称名念仏については以前書きましたので今回は信前のお念仏と信後お念仏について個人的な思いも含めて書きたいと思います。
前提条件としてお念仏は口称念仏とします。
信前と信後についての判断は何を基準とするかですが、これは人それぞれですので一概にこうだと言えないところが本当は一番の問題だと思います。
しかし、何か決めておく必要があると思いますので一般的な言い方で言いますと無疑心であるかどうかです。
何に対して無疑かと言うと阿弥陀様のご本願についてです。
信前の具体的な心の例としますと「どうしたら救われるのか、阿弥陀様が分からない、救われた気がしない、本当に救ってくださるのか」等々阿弥陀様を疑っている状態です。
一方、信後の具体的な心の例は、「分かった、阿弥陀様にお任せしました、そうだったのか、有り難い、申し訳ありません、地獄一定は私だった、呼びづめだったのだ、お念仏が本当だつた、往生は任せた」等々です。
信前のこのような状態での口称念仏は簡単に言えば、信前は自分のお念仏がなんとなく往生の足しになるのではないかと言う思いがどうしてもあります。
ところが信後のお念仏にはそういう気持ちは全くありません。
むしろお念仏を称ることさえ忘れてしまっています。
こういう違いが一般的だと思うのですが、では、信前のお念仏は称えるべきなのか称えないほうが良いのか一体どちらでしょう。
阿弥陀様のご本願には「乃至十念」としか書かれていません。
(追加:乃至十念は一般的に信後のお念仏と解釈されます)
乃至はご存じの通り数を問わないと言う意味です。
十念は浄土宗では十回のお念仏と解釈するところもありますが、真宗の一般的には何回でも良いと理解しています。
ただし、間違っても称えるなとは何処にも書かれていません。
阿弥陀経を始めお念仏には大きな功徳があると説かれています。
当然、信前のお念仏は称えるなとは何処にも書かれていません。
そして、信心を獲るために必要なのは名号を聞く事「聞其名号」であるとお釈迦様は言われています。
この聞くと言う事が自分の称えたお念仏を聞くことも含まれています。
ここが一番大事なところなのですが、解釈が分かれるところです。
善導大師は二河白道の譬えに信前の行者に対して「一心正念」と言われていますが、お念仏か信心かそれとも信心のこもったお念仏か明確になっていません。
行(称名念仏)に関する見解が本当に沢山有ります。
そもそも真宗や浄土宗では普通にお念仏を称えることを推奨しています。
当たり前のようにお勤めでは信前であろうが信後であろうがお念仏を称えます。
ですから、称え心について特段の定めがありません。
あえて言うなら「阿弥陀様の呼び声」と思って称えなさいと言われるだけです。
そのお心は、信前も信後も変わらないのです。
ただ、紅楳先生もおっしゃってますが、信後のお念仏はご恩報謝のお念仏になります。
簡単に言えば「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」と言うことです。
しかし、信前のお念仏をあまり評価をしない人も多くいます。
特にテレビやラジオから流れるお念仏などに価値を認めない先生もいます。
追加です。
信後のお念仏はご恩報謝に限るということについては疑問が残ります。
それでも、この世に生を受けてから南無阿弥陀仏に出会い、何かの間違いで阿弥陀様のお慈悲と出遇うまでに何度お念仏を称えたことでしょう。
このお念仏に導かれてきたのは間違いないことだと思うのです。
高森顕徹会に出遭うまえからお念仏のご縁に触れています。
では、そのお念仏に功徳は無いのか、あるのか。
これは誰も証明出来ないのです。
間違いないことはお釈迦様を始め七高僧方だけでなく親鸞聖人、さらには善知識方が間違いないと仰っていることです。
何を言われているのか。
南無阿弥陀仏が阿弥陀様であり、南無阿弥陀仏によって救われると。
そして、全分他力だということを。
繰り返しますが、信前のお念仏は無駄と何処に書いてあるでしょうか。
何処にも書かれていません。
それを当て力にして御信心を頂こうとする心が悪いと言われているだけです。
特に蓮如上人はそのことを徹底されています。
信心が特に大事と具体的に言われたのは親鸞聖人が始めてであり、お念仏の力、信心で救われると言われました。
では、再度考えてみます。
信心で救われるとは何なのか。
南無阿弥陀仏は、当然観想もあり口称もあり、文字にも成っています。
光明無量、寿命無量の色も形もないのが本当のお姿です。
不思議、不思議の他は無しです。
結局、信前のお念仏の評価をすることは出来ません。
自力のお念仏は信心に間に合わないのは間違いないことであるとは言え、だから称えないと言う判断は間違っています。
信前は止めろと言われても、称えざるをえないのが私の姿です。
それに信前には称えるなとしたらお念仏をどうやって広げていくのでしょう。
世の中は信後の人の方が少ないのです。
三才の子供に教えるのはお念仏、臨終の人に勧めるのはお念仏なのです。
現実に現代ではお葬式でもほとんどお念仏の声が聞こえません。
まずはお念仏を称えるところからスタートなんです。
余談ですが、
空華の本山、行信教校では徹底的に自力を排除し、他力のお念仏を強調します。
しかし、学校ではお念仏を四六時中されています。
この矛盾については、「すべてお礼の念仏です」と言われるでしょうね。
石泉はお念仏に功徳を認めますが、称名念仏が信心に間に合うとは言いません。
また、行信教校のような学校はありません。