とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

自分が思う幸福になるために努力することしか出来ない

山に登る人は多いと思います。
山の頂上は大変気持ちが良いところです。
山に登ったことのある方は分かると思いますが、山に登る前から本当に楽しい時間です。
登る途中は苦しい時間ですが頂上に着いてその疲れが癒されます。
しかし、それは一時的なことでずっとそこにいることは出来ませんので山を降りなければなりません。
世の中のほとんどはこのようなものです。
どれだけ頑張って手にいれたものでもいつかは手放さなければなりません。
当然死んでいく時は何一つ持っていくことは出来ません。
持っていくのは私が行った全ての行為(業、業種子)だけです。

では、仏教ではどうなのか。
お釈迦様はその考え方では本当の幸せになれないと判断されました。
自我に執着する事は苦しみであると。
目標を設定しそれに向かって努力することは必ずしも間違いではありませんが、向かっている方向が違うと行き着く先も異なります。
頑張って自分の自我を満足させることは、苦行とも言えます。
苦行からは悟りは得られないと判断し、お釈迦様は捨てられたのです。
お釈迦様は、瞑想(必ずしも座っているだけが瞑想とは限りません)という仏道修行によって自我に執着することによる苦しみから解放されることを教えてくださいました。
自我を抑制する事を教えられました。
教えを聞き、それを実践することで達成できると教えられます。

そして、それができた人が沢山現れて「もう、生まれ変わることはない」と言われました。
しかし、そういう方たちも今の時代は出て来られません。
お釈迦様のみ教えを体得出来る能力が現代に生きる私には当然ありません。

さて、今の私はどう生きるのが良いのでしょうか。
私には分かりません。
結局自分が思う幸福になるための努力しか出来ません。
だいたいそうでないことをやらされたらやる気が起きません。
結局自分で判断し納得するしか無いのです。

そのために必要なのがみ教えです。
お釈迦様はいらっしゃいませんが世の中には沢山の宗教があります。
そして沢山の指導者たる宗教家がいます。
そのなかから自分が選択するのです。
正しいのか間違っているのか自分で判断するのです。
本当に正しい判断ができるかどうかわかりませんが、結局この頭で判断するのです。
そしてそれが正しいかどうかは自分が救われてみて判断するのですが本当に救われた状態に成っているのかはその人その人で違ってきます。
よく例に出されるのがオーム真理教です。
それを信じて棺桶に片足を突っ込んだときにはもう遅いのです。
「しまった」で終わりです。
中には「しまった」とも思わずに死んで行く人も多いでしょう。

大変な事です。
基本的に一度しか無いと考える人生です。
選択を間違えるとどこに行くのか分かったものではありません。
私には何が正しくて何が間違いかを判断できないのです。
いま、私は阿弥陀様とのご縁を頂きました。
私は阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏を選びました。(本当は選ばされたのでしょうが・・・)
私はこれでよしと思っています。
南無阿弥陀仏を選ぶ選ばないは、最後は面々の御はからいです。

顕浄土真実教行証文類 (序)

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。
大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。


以下、本願寺出版の現代語訳

 わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

 ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。
これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来の慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものを救おうとお思いになったのである。

 このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれた教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。

 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。
如来の本願のなんとまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。
この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

 ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。
そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。

そこで聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