とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

目に見えないもの

今、世の中は新型コロナウイルスのせいで大変なことになっています。
かつて無い経験をしています。
歴史を振り返ればなんども起きていることなのでしよう。
ペストや天然痘コレラに麻疹等は典型的です。
世界中に広まり沢山の方が亡くなっています。
先日もコメディアンの志村けんさんが亡くなりました。
亡くなって初めてその存在の大きさに気づきました。
大変な存在の人だったんだ、沢山笑わせてもらった、そんなこと今まで気づきもしなかった、.......誠にボンクラです。
その人の偉大さも全く感じずにいたのです。
目に見えていてもその価値に気づいていません。

ウイルスは確実に私の回りに存在します。
何故ならしょっちゅう風邪をひきます。
肺炎になる人もいます。
普段は忘れていますが残念なことに間違いなく在るのです。

志村けんさんが亡くなっていつも忘れている死を思い出させてくださいました。
今日が私の死ぬ日かもしれないのです。
しかし、私は今日死ぬとは思っていないのです。
今日死なないとは、明日になっても今日死なないと思うので、ずっと死なないことになります。

私は仏教を聞かせていただいて、阿弥陀様に頼りきって安心しているのです。
南無阿弥陀仏があって良かったと南無阿弥陀仏をあて力にしているので、死なないと思っています。
都合よく阿弥陀様を利用しています。
いくら阿弥陀様にお任せしていても必ず死はあります。
そして本当に阿弥陀様にお任せしているのかが問題です。

私にとっては目に見えないものは、無いのと同じです。
見ない、見たくない、目を塞いでいる、それが私の姿です。
目の前に危機が迫っているにも関わらずに。

南無阿弥陀仏も目に見えません。
声には聞こえますがそれが本当に阿弥陀様とは思えません。
文字にはなっていますが、それが阿弥陀様だとは思っていないのです。
なぜそう思うのか。
簡単です。
信じていないからです。
そして、信じる力が無いからです。
何一つ信じていない、せいぜい目の前に在るお金だけを信じているのかもしれません。
疑うことしか出来ないのです。
もっと言えば、何も分かっていないからです。

生も老いも病も死も何一つ分かっていないからです。
空海さんがおっしゃる通りです。

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し

 秘蔵宝鑰

阿弥陀様についても同じです。
阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏は名号と称名に分けて考える考え方があります。
そして、その称名について更に細かく分けて考えます。
その称名について親鸞聖人は大行とおっしゃいました。
そこで皆がよってたかって大行はこうだと言い始めました。
大行については、様々な意見があります。
衆生の称名はすべてお礼、報謝だと言う考え方が主流ですが本当でしょうか。
阿弥陀様が衆生に報謝を誓わせていますか。
テレビから流れてくる南無阿弥陀仏は何でしょう。
阿弥陀様ではないのか。
阿弥陀様でないとしたら何なのか。
単なる音だと言う人がありますが、それを評価する根拠は何か。
あまりに南無阿弥陀仏を小さく捉えているのではないかと思います。
親鸞聖人自身、大行を事細かに分類、分析はされていません。
お念仏について頭で念ずること、口に出して称えること、耳に聞くこと等に分類してそれぞれを評価していません。
教行信証の行巻には数行書かれているだけなのです。

............................
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。...............

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。
............................

そもそも阿弥陀様の本当のお姿は、真如のお姿であり色も形も無いのです。
働きなのです。
私が自覚出来るものばかりとは限りません。
だからこの世界でどのように働いているのか私の想像を越えています。
親鸞聖人も不可称、不可説、不可思議の南無阿弥陀仏とおっしゃっています。
そして南無阿弥陀仏の功徳が満ちていると言われています。


つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。

阿弥陀如来名号徳

五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

正像末和讃


ただただ南無阿弥陀仏阿弥陀様にお任せし称名するだけなのです。

「我に任せよ、我が名を称えよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

現在、ただいま、落ちるそのままです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


参考

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。
一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

教行信証 行巻