とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

松並松五郎師

松並松五郎さんという妙好人がいらっしゃいます。
有名な方なのでご存じな方もいらっしゃるでしょう。


まずは略歴です。
1.明治42年、大和 高市郡 飛弾(奈良県橿原市)に生まれる。
父、増蔵、母、みつゑ。3、4歳の時、常に母に抱かれて就床。
その子守歌を聞いて眠る。
母の歌声が、氏の生涯に大影響を与える。
母は、懐妊の時から念仏を喜ぶ身になったとか。

2.13歳、3月方向10日の「日めくり」の「忠孝は人の行く道、守る道」を見て大いに驚き、親孝行を決心。

3.15歳、2ケ年間親孝行を努めたが、思うように出来ず。
思案した結果、まず親の仰せを、そのままハイと聞くことを習う。
最初は、内心で反対の時もあったが、その心を押し切って進む。
と、次第に親の命令を、そのままハイと受けられるようになる。

4.17歳の正月1日、大阪へ奉公に出る。
母より、「主人の命に服し、よく働くように」と言われる。
朝は5時起床、夜は11時まで一心不乱に働き、奥さんの腰巻までも洗う。

5.18歳、得意先の人が「何故そんなに働くか」と問う。
「母の言いつけゆえ、親孝行のために、母の命に従うのみ」と答える。
客は、「親孝行がしたくば、寺まいりせよ。」と。
早速、その夜、近所の説教所へ参詣。
しかし何のことやらわからぬまま、親孝行と思い、説教参りを続ける。

6.18歳の5月、大阪南御坊にて、江州の説教師、護知寿師より、宗祖のお言葉「弥陀の本願ともうすは、名号を称えんものをば、極楽へ迎えんと誓わせたまいたるを、深く信じて称うるがめでたきことにて候なり」(末灯鈔)を聞いて感激。
それより、念仏相続に入る。
朝は3時起床、夜は11時まで仕事しながら念仏相続に専念。
いろいろの疑問が出ても、人には質問をせず、それを心に持ったまま念仏していると、いつか必ず解決すと。

7.29歳、昭和12年1月16日夜、叡山に登り、黒谷の経堂に入って、ただ一人徹夜念仏す。
その夜、不思議の感得を受けて純粋他力念仏に入る。

8.33歳、昭和16年、皮革統制会社に働く。

9.同年7月31日召集。満州、南方ニューギニア方面に転戦。

10.昭和19年6月帰還。
以来、故郷飛弾に住して念仏三眛。

11.平成9(1997)年12月26日88歳にて往生。

松五郎さんと接して、信仰上の大転換をした人が数多くいます。
三重県四日市市中浜田町の「東漸寺」の東見敬住職 もその一人です。
昭和二十四年、松五郎さんから、ある和上 さんの詩の一節を聞かされて、「でんぐり返る思いをした」と 語っています。
その詩とは、「我れ称(とな)え我れ聞くなれどこれは これ大慈招喚(だいひしょうかん)の声なり」というものです。

それでは、
『松並松五郎念仏語録』 真宗大谷派 念仏寺 土井紀明師編纂
から私が気に入っている所をご紹介します。

○東漸寺様にお尋ね致しました。
「御院住様、律宗という宗派がありますか」と。
「あります」「何でそんな事を聞く」と二三日前に夢を見ました。
女の方が夢に出て来て、亡くなった兄と私、しきりに念仏する姿を見て、兄に向かい〈あなたはどんな思いで念仏するか〉と。
兄が〈弟が念仏せよと言うから念仏するのみ〉と。
女曰く〈それやから真宗はいかん〉と。
それを聞いて私はその女を思いきり殴り倒す。
しばらくして女を抱き起こし〈あなたが私にまちがっていると言うのなら、私は頭を下げてお聞かせ下さいと頼みますが、真宗は間違っていると言われたから失礼致しました。
真宗と申されたら宗祖様中祖様をも間違っていなさる事になる。
どこが間違っているかをお知らせ願います〉と頼みましたから〈声に出すからいかぬ〉と。
私〈それだけ聞かせて頂きましたら結構です。有り難うございます〉とお礼申しました。
〈それではあなたは何宗ですか〉と聞けば〈律宗〉と申された」。  
声に出さずとも呼べる、手招きでも相手を呼べる。
念仏とは仏様が私を念じて下さっていることを念仏と言う。
然し大勢なれば、手招きでは誰を呼んでいるやら判らない。
その時はどうしても声に出さねばならぬ。
仏様は十方衆生を呼んでござる。
だから声に出すとは、即ち私の口を通して南無阿弥陀仏と呼んで頂く事は、「松五郎よ迎えに来たぞ」と名を出して呼んでもらっている事なり。
手招きでは十方衆生の誰やら判らぬ。

