とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

無常を無常と感じないのが本当の姿です。

まず、無常とは何か。

仏教的には、四法印のうちの一つ、諸行無常がそれに相当すると思います。

諸々のものは全て常が無く変化し続けているということです。

また、無常には刹那無常と一期無常もあります。

刹那無常とは、今の瞬間は次の瞬間には変化しているということです。

今の瞬間と次の瞬間は異なると言うことです。

たとえば美味しい炊きたてのご飯は、湯気が出続けて最後は冷や飯になります。

瞬間、瞬間で変化し続けています。これを刹那無常といいます。

一期無常とは、一期(いちご)限りということで、短くは私の命やカゲロウなどの命であり、長くは太陽の燃え尽きるまでの命(期間)のことです。

 

また、仏教で教えられている 生老病死 は苦しみではありますが、無常とは異なります。

どれだけ周りで人が亡くなろうが自分ではないので、まったくと言っていいほど自分の命は無常だと思っていません。

 ワールドトレードセンターにジェット機が突っ込んでビルから人が落ちる姿を見た時はどうだったでしょう。

東北大震災の時、津波に人がのみ込まれる姿を見たとき無常を感じましたでしょうか。

私は、「うわーっ」と思っただけで家に帰ってもご飯を美味しく頂きました。

この「うわーっ」という感情は見たことの無いものを見た驚きだけで、

まるで映画のワンシーンを見ているようなものでした。

今でもその時のシーンを思い出すことがあります。

確かにいつ死ぬか分からないことについて不安にはなりますが、無常という言葉を理解している程度ではないかと思います。

 

では、どうなった状態が無常を感じている状態なのか。

頭燃を払うがごとくに気になって仕方ない、仕事も手に付かない、家族を放っておいても後生の解決をしたいと思う時か。

家族が亡くなったら、あるいは自分の手足が亡くなったら感じるのか。

自分の命が亡くなりそうな時でも無常というものを感じないかもしれません。

自分が死んで行くとなったとき、この世の中とおさらばさせられるとき、秀吉のように始めて思うのか。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことは 夢の又夢

 

親鸞聖人は、9歳の時出家され有名なお歌を歌われたと伝記が残っています。

 

明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ

 

すでに9歳にして無常を謳っておられますが、これは命の儚さを言われているのであり、本当に無常を感じて説かれたとは言えないと思います。秀吉の句も同じだと思います。

ある意味、無常だけでなく命に対する執着(煩悩)をも表しているのではと思います。

 

ですから、この先私の人生はどうなってしまうのかと思うのは単なる不安であり、本当に自分が満足して生きているのかと思うのは思い通りにならない事を嘆いているだけで、無常を間接的に理解はしているかもしれませんが、直接的に無常を感じているとは言い難いと思うのです。単に無常を観察しているだけなのかもしれません。

それこそ、無常を観察する、無常観です。

 

 物事に常が無く、変化し続けていく、留まることが無いと感じられないから、そこで出てくるのが苦しみです。すべてが続くはずだと思っている心を否定されるから苦しいのです。

つまり、無常を無常と感じられないから、苦しいと感じるのです。

 

本当に無常を無常と感じ取ることが出来たとしたら、それは既に悟っていることだと思います。なぜなら諸行無常は悟りの言葉であり、無常をそのまま感じると言うことは無常を体得すると言うことですのでそれ以上苦しむことも無くなります。

当たり前ですが、命がなくなるのは当然の摂理ですし、老少不定も真実ですので人が死んでいちいち悲しむこと自体が知恵が無い状態、無明であると言えるのです。

 

 お釈迦様は四苦八苦を説かれましたが、これは苦しみです。

苦しみは自分の思い通りにならない心の状態、執着です。

ところが四苦八苦のお言葉をどれだけ聞かされても何とも思いません。

自分が死ぬときになって初めて死を実感するかもしれませんが、それでもまだ死なないと思いながら死んで行くのでしょう。

無常を無常と感じていないからです。

まったく狂っているのが私なのです。

知恵がない、真っ暗がりだから無明です。

 

だから、後生の解決に三願転入が必要などと寝ぼけたことを言っている団体など愚の骨頂なのです。

そんな余裕があれば、法蔵菩薩様が南無阿弥陀仏一つで助けるなどと誓われないのです。

覚如上人がおっしゃられる通り短命の根機がお目あてなのですから。(後記1参照)

 

仏教的な意味での無常は、死への恐怖や自分の人生に対する欲望とは全く異なります。

言い換えれば死への恐怖や人生に対する欲望は、親鸞聖人がおっしゃられるように死ぬまで変わらないのです。いわゆる煩悩具足の凡夫の姿です。(後記2参照)

 

阿弥陀様は、その煩悩具足の凡夫、無常を無常と感じることが出来ない、無明の私をそのまま救うと誓っておられるのです。

現在ただ今、落ちるそのまま、南無阿弥陀仏です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

後記

1 

しかるに世の人つねにおもへらく、上尽一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうるか。これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

覚如上人 口伝鈔

2 

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

親鸞聖人 一念多念文意