とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

自ら不幸になる道

最近新型コロナの影響でテレビも再放送が多いです。
再放送でも良い作品はたくさんあります。
私は何を見ているかと言えば映画がメインであとはニュースとドラマです。

そんな中、選タクシー という番組があります。
リアルタイムでは見たことが無かったのですが再放送されるということでしたので一度見てみようと思いました。(放送は終了しています)
内容を簡単に言いますと人生のやり直しをするというものです。
タイムマシンに乗って人生をやり直すのです。
それを見て思ったのですが、人は自ら不幸になる道を選んでいくことが多いのではないか。
どうしてそうなるのか。
常に私を基準に選択をしているからではないかと思ったのです。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めてそう思ったのです。
自分が一番幸福になるという考えが心の中心に来たとき、その選択はほぼ不幸の道に繋がっています。
私を含め私の回りの人を見ているとそう思うのです。
本人は全く気がついていないのです。
言ってあげたいと思うのですが、間違いなく反感を買うことが分かりますので残念ながらなにも言えません。
そして、自分も同じ選択をしています。
自分が幸せになりたい一心でつかみにかかるのですからカルトでも何でも掴みます。
バランスが悪いのです。
人のため、回りの人のために少し我慢すれば良いことでも、ちょっとでも自分が馬鹿にされたり蔑んだりされたらとたんに牙を剥きます。
そして、相手の弱点を探して噛みついてやろうかと思います。
その感情はマグマのように湧いてきます。


しかればある文には、「一人一日の中に八億四千の念あり、念念の中の所作皆是れ三途の業なり(一人一日中、八億四千念、念念中所作、皆是三途業)」といへり。

拾遺黒谷上人語燈録(厭欣沙門了惠集録)巻中 登山状 第一

ここで「ある文」とは、「浄土菩薩経」と言われています。
浄土菩薩経は、浄土三昧経とか浄度三昧経とも言われています。
昭玄沙門統曇曜の訳とされていますが、北魏時代に撰述された偽経であることが分かっています。
21世紀の浄土真宗を考える会 より引用ー
例の会で刷り込まれた善導大師のお言葉ではありません。

常に選択を間違えています。
だから惑業苦を繰り返します。

ー煩悩ー
『入阿毘達磨論』下に「身心を煩乱逼悩(はんらんひつのう)して相続するが故に煩悩と名づく」(正蔵二八・九八四上)と述べられ、身心をわずらい乱し、苦しめるものと解釈している。
人間は煩悩によって業を形成し、業の報いによって苦しみの生存(輪廻)に繫つなぎ止められる。
これを煩悩業苦(惑業苦:わくごうくともいう)の三道という。


一事が万事このとおりですので不幸にまっしぐらなのですが、不思議なことに阿弥陀如来という仏様とのご縁があるのです。
その仏様によって選択する道を導かれます。
そのお陰か分かりませんが、嫌なことは次々と起きますが最近はなんとなく平々凡々と暮らしています。
選択を間違いながらも導かれている気がします。
何故か分からないが阿弥陀如来様に引かれています。
そして、南無阿弥陀仏を嫌々ながらも称えています。
本当は称えさせられているかもしれませんが。

いずれにしても残念ながら私はこんなものです。
この考え方から自分だけの幸福を願って阿弥陀様を掴もうとします。
どう考えても仏になる道とは相容れない姿です。
阿弥陀様は私をそのまま連れていくと言われていますが、そのままの私とはいかなるものか考えたらとても救われる様なものでは無いことがわかります。
大いなる矛盾です。

世の中の些細なことさえ上記のとおりなのですから、まして仏の悟りを開くなどもっての他です。
それでも私を救うと仰っておられるのです。

私はいつも自ら不幸になる道を選んでいるのですが、常に阿弥陀様に正されているようです。
あとは煮るなり焼くなり好きにしてください。
どうせ私から出てくるのは文句しか無いのです。

申し訳ないことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