・・・聞くだけでなく声に出て私の耳に聞こえる南無阿弥陀仏真宗なのです・・・

○明けて二十九才、一月十五日本山へ参詣致しました。
御七夜のこと故、日本中の信者様のお念仏の声が、ひびき渡っていると参詣致しましたが、何の何のこれではと、旅館の一室で徹夜念仏。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
翌日十六日、宗祖様は二十年の修業の結果、六角堂へ祈願なされたあかつき、法然上人様の御教化により、念仏門に入られた。
その法然上人様は黒谷の経堂にて、善導大師様の「一心専念弥陀名号」の御文に依って念仏門に入らせられた。日本で念仏の根本は黒谷である。
黒谷である。
黒谷で念仏申したら、歓喜の心も湧き、また感謝ざんげの心も、亦静かに、心も静かにお念仏も出ると思い、黒谷の経堂にて一夜明さんものと参詣致しました。  

雪は一尺余り、参詣の人影もなく、駅員さんが、こんな雪ではとても黒谷までは行けませんから、雪が消えてからにしなさいと親切に言うて下さいましたが、死んでもよしと心に定めて、有り難うございますと下駄ばきで、道も分からず南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
足にまかせて歩き歩き南無阿弥陀仏、行く道すがらお寺も有りましたが足が止まりません。
歩き歩きどこをどうして行ったやら、ただ歩きました。足の止まった処に、一寺あり、尋ねましたら、そこが黒谷でした。  

堂守様に御願いして、一夜のお念仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
午後三時頃でした。
経堂に入り念仏致しました。
夜十時頃までは、元気にお相続がつづきましたが、寒くなり、着物のすそ、足袋が雪にぬれて、足が冷えて、板の間で、線香一本寒いのではなく体が痛い。
えらくて苦しい。
いや気が出る。
何ともたとえ様のない心になりました。
十二時頃より体が「ノコギリ」でけずられる思い。
あああ、ここで念仏申せば心静かに念仏出来る。
喜び喜び御恩のほども少しは偲ばれ、ざんげの心も、感謝の思いも湧くと思って来ましたが、全くあてちがい。  
歓喜どころか、ざんげどころか、妄念煩悩が出るわ出るわ、廻りどうろうの様に、私の身のまわりをぐるぐる廻り歩き、経堂全部が煩悩で、妄念で、だんだん出る。
首から下は妄念・煩悩で、有るだけ出てしまって、頭も空っぽ、何にもない。
妄念が出れば出るほど自然に、お念仏の声が高くなり、だんだん高くなる。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と出る出る。
寒さも忘れて、出る出る。妄念煩悩も流れ出る。
「横川法語」に、妄念の中より申しい出したる念仏は、にごりにしまぬ蓮の如くにて」と。
妄念の中より、出る念仏なるに、にごりに染まぬ、清浄むく、それが見える見える。
空っぽの中から出る妄念。
空っぽの中から出る念仏。
出る出る、流れる流れる。
頭、胸、腹の中は何もない。
亦寒さが身にしむ。
いやでいやで、そこに座していられないほど、居苦しくて、それでも念仏はますます出る。
ここで念仏申せば、心静かに喜び喜び出る、ざんげしながら出る、宗祖の御恩のほども偲ばれると思って来ましたが、うそうそざんげの「ざ」もない、歓喜の「か」もない、御恩の「ご」もない。
全く無い。  
宗祖様は「真月を観ずと思えども、妄雲なおおおう」とは細々ながら身に徹しました。
南無阿弥陀仏うれしいありがたいは、あたたかい部屋に居る時の事。
火のない部屋で身も冷え、心も冷えきった時は「この法に遇わねば、こんな事せずとも、温かい部屋で寝て居られるのになー」と、ほんとうに思いました。
無慚無愧、逆謗の死がいとは私一人のことと心の底から身にしみ渡り、板の間で「くも」の如く、おのずから頭が下がり、我忘れて出る南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
その時いなずまの如くひらめいた。
「本願の念仏には一人立ちさせて助けさせぬなり」 とひびいた。
はっと思った。
その時は、念仏申して居るとも判らぬ。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏    
世の方々は寒さにあえば「宗祖様の御流罪の御苦労を偲ぶ」と申されますが、極度の寒さに会うた時はとてもとてもそんな心は、私には出ませんでした。
この遭い難き御法にあわせて頂いた事さえ、よろこばなんだ私でした。
その時、 「歓喜も約束でないぞや、懺悔も約束でないぞや、たとえ一声も南無阿弥陀仏と称うる者かならず間違わさんは弥陀の誓いであるぞや」 との御知らせを受けました。
私は喜び心がないので、ざんげ感謝の心がないので、経堂へ参詣致しました。
それを聞かせて頂いて、寒さも苦しさも総てを忘れて南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  

