信心を頂いたと言われても果たして何を基準に計れば良いのか。
私は親鸞聖人のお言葉に従うしかないと思います。
親鸞聖人はいろいろなお言葉を残してくださっています。
特に歎異抄には誤解されやすいお言葉が多くあります。
故に今回は歎異抄以外のお言葉に従おうと思います。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏、日域の師釈に、遇いがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもって聞くところを慶び、獲ることを嘆ずるなり。
教行信証 総序
以上のように法に出会えたことを、阿弥陀様に出会えたことを喜ばれております。
凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。
一念多念文意
我が身は凡夫であり、死ぬまで変わらないとそのことを告白されています。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
教行信証 信巻
我が身に真実なしと告白されています。虚仮不実の人間であることを語っておられます。
真宗紹隆の大祖聖人(法然)、ことに宗の淵源を尽くし、教の理致をきわめて、これをのべたもふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。
御伝鈔
ここには一切の善行を行うこと無く、「聞」で救われたことを告白されています。
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといえども、大悲、倦くきことなくしてつねにわれを照らしたもうふといえり。
そして、つねに大悲(阿弥陀仏のお慈悲、南無阿弥陀仏)に照らされていると喜ばれています。
法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこしあらはれたまふ。
唯信鈔文意
以上のように阿弥陀様の不思議の誓願を説き阿弥陀様を讃談されています。
経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。歓喜といふは、身心の悦予を形す貌(かおばせ)なり。乃至といふは、多少を摂するの言なり。一念といふは、信心二信なきがゆえに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。
教行信証 信巻
仏願の生起本末を聞いて疑心は無い。そして歓喜がある。それは一念であり、浄土への一心であると言われています。
念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
教行信証 行巻
このように念仏によって成仏するのだからお念仏をすべしと言われています。
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
愚禿悲歎述懐和讃など
御和讃には念仏門に入って、お念仏を称える事が大事と言われていますが、ご信心の伴ったお念仏がもっと大事だといたるところで言われています。
また、他の御和讃では自分にも他人にも恥じる心は無いが、阿弥陀仏から頂いた南無阿弥陀仏は我が身に満ちているばかりでなく世界中に満ちていると言われています。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
最後は教行信証総序に書かれているお言葉をそのまま受け取ることが出来るかどうかです。
御和讃を調べればほんとうに沢山の信仰告白をされています。
信心はハッキリする、そして我が身が必ず照らされると言われています。
ただし、私には救われる縁手がかりが無いこと、我が力で往生は出来ないことがハッキリするわけで、浄土に生まれることが私にハッキリ分かることではありません。
浄土に生まれさせていただくのは阿弥陀様のお力ですから。
そして喜べない御信心など無いと。
また、お念仏すべしと言われています。
最後はお一人お一人のお心に聞いて下さい。
親鸞聖人のお言葉に私も同じだと同感できるかどうかで親鸞聖人と同じ信心かどうかが計ることができると思いいます。