とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

感じて、ゆるす仏教

「感じて、ゆるす仏教」という本があります。

藤田一照師と魚川祐司さんの対談記録です。

藤田師は、禅宗の僧侶であり、アメリカで座禅の指導をされて来られた方です。

魚川さんは、テーラワーダ(上座)仏教をとおして自分の生き方を見つけられた方です。

ごくごく簡単に紹介していますので、本当のところはもっとしっかり調べないとこんな簡単な紹介は嘘になりますが、書くと長くなるので皆さんそれぞれで確認してください。 

この本の内容は、聖道門的求道(自力)をどう扱うかというところが問題になっているところが個人的に興味を引きました。

聖道門的求道は終わりが無く到達点も遠く感じるため、どこかで自分の力を手放す必要があるのではないかと言われています。

座禅をしながら自らの力で心を浄化しようとしてもとても無理なので一度その心を放してみるということを言われています。

本の中では「コントロール」を放棄して「ありのまま」を受け入れると言われています。

 

・・・以下、本からの引用です。

 

宋代の禅僧に青原惟信という人がおりまして、・・・以下のようなことを言っています。

上堂して曰く、老僧三十年前、未だ参禅せざりし時、山を見ては是れ山、水を見ては是れ水。後来親しく知識に見え箇の入処有るに乃至びては、山を見ては山に不是ず、水を見ては水に不是ざりき。

爾今、箇の休歌の処を得ては、依前らず山を見ては只だ是れ山、水を見ては只だ是れ水なるのみ。

 

・・・自分は禅の修行を三十年やってきたが、参禅する前は山は山に、水は水に見えていた。そうして修行をはじめて、ある程度の鏡智ができてくると、山を見てもそれは山で無く、水を見てもそれは水ではなくなった。いま、生死の問題にけりが付いたところから眺めていると、以前と同様に山を見ればただ山であり、水を見ればただ水である。

 

・・・「山をただ山と見ることが「休歌の処」なのであって、山が山に見えなくなるような、何か特別な状態を求め、それを「悟り」だと思い込んでいるのであれば、それは迷いの状態だ」・・・・

 

 

簡単に言えば自分を仏に任せて座禅をしてみると言うことです。

そして、自分の思いを離れたところから物事をみると新たなものが見えるけど、それは全てありのままの姿をありのままの見るということなのだと。

仏教でいう正見です。

こんな事が禅宗でも言われているのだなと感心します。

私の知り合いの僧侶は、「感じる」ことを大事にしています。

お念仏を称えなが自分の心と体の感じを味わいます。

いろいろ言葉が出てくるのですが、その行為自体がありがたく思えます。

一度試してみてください。

本の中では座禅の意義なども語られていますが、浄土真宗とかけ離れているかと言えばそうではなくて聞法を通して我が身を見つめるところなど似ていると思うところもあります。

また、自力的な心と他力的な心の変化も見えているようです。

こういう話は、とても高森顕徹会の「絶対の幸福」に凝り固まった頭では受け入れることができるものではないと思います。

悟りというもののとらえ方が我が心と体を観察するところから始まり、さらに感じる体験をしていくのです。自由な状態に心と体を持って行くというのは、へんな固定観念にとらわれている人には大きな壁のような気がします。

その心の状態を五二段の悟りと比較するのでなく、仏語の言わんとするところをそのまま受けてみることが大事なのかなと思います。

いずれにしても、禅宗も大乗教の一つですので行ずれば何かしら知らされるのでしょう。

たとえはよくないかもしれませんが、「好き」と「嫌い」の感情は、脳科学的には扁桃体というところから瞬間的に出てくるために、その理由が分からないそうです。

結局、後で理由付けを自分でしているようで、「好き」と「嫌い」はまったく理屈ぬきな感情の作用であり、そこに理由を求めることは無意味と言われています。

ですので座禅などを通して我が身の感情の動きを見ていくことで自分の姿を客観視することができ、まったく関係なくいろんな思いが次から次へと出てくるその源を探ることが出来かもしれないのです。

そしてそれに捕らわれること無く感じていく。

そのこだわる心を俯瞰し、突き放していく。

特にお念仏を称えているとき、どのように自分が思っているのか心の動きや身体に感じるものを観察していくと面白いと思います。

 

そう言えば、禅宗曹洞宗)の葬式の時、「ゆるす~」という言葉が何度も出てきます。

私の罪、咎を許し、仏に帰依しなさいと言われているように聞こえます。

 

私の罪、咎に懺悔し、阿弥陀さまにお任せする、これしかないですね。

 

 

 

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