また苦しさが追って来た。
その苦しさを乗り越えると、やや楽にお念仏が続いた。
百雷が一度に聞えたかの様に感じたとき、 「それそれ声が弥陀じゃぞや、弥陀が声と成ってお前を迎えに来た。あいに来た。
連れに来た。
弥陀直々の迎えでも物足らぬかや」 そのひびきを聞いて、天に躍って喜ばん、地に伏して喜ばん、この度弥陀の御誓に遇えることを 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ややすると亦 「かような事があったで往生ではないぞや、往生は誓願の不思議、願力の不思議、弥陀の計らいであるぞや」 と。最早言葉もなく、強盛に念仏聞きつつ朝八時頃下山致しました。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   

これまでの十余年の念仏は、自分自身、決して自分が称えているとは思って居なかった。
今にして思えば称える念仏で、如来様から称えさされていたのであったのに気が付かなかった。
自分が称える念仏であった。
永年の間称える事にこだわっていた。
称えねばならぬ、念仏せねばならぬと、常に重荷を心に、仏をおんぶして居た。
今は呼んでくださる(回向)仏の声であった。
その後の念仏は、呼んでくださる声を聞きながら、ひたむきに仕事に精が出ました。
私により添い給うひびきでありました。
今いま聞えて下さいます。 
南無阿弥陀仏  

・・・南無阿弥陀仏は、そのまま説法なんです・・・

○見るに見かねて ここえ来て  そだてみちびく姿こそ  口に聞こえる 南無阿弥陀仏    
ニューギニヤ戦線にて隊長の命によりマラリヤ患者の付き添いに病院へ行った。
病院とは言葉だけで、ヤシの葉を屋根に竹の柱、床はヤシの葉のシンを並べて、ソロバンの様に痛い。
衛生兵は五十人に一人、とても忙しいので中隊から付き添いを出す様になった。
それも下士官以上の事。
曹長が入院、付き添いにと命令。
病院はマラリヤの製造場で、蚊にさされるとマラリヤになる。
一ヶ月で退院された。
隊長に報告に出た。
「休めよ」と言われたとて私の仕事が一ヶ月分溜まっている。
働く働く。
亦軍曹が病気になり、命により付き添いに一ヶ月、治ったのでまた報告。
「二度まで御苦労休めよ」。
また仕事が溜まっている
三度目に新兵が入院、また付き添い。
隊長は「三度までも済まぬが、一人助ける為に付き添いまで死なせてはと思って命令した。
お前は死なぬと思ったから。
こんどはお前が病に倒れる其の時は報告にくるに及ばぬ。
そのまま入院してくれよ」と。
「ハイ 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」。
この新兵は死ぬと感じた。
新兵は「古年兵殿私はこんな処で死なぬ。
死ねぬ。
内地へ帰って坊やの顔見るまでは絶対死なぬ」と。
親心である。
然しその心が、死を招く。
生は望む処、されど病人なるが故に病人に成りきればよいのに、成りきるとは病気に勝つことでなく負ける事である。
心に無理がある。
第一仏縁に遠い。
気分のよい時は元気があってよい様に見えるが、一寸熱でも出ると自分で自分を倒す。
思った通り一寸の熱で自分から「アカン」と言うて世を去った。
南無阿弥陀仏 

