とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

称名念仏について考える

南無阿弥陀仏は六字の言葉であり、これを一般的に名号と言います。

名号には、六字の南無阿弥陀仏の他に、帰命尽十方無碍光如来といわれる十字名号や南無不可思議光如来の九字名号があります。

親鸞聖人は好んで十字名号を書かれたと言われています。

その他、阿弥陀様については個別の呼び名がいろいろあります。たとえば畢竟依などがそうです。

 

称名とは、そのまま名号を称えるということで、口で南無阿弥陀仏と言うことです。

称えるは、讃えるの意味もありますので、唱は使いません。

唱は、学校の校歌を斉唱するとかに使います。

 

念仏は、仏を念ずるのですが、心で念ずる以外に声に出して念ずるという動詞の意味も当たり前ですがあります。

この場合の仏は、特に定めのない場合、阿弥陀仏が該当します。

また、念仏は観想念仏や口称念仏のように使われます。

観想念仏にも心の状態をどのようにするかによっていろいろあります。

口称念仏についても同様です。一般的には、称名念仏といい、略して念仏と使っています。

仏を見るのを目的とした念仏三昧があります。この場合、当然口から声に出して南無阿弥陀仏と称えます。

 

浄土真宗では、念仏に自力と他力があると言われます。

しかし、念仏そのものには、本来自力も他力もありません。

阿弥陀様の呼び声であり、それが信心のある人が称えようが信心の無い人が称えようが違いはありません。

つまり、自力の念仏か他力の念仏かはこちらが勝手に決めているだけなのです。

その条件として信心があるか無いかを問題にしています。

 

南無阿弥陀仏は真実の塊であり、私の心の状態などは問題にしていません。

そうは言っても、こちらは真実を真実と受け止めることが絶対に出来ないものであります。

それが私の姿であり、宿業と言っても良いかもしれません。

 

そこで問題になるのが信心が無いのに念仏を称えることは良いのか悪いのかと考える人が出てきます。

 

当たり前ですが、仏教を聞かせていただいているのですから良いと思うことは実践しなければ成りません。

念仏は正行ですので良いことに決まっています。

やはり、そこに自力、他力を分別する心があります。

 

「私の念仏は自力だから駄目だとか、信前の念仏は無駄だとか、聞くのが本当の浄土真宗だから信前の念仏はいらないなどの考えが出てきます。」

 

この言葉をよく考えて下さい。

 

どこのお聖経に信前の念仏はいらないと書かれていますか。

どこのお聖教に自力の念仏は役に立たないから称えるなと書かれていますか。

捨てものとは言われていますよ。この言い方は機に応じた説き方の一つですので本当は非常に微妙な表現だと思います。

しかし、称えるなとは言われていません。

聞即信、聞いているのが信心です。その通りです。

念仏を称えるなと書かれていますか。聞即信と書かれているだけです。

聞は、自分の声を聞くのも聞です。

 

それに、最も大事なことは信心を獲ているのか、獲ていないのか誰が決めているのかです。自分でしょ。もっとも当てにならない自分が決めているのですよ。

「信前の念仏は称えてはいけない」と言う人、あるいは「称える必要はない」と言われる人は、本当に阿弥陀様に救われているのですか。

私は大いに疑問に思います。

 

阿弥陀様の御本願は、「称えよ」とは誓われていますが、「称えるな」とは誓われていません。

親鸞聖人も同じです。詳細は、いろいろなブログで説明されていますので割愛します。

 

3歳の子供に何を最初に教えますか。

南無阿弥陀仏です。口で称えることを教えるのです。

念仏を世界に広げるには、私が口で称えることです。

阿弥陀様の立場に立ったら、自力でも何でも良いからまず称えてくれです。

信心、あるなしは、話が理解出来るようになってからです。

信前の念仏を否定するのは順番が違うような気がします。

 

ただ、これも機に応じての説き方があるとは思います。

 

大音響流十方です。南無阿弥陀仏が世界に響き渡っているのです。

まずは、まねから入るのです。

 

私は、そう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

注:

「聞即信」

第十八願成就文
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」

 

教行信証 信巻
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」

 

一念多念文意
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」

 

西方指南抄

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」

 

南無阿弥陀仏

垂名示形(名を垂たれ形を示す)
名を垂れるとは、「如より来生して」一切衆生を済度しようとする阿弥陀仏の願心が、南無阿弥陀仏という名乗りとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。
形を示すとは、一如より来生して法蔵菩薩と示現し、その誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。

 

教行信証 証巻
真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

 

この阿弥陀仏のさとりの本性である真如は、自他、善悪、愛憎、生死、因果といった言葉による二元的な分別の領域を超えている。
言葉によってモノ/コトを概念化して理解し把握する我ら衆生には理解が不可能な領域である。

その理解することが不可能な真如一如の界(さかい)から、弥陀如来は如より来生(弥陀如来 従如来生)して口に称えられる仏陀として示現することを如来(垂名示形)といふのである。

 

教行信証 行巻

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。


可聞可称の南無阿弥陀仏である。(WikiArcより)

 

教行信証 行巻

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。