はよく分からない)と言うことになります。

ですから、大行と名付けることとなります。

そして、この行、つまり南無阿弥陀仏と称えることは諸仏称賛の行ですから、私が称えるままが諸仏の行となります。

とにかく諸仏が褒め称える行になるのです。

 

往相回向の願とは、阿弥陀様がお浄土へ必ず連れて帰るぞと誓っておられると言うことで、選択称名の願とは、称名を選び取られた行だということです。

ここも一般的には阿弥陀様が選び取られたと解するのが普通だと思うのですが。

 

さて、誰が称えるお念仏なんでしょうか。

私が称えるお念仏そのものが阿弥陀様の呼び声であり諸仏の褒め称える行なのです。

これはお念仏が自力も他力も無い、真実の塊と言うことを言われていると思います。

これを能所不二の大行の意味を現したものというのですが、能行と所行が二つで無く一つと言うことです。

つまり、私が称えるままが仏様に称えさせられていると言うことになります。

しかしですね、信前と信後に分けると又意味が変わってきます。

そしてこれが空華や石泉、さらには豊前の議論の場になるそうです。

本願寺の主流は所行、空華と言われますが、その意味はすべて阿弥陀様からの行であり、衆生の行を否定しているからです。

しかし、聞法するのも衆生の行為でないとすると誰が聞いているのかとなってしまいます。

私はどこに行った?これが空華の矛楯するところです。

 

次に私が称えているとなると行が往生に資するのか、間に合うのかということになり自力が間に合うことになると言うことで矛楯します。

石泉の問題はここにあります。ほかにも豊前という折衷案があるそうですが良く知りません。

 

ここも注意が必要ですが、空華学派が本願寺にあるのではありません。

空華的な考え方が多いという意味であり、石泉的な考え方の人も多くいます。

だってどちらも矛楯を抱えているのです。

組織としてどちらも包含しているのです。ここが良いところです。

 

ものごとを一面的にとらえてそれが真実だと思い込むのは愚かなことです。

阿弥陀様も七高僧方も親鸞聖人も皆お念仏を勧められています。

阿弥陀様は称名を勧めていないと主張するかたもいますが、言い方が違うと思います。

無量寿経(18願)では、勧めるとも勧めないともどちらもはっきり解釈できるところがないのでよく分からないが正解だと思います。

乃至十念の解釈がそれぞれだからだと個人的には思います。

私は浄土宗の僧侶も知り合いにいますが、まことに有り難いです。

信心についても語り合いますが共感するところも沢山あります。

ですから、南無阿弥陀仏が大事なことはよく分かります。

 

ただし、大事なのは信心を頂いた上でのお念仏ですよと信巻などで言われているのです。

阿弥陀様の御心を一面的なとらえ方でこうだと言うのは誤解の原因になると思います。

 

 

とにかく、お念仏を称えなさいと親鸞聖人がおっしゃっておられると言うことですね。

行巻ではそのことを言われているのです。

重ねて言いますが、自力の計らいをすてたお念仏が大事だとそのあとの信巻で言われています。

  

 

 

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