隊長に報告「再三ご苦労であった体をいとえよ」。
「ハイ」。
数日後に熱が出た。
四十度の事、一週間熱が下がらねば入院となった。
下がらない。
報告に出た。
「松並松五郎本日付きを以て入院致します。
自分の不注意から病に倒れ申し様もありません。
一日も早く全快して元気で中隊に帰ってきます。
報告終わり」。
隊長は南無阿弥陀仏と笑いながら「いらざることよ。
まわれ右と言われたらまわれ右をすればよい」と、隊長一本参りました南無阿弥陀仏、とお互いに笑いながら、第百十一野戦病院え入院した。
何隊の何兵、何病棟とすぐ分かる。
善きことも悪いことも自分のこと、自分が行うて居る。
三人の付き添いで衛生兵とよく顔見知りで、次から次ぎえよくして頂きました。
体熱四十一度、気温は百度、三度の食事は、ドラム管でたくオカユ。
はんごうの中皿に顔が写る。
油くさくて三日たべずに居ましたが、空腹で四日目からすする様になりました。
空襲日は日に二回で、壕に入らねば戦死にならぬ。
蚊にくわれると熱が高まるので袖の長い下着上下、毛布、頭だけの蚊帳。
水はなく、体熱四十度七十日続きました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
体質により、三十八度一週間続くと口の中にウジが発生して頭の毛が一本もない兵も居ました。
幸いに私、毛が一本もウジ虫もなく、口がかわくので、ヤシの実が落ちる、それを拾って呑む。
日に三個以上呑めば、チブスになるので呑めないが、辛抱が出来ない。
私は幸い便秘が遠かったので何とも有りませんでした。
四個は呑みました。
洗い物もいつに一度やら、壕に出たり入ったり体が苦しい。
ある日大空襲あり、二里四方に百五十機、低空なれば話し声も爆音で聞こえない。
壕の中で病兵五十人南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称える声に、三千世界にひびき渡った南無阿弥陀仏
別に死は恐ろしい感じもなかったが、豆粒ほどに聞こえてくる爆音が、妙に私にひびく、胸に鋭くこたえるので、ハハーこの飛行機にやられるなーと直感した。
それまでは、死ぬとも、生きるとも思った事は一度もなかった。
ただ命令のままに動いていた。
軍隊は仏法そのままでしたので何事も念仏の助行でした。
いよいよこれがこの世の最後と決めた時、瞬間全身ことに胸と腹が鏡の如くガラスの様にすき通って見える。
死が恐ろしいとも、お慈悲が有り難いとも、故郷の親も、妻も、兄妹がなつかしいとも、何とも思わなかった。
ただ今ここに三十円の金がある。
この金一体どうすればよかろうと思った、妙なものですなー。
別にお金に執着がある訳でもないのに、国家から預かったお金を葬ることが気がかりであった。
かくして二三分の時刻がすぎた。
その時声ありて「お前はここで死なさん。帰す。帰ったなら一週間山で念仏せよ」と、この声を聞いて、無事帰国することを知った。
それまでは、死ぬとも、帰るとも思ったことは一度もなかった。
仰せのまま動いていた。
その爆音がだんだん大きくなり、敵機はいよいよ迫って来た。
爆風に備えて両目と両耳、手で押さえ口を開いてナアーナアー念仏聞いていたら、体が急にボーとなってエレベーターの上がる様な気持ちがした。
其の時、空に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と三声聞こえ、その念仏と私の口からい出ます念仏と一つに相通じている。
称える念仏でなく回向から通じる念仏である。
其の時私は吹き飛ばされていたのである。
そしてドーンと地上に落ちたらしい。
初めて〈やられた〉と気がついた。
しかし妙なことに、直立の形で落ちたらしい。
其の途端に壕の砂がくずれて、首から下は全部砂にうずもれた。
少しでも傾いて落ちたら、全く命がなかったはずである。
一時間の空襲である。
その時の痛さは言葉にかからぬ。
血を吐いた。
敵機が帰った後病棟の衛生兵が、タンカを持って来た。
ああナンマンダ仏やられたか、よしよし一番に掘り出してやると運んでくれた。
病院は陰も見えず、雨は降る降る火の手は上がる。
口にかからぬ。
