「恥ずかしいなあ~」と思うことがたまにあります。
電車に乗っているときとか、車を運転しているとき、レストランにいるとき、皆と話しているとき、などなど。
どうしてそう思うのか。
いい年をしていい加減そんなことどうでも良いのにと思いますが、やはり少しでも良く思われたいのでしょう。
五欲のうちの一つ、名誉欲でしょう。
親鸞聖人は「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(教行信証 信巻)言われています。
全く同感ですが、親鸞聖人と私では、沈没しているレベルが計り知れないほど私の方が深いと思います。
とても人様にお話しできるようなものではありません。
仏教を知る前はどうだったでしょうか。
正直、穴があったら入りたいくらいアホでした。
仏教を知った後ではどうでしょう。
正直、穴から出たく有りません。
全く変わらずアホです。
仏教を知ったところで何も変わらない自分がそこにいます。
浄土真宗でご信心を目指す前と後との違いは、後の方がひどいかもしれません。
開き直っているというか、どうにでもしてくださいという状態です。
ですから造悪無碍にならないよう気を付ける必要があります。
そうは言っても私という人間はなにも変わりません。
反省や後悔してもすぐに忘れて、元のもくあみです。
親が亡くなったときも、やっと解放されると思ったくらいです。健康で長生きなら良いですが、そうでないなら全く身勝手で自己中心です。
どこどこまでも我が身が一番なのです。
これを無慙無愧と言います。
無慙無愧 悪いことをしながら、恥ずかしいと思わないこと。「無慙」は自己に対して恥じないこと。「無愧」は他人や世間に対して恥じないこと。
それでも命を頂いた以上、生きていかなければなりません。どんなに辛くても仏さまの、阿弥陀さまのお慈悲にお逢いするまでは石にかじりついても生きるべきなのです。
お慈悲に遇わせて頂いた後は、石にかじりついてもご恩報謝のためお念仏し続けなければなりません。
それが念仏者の姿だと思っています。
・・・私の本心は、さておきです。・・・
そんな人間に法を説く資格があるのかと思うときがあります。ブログに書いているのもある意味法を説いているのと同じです。
真宗のお坊さんがご説法されるときにはよく言われるのが「お取り次ぎ」をさせていただくと言います。
「お取り次ぎ」とは、道案内というか主人に合わせるためにご案内する係のようなものです。
ただし、正しく間違いなく最短で主人のところまで道案内をすることが出来れば良いのですが、横道にあちこち逸れていつまでたっても主人のところまでたどり着かない場合もあるでしょう。
高森顕徹会だけでなく多くの宗教も該当することでしょう。その一番の原因は何かと言えば、「救われていない」ことだと思います。
私という存在が死を前にしてうずくまって一歩も動けない状態から解放されたなら、どうすべきなのか答えは自ずと出てくるでしょう。
それでも動けないなら、悪業煩悩に振り回されている証拠です。
自分も同じようなものなのですが、それもこれもすべて自分の責任なのです。
しかし、そんなことを無視しても話したくなるのは、阿弥陀様のお力と頂くと同時に煩悩が全く無いとは言いがたいと思うのです。
生き恥をさらしながらも、なお南無阿弥陀仏に生かされているのです。
たぶん死ぬまで恥ずかしいなあと思いながら生きた方が間違いは少ないような気がするのですが、そんな気持ちはすぐ忘れてしまいます。
やっぱり、恥ずかしいなあ~・・・そう言いつつ次の瞬間には忘れています。
ところで、勉強会ですが予定通り、8月24日(土)に 山も山さん をお呼びして開催します。
時間は、午前10時から午後5時までの予定です。
場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。
午前は10時から集まった方達で座談会を行いたいと思っております。
午後は13時30分から行う予定です。
どなたでも参加していただいて結構です。
よろしくお願いします。
・・・参考・・・
懺悔
仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。
キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。
「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。
無慙
悪事を働いても、それを恥じることなく平気でいること。
無愧
仏の教えを破りながらもそれを恥じない心。
「無愧」は自分の罪を他人に対して恥じない心のこと。