私は早かったので一張りのテントの中に入れられたが後より送られる負傷兵はテントもなく露天に雨にさらされてウンウンうなってころがっている。
テント内は二十人ほど。
何百の負傷兵は雨ざらしの惨状はとても表現出来ない、身ぶるいするほど。
それを実地に体験した兵隊の思いは、いかばかりか。
戦争は悲惨の極みであり呪わしい。
病院と言うても手当もなく、いたみ止めの薬一包、その日の手当はそれで終わり。
食事にありつけぬ。
ショックで気が狂い大声でわめく兵、浪曲をうなる兵、両眼がどろんと飛び出している者、手足のちぎれた兵士、地獄もかくやと思う光景、水をくれと叫ぶ者、痛い痛いと泣く者、お母あお母あと呼ぶ者、子供の名前を呼び、雨にたたかれながら走り廻る者、雨で炎は消え煙りは大地をはう。
私も体の痛み一方ならず、ハエ一匹止まっても毛穴が立つ。
歯をくいしばって、小声で念仏聞いていた。
そこえ衛生兵が来て「ナンマンダ仏どこや」。
私は返事も出来ずナマンナマンと。
「そこか、えらい目に会うた、手を出せ」と言われるまま手を出す。アーイタと思ったら注射一本、〈熱も大分下がっている〉と帰った。
一時間、痛みが止まる。
亦泣きさけぶ者、だまれだまれと叱る者、叱った者がまた痛い痛いと泣く。
そこえ「ナンマンダ仏どこじゃ」と、「うーん、そこか脈を見てやる」。
アーイタ、また注射、苦しみが消える。燈火がないから他の兵に判らない。
其の空襲で目をやられて、右眼今でも視力がほとんどない。
ふと横を見ると将校の口からウーンウーンともれていた。
不思議に思って顔をのぞくと、その将校もまた私の顔をのぞく。
私たまりかねて「あなた念仏しなさるなー」。
将校も「お前も念仏するなー」と、その一言で意気投合して、もう何にも遠慮はいらぬ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。
それはそれは有り難かった。
するとまん中にいた兵士が悲しい声で「もう念仏は止めてくれ、止めてくれ、念仏の声を聞くと心細くて死ぬかと思う」と、哀願する。
それを聞いた私は身の痛さも忘れて座し、その兵に向かって「お前は何を言うか。
国出る時、七度生まれかわって国に報いん、と教えられたでないか。
そんなことで生まれかわることが出来るか。
念仏は死ぬ声ではなく生まれる声であるぞ」と。
その声聞くや兵は驚いて「どんな悪人でも生まれるか」と。
「必ず助かる」と。
兵はそれを聞いて苦しき中より自分のこれまで歩んだ悪の生活を全部告白した。
そして亦問う「こんな悪人でも助かるか」と。
「おれの様な悪人でも助かる。
お前が助からいでか」と、兵はそれでもまだ不安であったか「きっと助かるか」と。
念を押す。
その時「そんなこと、おれは知らん」と突き放す。
と、また「キット助かるか」とつき返した瞬間「仏説なるが故に」とゆう言葉がとんで出た。
その声を聞いて、重傷の兵士、驚喜してその場に端座して合掌、南無阿弥陀仏、と一声称え、そうしてまた、南無阿弥陀仏、と念仏称え、今度は直立不動の姿勢になり、合掌、南無阿弥陀仏、と一声大きく念仏してそのまま、バッタリと地上に倒れ、そのまま息絶えたり。
そしてその夜は、隣りの将校と共に念仏称えながら、足をなぜ、肩をなぜながら念仏。
〈ああ、この足で幾千里苦しかったなー。
この肩で、重い背嚢、かつぎ苦しかったなー〉と涙を流して、共にさすりながら通夜した。
涙、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 
よかったなー、涙、涙、涙。
夜明け前に、我にかえり、静かになったなーと、あたりを、ながめたら、三分の二は重なり合うて死んでいる。南無阿弥陀仏

・・・戦争の悲惨さは言うまでもありませんが、臨終説法とはこういうものかと思いました・・・

もっと沢山の体験が書かれていますが、私が気に入っている所をご紹介しました。
興味があれば読んで見てください。

南無阿弥陀仏阿弥陀様が私を呼ぶ呼び声です。
それは私が称えた声がそのまま阿弥陀様の呼び声なのです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